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5時間目の授業が終わり、修威と真奈貴は連れ立って校舎1階の奥にある技術室へと向かっていた。発端は昼休みの終わり頃に修威の携帯電話へと届いた1通のメールである。送信者の欄には梶野の名前があり、修威は不審に思いながらも内容を読んだ。そして、そこにあった呼び出しに応じてこうして技術室にやってきたというわけである。
「ところで、いつの間に先輩とアドレス交換していたの?」
「初対面でいきなり要求された。助けられた手前、拒否するわけにもいかなくってだな……」
「修威ちゃん、そこは拒否してもよかったと思う」
「俺も今はそう思う」
しかし当時まだ入学して間もなかった修威は先輩である梶野の顔を立てた方がいいと判断し、メールアドレスの交換に応じたのだった。ついでにいうと、梶野のメールアドレスには“kajino”ではなく“casino”という単語が使われており、彼自身が彼の名前をもじって遊んでいることが窺えるのだった。
「にしても、なんだって技術室だ? 先輩っぽいかってぇとそんなこと全然ないと思うんだけどな」
修威はそう呟きつつがらりと音を立ててドアを開ける。木製の作業机と、かつての卒業生の手作りだという木製の四角い椅子が並べられた技術室の中は独特の木と油の匂いに満ちていた。奥からとんとんという音が聞こえる。修威がそっと机の陰を覗くと、そこでは紺色の作業服に身を包んだ生徒らしき少年が1人、額の脇にうっすらと汗をかきながら金槌を振るっていた。どうやら修威達の存在には気付いていないようだ。邪魔をしてはいけない雰囲気を感じ、修威はそうっとドアの近くにいる真奈貴のところまで戻ってくる。
「なんかいた」
「生徒でしょ」
「多分。なんかぼさぼさでとんてんかんてんしてた」
「うん、分からない」
修威の擬音混じりの説明に対して真奈貴はくすりともせずに言い放つ。修威は慣れたもので「てひゃひゃ」と妙な笑い声を立てながら近くの椅子を引いて座った。真奈貴もその1つ隣の椅子に腰を下ろし、肩に掛けていた鞄から青い表紙の文庫本を取り出して読み始める。修威はまだあまり利用したことのない技術室の内部を面白そうに観察していた。
修威と真奈貴が出会ったのは入学式当日であるが、初めて言葉を交わしたのは実は修威が梶野に出会った後のことだった。入学当初、修威は周りのクラスメイトとはあまり馴染まず、授業中の居眠り癖と教師からの度重なる注意もあってむしろ遠巻きにされていたものだった。真奈貴は真奈貴でほとんど周囲のことに関心を示さず、休み時間となれば今のように本を読んでいるのが常だったものだから、そもそも同じ教室の隣の席にいるという以上の関係になりようがなかったのである。
それが入学して初めての課外授業の後、梶野によって半ば無理やり保健室に連れて行かれてぶつけた後頭部のチェックを受け、課外授業以上の疲労感を覚えた修威が自席についたところで真奈貴から話しかけられた。その最初の一言は何であったのか、たった1か月程前のことであるというのに修威はもう思い出すことができない。ただ、そのときから修威と真奈貴の間には会話が生まれた。互いの呼吸を知っていった。
修威は技術室の内部を眺めることに飽きてきて椅子に逆向きに座り机に後頭部を乗せる。見える天井は灰色で、染みの数を数えようかと思ってやめる。代わりに一番大きな染みが何の形に見えるかということを色々と想像してみた。
真奈貴は黙々と本を読み続けている。ページをめくる音は小さく、修威は彼女の様子にはほとんど注意を払うことなく時間を過ごしていく。そうして20分程経った頃、技術室のドアが静かに開かれた。
「あ、お待たせしちゃってた。ごめんね」
そう言って入ってきたのは勿論、修威達をここに呼び出した張本人の梶野である。
「はい、待たせたお詫びにこれ。しゅいちゃんが苺で真奈貴ちゃんがチョコ、でいいかな?」
そんなことを言いながら梶野は2人に小さな袋に入ったロールケーキを渡す。校内の売店で売られているそれは最近の人気商品で、2人の少女は呆気なく相好を崩した。
「うまいっす、七山先輩」
「よかった、しゅいちゃん」
「しゅいちゃんはやめてください」
「じゃあ僕を梶野お兄様と」
「呼ばねぇっつってんでしょうが」
もぐもぐ、とピンク色をしたロールケーキを口に運びながら修威は先輩を相手にだんだんと口調を砕けさせていく。梶野の方は少しだけしょんぼりしながら、それでもどこか楽しそうにぐるりと技術室の中を見渡した。
「あれ、雄也は? 先に来て待ってるって言っていたんだけど」
「それって、あの人のことですか?」
真奈貴が先程修威の覗いていた机の陰を指差し、同じようにそこを覗き込んだ梶野は呆れた声で作業服の横顔に声を掛けた。
「雄也、女の子をもてなしもしないで何をやっているんだよ」
「……」
話し掛けられた作業服の男子学生・雄也はぼさぼさの髪を軽く揺らしながら梶野を見て、そして口を開く。
「今日の課外授業でお前が壊した木人の修理をしているところだが」
「ええっと、やっぱり怒っているの?」
「怒ってはいない。ただ、次の課外授業までに修理をしなければ階段の番人がいないという事態になる。そんな不始末を起こせば、この部の存続も危ういぞ」
「ごもっとも」
苦笑し、梶野は雄也に「分かった、邪魔はしない」と告げる。雄也はああ、と短く頷き、それから修威達に一瞬だけ視線を向けて軽く目礼をするとそのまま作業へと没頭していった。梶野が机の陰から身を起こして微かにふー、と息を吐く。束の間遠くなったように見えたその視線の先が修威達の方へと戻ってくる。
「と、いうわけでこの無愛想なのは歳沖雄也っていってね。うちの部の部長なんだよ、これでも」
「部長? えっとー、日曜大工部か何かですか」
「うん、しゅいちゃん。そんな部活のある高校は多分全国どこを探してもないよ」
そうはいうものの、作業着に金槌という出で立ちでひたすら木に何か細工を施していく雄也の姿を見ているとそれ以外の要素が見当たらない。顔をしかめて首を傾げる修威の隣で、真奈貴がうーんと唸った。
「次の課外授業までに修理する、階段の番人。そう言っていましたよね」
真奈貴の言葉に梶野がうんと楽しそうに頷く。ということは、と真奈貴は続けて言う。
「歳沖先輩が今やっているのは、今日の課外授業で七山先輩が粉々にした木人の修理……ということですか」
「真奈貴ちゃん、言葉に棘が見えるのは気のせい?」
「さあ、どうでしょうか」
真奈貴はにっこりと笑い、梶野は弱った様子でははは、と声を立てた。そんな2人のやり取りを聞き流しながら、修威はそっと雄也の傍へと歩いていく。日曜大工だろうが木人の修理だろうがそのようなことはどうでもいいのだが、何か雄也には独特の気配があった。
「歳沖先輩、3年生ですか」
修威の何気ない問い掛けに、雄也は手を休めることなく「ああ」と短い返事を寄越す。その声音に特別不機嫌な様子はなく、どうやら多少会話をしながらでも作業を進めることはできるらしい。修威はさらに問い掛ける。
「七山先輩と同じクラス?」
「いや。俺は7組だ」
「ふうん。その作業着、身体に馴染んでますね」
「入学してからずっと使っているからな」
「入学したときから木人修理をやっているんですか」
「いや」
答えて、雄也は顔を上げた。
「俺がやっているのは木人の修理じゃない」
「へ? でも今」
「今はそうだ。だが本来、この部は木人の製作を主に活動している」
ふぇあい!? と修威の素っ頓狂な声が技術室に響いた。
執筆日2014/11/04