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どうぞ、と手渡されたのは真っ白なマグカップだった。茶渋のひとつもついていないカップは新品なのか、それとも丁寧に洗われているのか分からない。どうも、と言って受け取った修威はカップの縁に下唇を当てて黒く揺れるコーヒーの表面に軽く息を吹きかけ、それから一口すすった。強い香りと共に舌に乗るのは酸味。口の中に広がる苦み混じりの風味がいやに豪勢だ。修威がこれまでに飲んだことのあるコーヒーはほとんどが缶に入ったもので、ここまでの芳香を感じたことなどなかった。ふうん、と修威は声に出さずに唸る。
「苦くないかな」
同じコーヒーを黒いマグカップに入れて持ちながら梶野が尋ねる。大丈夫ですよ、と修威が答えると梶野はフッと可笑しそうに笑みを零した。そして彼は何も言わずに修威の隣へと腰を下ろす。ことり、と音がして梶野のマグカップがローテーブルの上に置かれた。
「女の子を部屋に入れるなんて、何年ぶりかな」
「俺を女の子にカウントするんですか」
「しゅいちゃんは可愛い女の子だよ」
「へえ」
修威はひとかけらの興味も感じさせない声で相槌を打って、コーヒーをすする。慣れていないせいかずず、と音が立つ。梶野がくすりと笑う。
「ねえ、しゅいちゃん。一度聞いてみたかったんだ……しゅいちゃんはどうしてこの学校に。レーネ大和瀬に入学したの?」
笑みを浮かべたままの口元が、決して冗談ではない声音でそんな言葉を発した。修威はもう一度コーヒーをすすろうかどうか迷って、結局ずずずともう一口すすってから答える。
「ここでなら男子の制服を着て通うことが簡単にできるからです」
「簡単に?」
「他じゃそれなりに理由がないと駄目だって。たとえば、女子制服を着ることに強い違和感があるー、とか。身体は女子でも心は男だって診断があるとか。あとは小さい頃からずっと男子の格好で生きてきたからーとか。そんな感じ」
「そっか。確かにレーネ大和瀬は課外授業の関係で、女子でも男子制服を希望する子が何人かいるね。多くはないけど、課外授業のときに動きやすいからっていう理由は性別に拠らない」
そう、と頷いて修威はまたコーヒーをすする。少しずつ冷めていくコーヒーは徐々に酸味がまろやかになっていく。不思議だな、と修威はそのゆるりと漂う香りに目を細める。
「しゅいちゃんは学生服が着たかったの」
梶野の問い掛けに、修威はんーと唸った。
「別に学生服でなくたって、女子の制服でなけりゃ」
「そうなんだ」
「俺、スカート嫌いなんすよ」
ずずず。胡坐をかいてコーヒーをすすりながら修威はわずかに顔をしかめた。これほど良い香りに包まれているというのに頭の奥に鈍い痛みを感じる。明日は試験だ。面倒臭い。
「……眠い」
「しゅいちゃん、さすがにここで寝ちゃうとよくないよ?」
「そうっすね。赤点……」
「いや、勿論テストもだけど。そうじゃなくて。あのねしゅいちゃん聞いてる? スカートが嫌いでも、堂々と胡坐をかいていても、君は僕から見れば可愛い女の子なんだからね?」
「七山先輩物好きですね」
「しゅいちゃん、真面目に聞いて……」
修威の頭の奥に生まれた頭痛は目の前にある梶野の顔をどんどんとぼやけさせていく。暗く沈んでいく視界の向こうで梶野ではない顔が笑う。にたり、と形容するのが相応しい嫌らしい笑みを浮かべるその顔は特に目の辺りが修威によく似ていて。
「……」
ぎゅ、と目を瞑った修威の身体はそのまま後ろへと転がった。慌てた梶野が修威の手と、そして頭とを何とか支える。
「しゅいちゃん!?」
「……」
修威の耳には梶野の声が確かに届いている。辺りに漂うコーヒーの香りも間違いなくそこにある。しかし修威は目を開けることができなかった。全てがとても遠くにあるように感じる。口を開くことすら億劫で、修威はそのまま眠りへと落ちていく。
「しゅいちゃん! 大丈夫!? しゅいちゃん!」
寝かせてくださいよ。修威は胸の内で呟く。声に出す代わりに白いカップを持った手を軽く動かし、それをローテーブルの上に危なげなく置いてみせた。意識ははっきりしているのだ。ただとても眠いだけで、このまま眠ってしまいたいだけで、そこに梶野がそれほどまでに心配そうな声を出す理由などない。修威はテーブルにカップを置いたその指を3本だけ立ててみせる。30分。
「……しゅいちゃん」
修威の頭を支えていた梶野の手が、それを静かにカーペットの上に下ろした。それから何か気配がして、やがて修威の頭が再び持ち上げられる。そうかと思えばその下にそっと枕らしきものが差し込まれた。
「……いつもそうやって眠っているの?」
修威は答えないが、梶野の声はゆっくりと質問を重ねていく。
「ずっと気になっていたんだ。しゅいちゃん、君はどうしてこの学校に来たの」
先程と同じ問いだ。コーヒーの香りと溶け合うような梶野の声が修威の頭の中に染みていく。
「いくら珍しい魔法属性を持っていたって、ここは簡単に入れる学校じゃない。勉強、嫌いなんでしょ? なのに受験の時は随分頑張ったんじゃないの。何が君にそこまでのことをさせたの」
修威は答えず、目も開けない。横たえた身体の上に薄いタオルケットが掛けられた。
「僕は君に会ったあの課外授業のときからずっと疑問に思っていた。そして心配だった。君は自分でも目的が分からないまま、何か得体の知れないものに追われて走り続けているように見えるんだ。怪我をしても泣かないで、諦めないで戦うね。授業だから、だなんて殊勝な理由じゃないんでしょ。君が学業に対して真面目じゃないことはよく知ってる。なのに、課外授業のときの君は輝く程に真剣そのものだ」
そうだっただろうか。修威は梶野の声を聞きながらこれまでの自分のことを思い返してみる。しかしそれを試みる程に眠りの深みへと呑み込まれていく。意識の端がわずかにコーヒーの香りを捉える。
「巨木人に跳ね飛ばされても、地割れに落ちても、プラテュスに負けても。君は決して怖いと言わないね。どうやって倒せばいいのか、どうしたら攻略できるのか。そんなことを言っては口を尖らせている。僕や雄也に相談をして、課外授業をクリアしようとしている」
ん? と修威の頭にふと疑問が浮かぶ。梶野の声はどういうわけがひどく苦々しいものを含んでいるように修威の耳には聞こえた。課外授業とて授業のひとつには変わりない。成績評価もあれば、当然ながら内申点というものにも関わってくる。勉強嫌いの修威がひとつくらい真面目に取り組む科目があることは悪いことではないだろうに。どうして梶野は、それを咎めるような声を出すのだろう。
黒く沈んだ視界にコーヒーの香りと、梶野の声だけが鮮明に浮かび上がる。
「君はどうして魔法に執着しているの、しゅいちゃん」
「執着?」
どういうわけかするりと言葉が修威の口をついて出る。目はきつく閉じたまま、修威はふひっと笑い声を漏らす。
「執着……なんて、してねぇっすよ……別に」
「そうかい?」
梶野の声が低く問う。「本当にそうかい」と詰問に近い声音が修威の頭に強く響く。
「七山先輩」
「修威ちゃん、これ以上僕が君に何を聞いても……きっと君自身、答えを持っていないんだろうね。だからもう質問はやめにするよ」
「……」
「だけど、しゅいちゃん。お願いだから……もっと、よく考えてみてよ。君がここにいる理由、目的。そしてその先に何があるのか」
先と言われても修威には何のことだかさっぱり分からない。ただ少しずつ弱まっていく眠りの呪縛がすう、と修威の頭の辺りを冷やしながら通り過ぎてどこかへと抜けていく。自然と目が開き、視界に天井の色を捉えた。ああ、と修威の口から安堵とも溜め息ともつかない息が小さく漏れる。
「大丈夫、しゅいちゃん。起きられる?」
「うん……じゃない。ええ、多分。なんかすみません」
「いいよ。根を詰めすぎた……わけじゃないよね。勉強に飽きて眠くなっちゃったのかな」
子どもみたいだなぁ、と梶野はいつものように笑ってみせる。修威はすー、と長く息を吐き出してそれからよいしょと身体を起こした。手を伸ばし、ローテーブルの上の白いマグカップを手に取る。中身の残りはわずかだ。
「先輩のコーヒー、苦いけど美味いですね」
とろりと舌に味わいだけを残す液体を飲み干し、修威はニッと笑って梶野に告げる。梶野はありがとう、と答えて微笑んだ。それから「また淹れてあげるからいつでもおいで」とさりげなく修威を部屋に誘う。修威は当然のようにきっぱりとそれを断ったのだった。
「……しゅいちゃんつれない」
執筆日2015/02/10




