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新しくはない部屋の中でそよそよと風が動いている。学生寮ではない。学生寮の部屋は窓のアルミサッシが剥き出しになっていたりはしないし、天井に人の顔のような形をした茶色い染みもできていない。
部屋の中心にはこの暑い最中に長袖のワイシャツと鮮やかな朱色のネクタイを身につけた若い男性がいて、背もたれのビニルが破れたパイプ椅子に腰を下ろして脚を組んでいる。その顔には笑みが浮かんでいるが、決して快い笑みではない。苦虫を噛み潰したように顔をしかめたいところを我慢して、あるいはそれ以上の感情が湧き起こっているためにそれを通り越して笑顔になっている。そのような笑みだ。彼は黒縁の眼鏡の奥で瞼の腫れた左目と腫れていない右目を同時に細めながら口を開く。
「諒、何か言いたいことがあるなら聞こう」
そう言葉を掛けられ、彼の斜め前で壁にもたれて立つ大柄な人影が動く。長い前髪の陰にある黒い瞳を伏せ、さらに背中まで伸びた髪を太い1本の三つ編みにして垂らしているその人影は、先程学生寮の近くで修威を待ち伏せしていたその人だった。諒、と呼ばれた彼は低い声で呟く。
「……悪かった。こいつがあんまり騒ぐから、むしゃくしゃして」
「やれやれ、それはまるきり犯罪者の言い分だね。いや、これはそもそも犯罪だ。キミは彼女を待ち伏せし、無理やり気絶させてここに担ぎ込んだ。立派な誘拐だよねぇ」
組んだ足の先をゆらゆらと動かし、黒縁眼鏡の彼は肩をすくめる。
「ボクはキミに誘拐を頼んだわけじゃなかったよねぇ」
「まさかあの程度で気絶するとは……おいお前今何て言った」
「なんだい?」
「……“彼女”?」
「ああ、キミは彼女を待ち伏せし、無理やり気絶させてここに担ぎ込んだ」
「……」
部屋に沈黙が降りる。諒と呼ばれた彼は顔を上げ、部屋の中にひとつ置かれた3人掛けのソファの上で眠っているTシャツに七分丈のジーンズ姿の少女……修威の方を見た。短い髪、飾り気のない格好、薄着をしていても目立たない程度の身体の丸み。彼はしばらくそうやって修威を観察し、それから黒縁眼鏡へと向き直る。
「どうして先に言わなかった。女なら俺も加減した」
「むしろどうして分からなかったのかと問いたいね。諒、キミはこんなに可愛らしい女の子を男だと勘違いして締め上げたのか。まったく呆れた奴だ」
「おい待て、どこをどう見たらこれを女だと思う。可愛らしい? その眼鏡、合ってねぇんじゃねぇのか」
「それは彼女に対する侮辱と捉えていいかね? それとも単にキミの審美眼が恐ろしく偏っていると、そういうことにした方がいいかね」
「お前の趣味がおかしいんだ」
「何を言う。いいかね、諒。可愛らしさというのは完璧さとは違う。確かに彼女には目に見える明らかな少女性はないかもしれない。しかしだからこそそこに秘められた可憐さというものが存在している。つまり女の子らしく振る舞うことをしない彼女が不意に頬を赤らめて上目遣いにこちらを見上げてくる様子を想像してみたまえということだね。どうだい、こみ上げてくるものがないかい」
「……ねぇよ」
黒縁眼鏡の振るう熱弁に対して諒と呼ばれる彼がうんざりした様子で答えたところで修威は目を開けて身体を起こすことにした。実は少し前に目が覚めていて、様子を窺っていたのである。むくりと起き上がった修威に対して黒縁眼鏡が「おはよう」と言う。
「手荒な真似をして大変に申し訳ない。気分はいかがだろうか」
「よくはねぇけど、そんなに悪くもないな。なんか手と足も綺麗になってるし」
「ああ、そちらは少し汚れていたようなのでうちの者が洗っておいた」
「おお、そりゃあありがてぇ。どうも」
「いやいや、こちらこそ本当に申し訳ないことをした。この通りだ」
そう言うと黒縁眼鏡は座っていた椅子から立ち上がり、修威の前で土下座をした。両手両膝を床に付き、額さえそこに擦り付けんばかりの平身低頭ぶりである。修威は内心でわずかに引きながらも「いや」と声を出す。
「そこまでしなくても訴えたりしねぇから」
「本来であれば訴えられても仕方のないことをしでかしたのだが、キミがそう言ってくれるのならありがたい。ほら、諒もぼうっとしていないで謝ったらどうだね」
「ああ……悪かった。身体、大丈夫か。頭痛とか、していないか」
諒と呼ばれる大柄な彼も切れ上がった眉尻をほんの少し下げて問い掛けてくる。口調こそぶっきらぼうだが悪人という様子ではない。修威は大柄な彼が口を動かす度に同調して動くその右下のホクロを何となく眺めながら「んああ」と生返事をする。謝罪はもういい。それよりも修威には気になっていることがあった。
「魔法。なんで街ん中で魔法が使えるんだ」
「ボク達もまさにそれについて尋ねたくてキミに声を掛けたんだよ、明園修威サン」
黒縁眼鏡が顔を上げ、パイプ椅子に座り直しながら言う。お? と首を傾げて修威は彼を小さく睨んだ。そして3人掛けのソファの真ん中にどっかりと座り直して胡坐をかく。どうやら真面目な話のようだと考え、修威なりに居ずまいを正したのだ。あくまで修威なりに、だが。
「そもそもお前ら何者だ。あ、自治会か」
「そうだね、まずは自己紹介といこう。ボクは2年の金北誉だ。お察しの通り、自治会に属している。というよりも今はボクが自治会の長だ」
「……自治会長?」
誉と名乗った黒縁眼鏡の首元で朱色のネクタイがその存在を主張している。修威はそのネクタイを睨み、やがて誉の黒縁眼鏡の下辺りへと視線を戻す。
「ふうん、で、自治会が俺に何の用事ですか」
じろり、と修威が睨むと誉は眼鏡の奥の目をほんの少しだけ細めた。意外と柔らかなその表情に修威は思わず視線を向けてしまう。そしてすぐに逸らす。
「本題はさっきも言ったように、今この街で魔法が使えるという事態についてだ。けれどもまずその前にひとつ、うちの武闘派担当、もとい書記の好諒太郎を紹介させてはもらえないかね」
誉がそう言って、壁際の大柄な彼を視線で示した。よしみ? と修威は何か引っかかるものを感じて首を傾げる。当の諒、こと諒太郎はそんな修威を不機嫌そうに見やって「2年の好だ」とだけ言った。誉がやれやれと両手を仰向けながら首を振る。
「諒、キミはどうしてそう女性に対して素っ気ないんだ!」
「お前みたいに無節操に誰でもかれでもいいってわけじゃねぇんだ」
「無節操? 失敬だねキミは。ボクはむしろ、そう、彼女のような女性がとても好みだ。このふてぶてしく両脚を組んだ佇まい、それでいてわずかに警戒心を覗かせる小動物のような愛らしさ、愛でたくなるのが道理というものだろう!」
「勝手にしろ……」
諒太郎は疲れたように溜め息をつくと、ふらりと部屋を出ていってしまう。修威はそれを見るともなしに見ながら「ふわあ」とひとつ欠伸をした。
「あ、思い出した。よしみ、って確かうちのクラスにもいた」
「ああ、1年4組の好希央サンだね。諒はその子の実兄だ」
「へー」
「キミのことを知ったのも、諒が妹サンから聞いてというのが始まりだった。そして面白そうだからと調べていたら、キミが木人部員であるということが分かったわけだよ」
木人部? と修威は誉に聞き返す。諒太郎もそうだが、彼らはどうして修威が木人部員であることや、そもそも木人部というものがあることを知っているのだろうか。修威の眼差しに疑問の色を見て取ったのか、誉は口元に笑みを浮かべながら少しだけ身を乗り出す。
「その辺りのことも含めて少しお話をしようじゃないか、明園修威サン」
「……ああ、日が暮れるまでなら付き合いますよ、自治会長さん」
負けじと挑戦的な目で返した修威に、誉はますます笑みを深くした。
執筆日2015/03/03




