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「苗田!」
突然地面に走った亀裂、そこに舟雪の身体が吸い込まれていく。修威は咄嗟に手を伸ばしたが、例えば漫画で見るようには現実はうまくいかない。その手はただ空を切って、舟雪は大きく目を見開いたまま暗い裂け目へと落ちていった。
「修威ちゃん、危ないよ!」
真奈貴の声がして、修威の身体は彼女によって亀裂の縁から遠ざけられる。え、と修威は表情の失せた顔で真奈貴を見た。
「真奈貴ちゃん、苗田が」
「……うん」
「苗田が落ちた」
「そうだね」
「何これ」
「……」
「何だよこれ! どうなってんだよ!!」
修威は焦って叫ぶが、その声はただ荒野に広がってやがて消えていく。地面にできた亀裂は深く、舟雪がどうなったのかはまるで分からない。修威の頭には不安と恐怖、そして後悔にも似た感情が次々と押し寄せてくる。
「なんで。せっかく階段を突破したのにどうしてこんな訳の分からねぇことに……!」
「修威ちゃん、落ち着いて。課外授業だから、苗田くんがどうにかなるってことはないよ」
「でも落ちたんだよ。あいつ、ここに、落ちただろ」
「修威ちゃん」
「それが授業か。そんな授業だってぇのか」
修威は手に持ったままの鉛筆槍を地面に向けて突き立てる。どす、と音を立てて土に刺さった2Hの鉛筆が荒野の真ん中に不可思議なオブジェのように立つ。修威は一度だけ目を閉じ、溜め息をついた。
「ああそうだな、授業ならワンコは無事だよな。怪我はするかもしれないけど死にはしねぇだろうさ。そんなことになったら学校側の責任問題ってやつだ。そりゃあ先生方もやってらんねぇよな。何か対策くらい立ててんだろう。だったら安心だ。ああ、とっても安心だよ」
真奈貴は何も言わずに修威の独白を聞いている。修威はゆっくりとした足取りで亀裂の縁まで戻ると、そこで金属製の定規を地面に置いて魔法を使った。大きくなった定規はまるで分厚い鉄板のようになって、亀裂の上に橋を架ける。修威が再び口を開く。
「けど、それで納得していいのかよ」
自分で架けた橋の丈夫さを確かめるように、修威は上靴の先でぱんぱんと定規を叩く。修威が少し体重を乗せても定規の橋はびくともしない。
「魔法ってのは、面白いな」
定規の橋の上に立って、暗い亀裂の真ん中で、修威はそう言いながら曇天を仰ぐ。それもまた誰かの魔法によって作られたものなのだろうか。魔法とは、課外授業とは、S・S・Rとは何なのだろうか。
「どうしてS・S・Rでは魔法を学ばせるんだ」
ぽつりと呟いた修威はそのままゆっくりと空へ向かって両手を伸ばし、両足を前へと振り出した。
修威の身体が暗い裂け目へと真っ逆さまに吸い込まれていくのを、真奈貴がじっと見送っている。やがて校内放送が課外授業の終わりを告げると、それまで彼女の周りに広がっていた荒野は嘘のように消えてなくなり、見慣れた学校の廊下の景色が戻ってくる。生徒達のざわめきが蘇る中で真奈貴は小さく項垂れてそこに立っていた。
「君もショックかい?」
穏やかな声がして、真奈貴は微かな溜め息を共に言葉を吐き出す。
「見ていたなら少しくらい助けてくれてもよかったんじゃないですか、先輩」
「残り時間も少なかったし、僕としては君達に自分達で実感してほしかったんだ。4階の課外授業……いいや、課外授業っていうものを」
そう言って、詰襟の学生服をきっちりと着込んだ少年、上靴のラインが青色である3年生の七山梶野はすぐそばの壁にもたれかかる。そこは第1音楽準備室と書かれたプレートを掲げるドアのすぐ横だった。この4階には普通教室はなく、あるのは2つの音楽室と美術室、それから大小2つの視聴覚室に、書庫も兼ねた大きな図書室だ。あとは半ば物置と化している教材室がいくつかあるだけである。
「修威ちゃんも苗田くんも、まだ1年生ですよ。15歳です」
「君もね。でも君達はここへ来るための階段を突破した。なら、この先へ行くための心構えも必要だ」
「スパルタ式ですか」
「そんな古代文明のことは知らないよ」
はは、と梶野は困ったような顔で笑ってみせる。真奈貴も少しだけ口元に笑みを浮かべた。
「そうですね。だけど先輩」
「うん?」
「先輩は修威ちゃん達が強くなるのが嫌なんでしょう?」
ザザ、と廊下に据え付けられたスピーカーからノイズが漏れた。課外授業が行われた時間の関係で次の授業を20分繰り下げて実施するという案内放送がなされ、それを聞いた真奈貴が「次は数学か」と何気ない様子で呟いた。
「じゃあ先輩、また」
さらりとそう言って、真奈貴は3階への階段を下っていく。梶野は黙って長身の彼女の背中を見送った。参ったなぁ、とその口が音を出さずにぼやく。それから梶野もまた、自身の教室へと戻るべく階段を下っていった。
修威は知っていた。課外授業で、例えば気を失うような大怪我を負った場合にどうなるのか。授業時間が終われば全ての魔法は消えてなくなり、気絶した生徒も無事に目を覚ます。場所は当然というべきか何というべきか保健室だ。
修威はこれまで気を失うほどの怪我を負ったことはなかったが、授業の後に擦り傷やらの手当てを受けるために何度も保健室を訪れている。そしてその際に何度かベッドの上で目を覚まして自分の置かれた状況に困惑している生徒を見掛けた。以前、そんな生徒の1人が目を覚ましてこう呟いていたものだ。「ああ、生きてたんだ」と。
「修威ちゃん、そんなに見つめていなくてもその子はすぐに目を覚ますよ」
背後からそんな声を掛けられたものの、修威はその場を動こうとしない。修威の目の前には淡い青色のカーテンで覆われたベッドがある。そこで寝息を立てているのは舟雪だった。修威はカーテン越しにベッドを眺めながら、背後の机で何やら書き物をしている白衣の養護担当教諭、そして真奈貴の父親でもあるジョージ・大和瀬に向かって声を投げる。
「先生、こいつ熟睡してんですけど」
「寝不足だったのかしらねぇ。たまにいるのよ、課外授業の後でここに運ばれて、そのまま昼寝しちゃう子」
ジョージののんびりとした口調に修威は少しだけ顔をしかめたが、やがてふうと小さく息を吐いて近くに置かれていた丸椅子に腰を下ろす。修威がここで目を覚ましたのは10分程前のことだった。隣のベッドに舟雪が寝ていることに気付いた修威はすぐに教室に戻ることはせずに保健室に居座った。ジョージも特に何も言わずにそのサボりを見逃し、修威のために丸椅子を出してきたのだ。
修威が椅子に座ったところを見計らってジョージが再び声を掛けてくる。
「階段番の木人を倒して4階に行ったんだってね?」
「……情報早いっすね。ああ、課外授業の様子は全部映像取ってあるんでしたっけ。それ見たんですか」
「それも俺達の仕事だからね」
教師ですから、とジョージは言う。修威は丸椅子の上で足をぶらぶらと揺らしながら、暇潰しも兼ねてジョージに質問をぶつける。
「4階、あれ何なんですか」
「何だと思う?」
「分からないから聞いてるんすよ」
「分からないなりに何か推測してみよう。別にこれは授業でも試験でもないから、間違ってて全然構わないよ。君の思った通りのことを言ってみてごらん」
「……はあ」
そう言われても修威はまだ先程見た光景が現実のものとは信じがたい。ベッドの上で目を覚ましたからなおさらなのか、まるで妙な夢を見ていた気分だ。しかしそうでないのなら一体どういうことが考えられるだろうか。
階段の番人を倒し、4階に上がった修威が見たものは見慣れた学校の廊下ではなく薄曇りの空とまばらな緑に彩られた荒野だった。風の匂いさえもまるきり本物のようなそこで突然地面が裂け、舟雪がその亀裂に落ちた。修威は彼の手を掴むことができなかった。混乱した修威の胸には最後、ぽっかりと空いた穴のような虚ろさだけが残った。それを今、修威は改めて自分の言葉で表現する。
「あれは……さっき俺が4階で見たのは、まるで天変地異か何かで人間がろくすっぽ生きていけなくなった世界の景色みたいだった」
そうか、とジョージはゆっくり頷く。正解とも不正解とも言わず、彼はもう一度「そうか」と繰り返した。そしてジョージは机の前から立ち上がると足音を忍ばせながら修威の隣にやってきて、そこに屈み込んだ。深い青色の瞳がじっと修威を見る。
「階段突破おめでとう」
その瞳に吸い寄せられて目を逸らせなくなった修威の前、薄青色のカーテンの向こうで舟雪の起き上がる気配がした。
執筆日2015/01/08




