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やけにしおらしかったじゃねぇか。そう舟雪に言われて修威は少しばかりのばつの悪さを感じながら「あー」と唸ってみせる。
「真剣に怒ってる人相手にするのは、やっぱ怖いもんで」
「怒らせたのはあんただろ」
「いやまぁそうなんだけど。なんかなぁ、なんかこう、すんなり受け容れたくなかったんだよ」
修威自身、どうしてそう思うのかはよく分からない。以前の抜き打ち避難訓練で感じた不信がまだ根強く残っているのかもしれない。何が危険で何が危険でないのか、修威達には判断のしようがないというのに。
「まぁいいや。とにかく教室戻って大人しくしてようぜ」
修威はそう言って考えることをやめた。行く手に3階へと下りる階段が見えてくる。荒野にふわりと風が吹き、湿った臭いが修威の鼻を掠めた。何気なく通り過ぎようとして、修威はすぐに異変に気付く。
「ん? 臭う」
「は? なんだ、火事か?」
「違う」
問い掛けてきた舟雪に短い否定の文句だけを返して修威はその場に立ち止まった。真奈貴が少しだけ焦った声で言う。
「修威ちゃん、止まらないで」
「この臭い」
修威は真奈貴の声に耳を貸さず、舟雪の顔を見やる。灰色の前髪の奥で鋭い目がびくりと見開かれる。
「なんだよ?」
「苗田、あの臭いだ。しねぇか?」
「え……?」
舟雪がくんくんと鼻をひくつかせて辺りの空気の臭いを嗅ぐ。真奈貴が再び声を上げる。
「修威ちゃん、上!」
「あ? っ!」
修威が空を見上げるのと舟雪がその身体をぐいと引いて跳ぶのがほとんど同時だった。そしてその直後、それまで修威が立っていたちょうどその場所に空から1匹の獣が落ちてくる。獣は空中でくるりと身を捻ると危なげなく着地し、四つ足で地面を踏みしめながら修威達に牙を剥いた。
ごわごわと硬そうな黒い体毛の奥で金色の目が活き活きと輝いている。さらに独特の湿った体臭が鼻をつき、空調の効いた屋内であるはずの場所に奇妙な風をもたらす。それはやはりどう見ても木人ではなく、生きた獣そのものであるように修威には見えた。
「またか」
ぼそり、と修威は呟く。また来たのか、と。以前この獣を見たのはあの緊急避難訓練の際で、そのときは間一髪のところで寧子に助けられたのだ。それでも舟雪は負傷を免れなかった。もしもあのとき寧子が来てくれなかったなら、一体どのようなことになっていたのだろうか。
金色の目をした獣はたった1匹で修威達3人の行く手を塞いでいる。修威と舟雪は勿論、真奈貴もまたその獰猛な瞳や牙を前にしては手を出せずにいる。修威は横目で真奈貴を見て、その青色の瞳がひたと獣を見据えている様子を眺める。彼女の黒髪がさわりと風になびく。
「真奈貴ちゃん……」
修威は彼女に呼び掛け、何かを言おうとした。何を言おうとしたのかは修威自身にも分からない。ただどういうわけか、真奈貴の名を呼ばずにはいられなかったのだ。真奈貴が修威と同じような横目での視線を返して寄越す。その瞬間、金の瞳の獣が駆けた。
「つっかあぁ!」
修威の身体が跳ねるように動く。得物を手放していなかったことは幸いだった。緑のラインが入った上靴で荒野の地面を蹴る。決して足場のよくないそこで修威が駆ける速度などたかが知れている。元々反応は鈍い方だ。しかしこの瞬間だけはどうしてか俊敏に動かざるを得なかった。
いや、本当は修威にも分かっていたのだ。自分はただ、真奈貴に怪我をさせたくないのだと。以前舟雪が負った傷が脳裏に蘇る。真奈貴が苦痛に顔を歪めるところなど見たくない。
修威の振るった鉛筆の先は鋭く光って獣の鼻先をかすめる。ちっ、と舌打ちした修威の視界がぐるりと回転する。脇腹に鈍い痛みを感じたと思ったら、直後に右太腿を焼け付く感触が襲う。痛みよりも先に熱を感じた。何が起こったのか分からないまま、修威は荒野の地面に全身を強く打ちつける。
「……っ」
獣の荒い息遣いと床の臭い。シャツを濡らす何かが冷えていく。修威は動かず、声も出さず、ただ細く息を吐き出した。目を閉じて意識を落としていく。これ以上痛みや何かを感じるのは嫌だった。
あけぞの!
舟雪の声が遠い。微かに真奈貴の声も聞こえる。いやいや気にしなさんな、と修威は胸の奥で苦笑混じりに告げる。馬鹿なのは俺だからさ、気にしなくていいんだよ。痛みが閉ざした唇は動かない。吐き出したい言葉は音にならない。それはそれで、よかったのかもしれない。
どうせ俺なんて。
「そうはいかないわ」
ひりりと耳を焼く、奇妙な熱を帯びた声。まるでいつかの再現だ、と修威はその場に伏したままぼんやりと考えた。そうはいかないのよ、しゅーいくん。少し舌足らずに自分を呼ぶその声は、いつかとは違って今や修威のよく知るものとなっている。
「……雛摘先輩」
呆然としたような舟雪の声が聞こえ、直後にどういうわけか彼はぎゃあと悲鳴を上げた。
「あらワンちゃん、あたしは雛摘じゃないわ。フェリシア・ルビィ……あたしはこの学校を守る変身ヒロイン、フェリシア・ルビィよ」
「いや、意味分からねっぎゃあ!」
緊張感を無に帰すようなやり取りに修威もそっと薄目を開ける。寧子……ではなく変身ヒロイン、フェリシア・ルビィとやらが身につけた真っ赤なハイヒールブーツが舟雪の上靴をがっちりと踏みつけていた。獣はというと、寧子……ではなくフェリシア・ルビィに恐れをなしたのかいくらか後退して様子を窺っている。
「修威ちゃん、大丈夫?」
いつの間にか真奈貴が修威のすぐ傍まで来ていた。修威は大丈夫と答えようとしてまだ声が出ないことに気付く。どうやらあまり大丈夫ではないらしい。むー、と出せる限りの声を絞って唸ってみせると、真奈貴はそっと修威の脇腹に手を置いた。
「……さ」
真奈貴が何かを言い掛けたそのとき、大きな影が修威達の頭上を横切る。そしてそこからやはり聞き慣れた声が降ってきた。
「大和瀬、それは神域のコードを侵す魔法じゃないのか」
「っ……歳沖部長」
ぎぎっ、と何かが軋む音と共に雄也の声が真奈貴の呼び掛けを否定する。
「俺は歳沖雄也じゃない。竜遣いのユールだ」
「あんたもかよ!」
思わずといった調子で舟雪がツッコミを入れる。修威は内心で彼に向かって親指を立てた。グッジョブ、よくやった。そして舟雪は三度寧子からの痛烈な踏みつけを食らって悲鳴を上げる。
「部長」
真奈貴は雄也……ではなく竜遣いのユールの名乗りを綺麗に無視してそう呼び掛ける。
「私達を助けてくれますか」
「勿論そのつもりだ。ルビィ、援護する」
「ええ、頼んだわよ。ユール」
奇妙な名で呼び合う2人は、しかし妙に楽しそうに獣を追い詰めていく。修威達の頭上に浮かんだ影はあの木製のドラゴン、プラテュスだ。プラテュスは雄也の声に応えてオオオと吠えると、その大きく開いた口から黒々とした炎を吐き出した。
「広げた翼は大樹のごとく、寄り添う者を守り抜く……昂れ、プラテュス・ドラゴン!」
普段は抑えた声音でぼそぼそと話す雄也が流暢にそう口上を述べる。空気を大きく振動させたその声は明らかな呪文となって彼のドラゴンに力を与える。プラテュスの吐き出した黒炎が深緑に燃え上がり、強い草の香りを撒き散らしながらその眼下に立ちすくむ獣を包み込んだ。
「今だ、ルビィ!」
「ええ!」
寧子は雄也に呼び掛けられたときにはもう駆け出していた。真っ赤なブーツの爪先が軽く地を蹴るだけでその身体は面白いように軽々と空中へ舞い上がる。アニメから出てきたかのような非現実的な衣装が華麗にひらりと翻る。そして落下の勢いに加えてくるりと身を捻った寧子の踵が緑の炎に焼かれて動けなくなった獣の眉間を易々と貫いた。
ぱきん、と何かが割れる小さな音が聞こえる。地面に横たわったままの修威の視界で、倒れた獣の額から小さなオレンジ色の石が転がり落ちて割れて砕けた。それを手袋をした誰かの手がそっと集めて拾い上げる。手の動きに合わせて何とか視線を持ち上げると、そこにいたのはいつもの作業服を着込み、何故かいつもはつけていないサングラスをかけた雄也だった。真っ赤なレンズが彼の青灰色の瞳を隠している。
「竜遣いの、ユール……?」
サングラスひとつの違いで彼はそう名乗ったのか。呟いた修威の声が音となる。雄也は寝癖がついたままのぼさぼさの黒髪を揺らして修威の方を向き、それからサングラスの下の口をふっと柔らかく緩めた。
執筆日2015/03/18




