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S・S・R  作者: 雪山ユウグレ
第19話 苦い珈琲のルール
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 明日は真夏日になるらしい。学生寮の共用ホールに置かれた大画面テレビが流す天気予報を見るともなしに見ながら、修威(しゅうい)は手元に広げたノートを睨む。右手にはシャープペンシルも握っているのだが、そちらが仕事をする気配はない。降水確率は午前午後共に0パーセントです。まだ身体が暑さに慣れていない時期ですからね、熱中症に気を付けないといけませんね。気象予報士とニュースキャスターが和やかな調子で注意を促している。

「真夏日ねえ……真夏日に教室にこもってテスト……間違いねぇ、熱中症で寝る」

「寝ているのはいつものことなんじゃないの、しゅいちゃん」

 苦笑混じりの声が聞こえて、修威は振り返ることなくノートに視線を向け続ける。ちなみにこのノートの主は修威ではない。修威は試験を前にして見直すことのできるようなノートを取っていない。真奈貴に頼めば写させてもらうことはできるのかもしれないが、そこまでの熱意もないのだった。しかし赤点はともかく落第は避けたい。

 そのようなわけで修威は木人部入部の見返りとして梶野から過去の試験問題とその解答、そしてさらに彼が1年生のときに取ったノートを借りて一夜漬けを試みているのだった。高校生になって初めての中間考査は夏の訪れとともにやってくる。修威は部屋着のTシャツを無造作に引っ掛けただけの格好でノートを睨み、唸る。

「くそう……何書いてあんのかがまず全然分かんねぇ」

「しゅいちゃん、本当に授業聞いていないんだね」

 苦笑混じりの声の主、梶野はそう言いながら修威の座るソファの端に腰を下ろす。少し休憩したらどう? という言葉に修威はやっと彼に顔を向けた。

「今の俺に休憩する余裕があるとでも思うんすか」

「思わないよ。でもそうやって僕のノートとにらめっこをしていたってあんまり意味はないんじゃないの」

「こうやって見てたら俺の中の何かが頑張って内容を覚えてくれるかもしれないじゃないですか」

「うん、しゅいちゃん。自分の中の可能性を信じるのはいいけどその期待は無理があるよ」

 それは修威も分かっている。分かっているのだが、頭に入ってこないものは入ってこないのだ。梶野のノートは字も綺麗で図も丁寧に書かれており、さらに重要項目にはマーカーで印までつけられている。これまで黒一色でしかノートを取ったことのない修威からすれば市販の参考書レベルの代物だ。しかしどれだけ見やすく丁寧に作られた参考書であっても基礎のない人間が見てすぐに理解できるわけがない。

「しゅいちゃん、ひとまずコーヒーでもどう?」

「コーヒー飲んだらこのノート丸暗記できますか」

「うん、できるわけないよね。ああ、それともそんな特製コーヒーを作れる魔法使いを探す? 僕はおすすめしないけどね」

「七山先輩、勉強できる人なんすね……」

「しゅいちゃんよりはね。というよりしゅいちゃんは勉強する気が最初からないんでしょ」

「まー、あるかないかで答えるんだったら、ない一択ですね」

「言い切っちゃった」

 だって、ないものはないんすよ。修威はついにノートをテーブルの上に置き、ソファの背もたれに身体を預けた。しゅいちゃん、と呼ぶ声がして淡い色の髪が不意に修威の視界に迫る。

「うぬおっ。なんすか先輩」

「しゅいちゃん、そんなに勉強したくないならちょっと僕とお話しない?」

「今してるじゃないすか」

「僕の部屋で」

「……は?」

 共用ホールに修威達以外の生徒の姿はない。皆、明日から始まる中間考査のためにそれぞれの個室にこもってそれなりに試験勉強をしているのだろう。修威は自分の部屋にいると寝てしまうため、敢えてここでノートを開いていたのだ。ちなみに梶野がいつの間にホールに降りてきていたのか、修威は全く気付かなかった。

 梶野の笑顔が修威の目の前にある。穏やかそうな笑みは修威の見慣れたもので、その瞳が存外鋭く光っているのもそう珍しいことではない。それだけを捉えて修威は梶野の顔から視線を外す。

「七山先輩、寮則って知ってますか」

「勿論。でもねしゅいちゃん、規則っていうのは誰かがそれに反することをしたから設けられているんだよ。禁止されているからって、それをするもしないも決めるのは個人だ」

「はあ」

「僕は寮則より自分の良心を拠り所にしたいな。だからしゅいちゃん」

 すい、と流れるような動作で梶野は修威の手を取って立ち上がらせる。そして空いた手にはノートを持ち、にこりと微笑みながら歩き出した。

 レーネ大和瀬(やまとぜ)高等学校学生寮、愛称“既望(きぼう)寮”には男子生徒用と女子生徒用に2棟の高層建造物が用意されている。そしてその間を繋ぐように存在する共用ホールと食堂だけが男女どちらの生徒も利用できる場となっており、それぞれの個室のある棟は異性の出入りが禁じられている。年頃の学生を住まわせる寮としては当然の決まりだろう。万が一にも間違いがあっては困るということだ。

 そうはいうものの、梶野の言うようにそれに反することをしようとする者は少なくない。生徒達の噂になどまるで興味のない修威の耳にもときたまそういった話題が入ってくるくらいだ。規則で縛られると余計にそこからはみだしたくなるというのもこの年代の特徴なのかもしれない。かといって修威はそちらの方面には一切興味が湧かないのだが。

 髪も短く飾り気のない修威は男子寮の廊下を歩いていてもさほど目立ちはしない。また、幸いなことに試験前夜の今日は廊下に出ている生徒もほとんどいない。おかげで修威と梶野は誰にも見咎められることなく梶野の居室にまで辿り着くことができてしまった。

“M0707:七山梶野”

「7だらけですね」

「うん。入寮するときに希望はあるかって聞かれたからこの7並びの部屋にしたんだ」

「はあ」

 どうやら梶野は7という数字に何やら思い入れがあるらしい。そういえば修威も入寮の際に希望を聞かれたが、どうでもよかったのでそう答えた。どの部屋も間取りは同じで、強いて言えば日当たりが異なるといえば異なるものの、どうせ日中はほとんどの時間を校舎で過ごすことになるのだ。よほど住まいにこだわりのある者以外は寮の部屋の場所にいちいち注文をつけたりしないのではないか、というのが修威の考え方である。

「じゃあ今コーヒー淹れてくるから。適当に座ってて。あ、本棚の参考書とか見ていてもいいよ」

 梶野は部屋に入るとそう言っていそいそとコーヒーメーカーを操作し始める。修威は自分の部屋と同じ間取りの部屋を一度ぐるりと眺め、その内部の様子が自分のものとは随分異なることを感じながらベッドの前に置かれたローテーブルの横に腰を下ろした。そこに敷かれたミニカーペットはアイボリーと紺色のランダムストライプで、毛足の長さや触り心地の良さから察するに安物ではなさそうだ。当然このような洒落たものは寮の備品ではないので梶野が自ら持ち込んだものなのだろう。今更ながらに修威は彼の私生活に関することを何も知らなかったと気付く。

 コーヒーを淹れている梶野の後ろ姿を見るともなしに見れば、その服装は制服の半袖ワイシャツにスラックスといういつもの出で立ちだ。部屋の中に私服の類は見当たらない。おそらくクロゼットの中に収納しているのだろう。ちなみに修威は大概脱いだ服はベッドの上に放置してそのまま布団に潜り込む。クロゼットの中身は普段着ないコートやスーツケースで占められている。

「綺麗にしてるんすね」

 薦められた参考書には視線さえ向けずに部屋を眺め、修威はそう言った。コーヒーメーカーがぽこぽこと音を立て、やがて苦みのある香りが部屋に満ちていく。修威にはあまり縁のない香りだ。

「しゅいちゃん、カップはマグでもいい?」

「いいですよ」

「ミルクと砂糖は?」

「要らないっす」

 へえ、と梶野が小さく驚いたような声を出す。ブラックでいいの? と確かめるように問われて修威は梶野の方を見ることなく答える。

「眠気覚ましたいんで」

「ああ、なるほどね。じゃあちょっと待ってて」

「へーい」

 そうは言ったものの、修威の眠気は濃厚なカフェインごときで散らせるものでもない。ブラックコーヒーも所詮は気休めだ。そして修威は慣れない部屋の上等なカーペットの上で堂々と胡坐をかいた。

執筆日2015/02/10

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