2
舟雪の魔法はどうやらゲーム機を使うものらしい。ゲーム雑誌を大量に持ち歩いていたことももしかするとその辺りに関係があるのかもしれない。そうこうしているうちに、修威達の周りの景色がわずかに歪む。
「なんだ?」
修威と対峙する獣との間に1本の線が走った。中空に浮かぶ光の線はどう見ても実際にあるものではなく、魔法の類だろうと思われる。ということは、これは舟雪の仕業なのか。その舟雪が真剣な声音で言う。
「明園、その枠の中から出るなよ。今から俺がその線で区切った空間を動かして、そのでかい犬とあんたとを遠ざけながら移動させる。俺が合図したら校舎に向かって走れ、いいな?」
「お、おう?」
言われた意味を完全には呑み込めていないままに修威はとりあえずの返事をする。空間を動かす、とはどういうことだろうか。修威が内心首を傾げている間に、舟雪の魔法が始まる。
彼の指が目にも留まらない速さでゲーム機のボタンを操作する。すると修威の目の前で景色が横に引きずられるようにしてずれた。え、と思う間もなく辺りの光景は右へ左へ、前へ後ろへと高速の移動を繰り返す。修威の目から見える獣の位置がその度に変わり、舟雪の言った通りに徐々にその距離が離れていく。
「お、おお! なんか分からないけどすげぇ!」
「今だ、明園!」
舟雪の合図に修威は素直に従って駆け出した。なるほど、これは面白い魔法だ。舟雪はゲーム機を手にしたまま修威の後を追うようにして走ってくる。
「面白いな!」
修威が思ったままの感想をぶつけると、舟雪は「そういう場合じゃねぇだろ!」と返しながらもどこか面映ゆそうにする。普段より少しだけ緩んだ目つきの下で小鼻がぴくぴくと動いた。ますます犬のようだ、と修威はそんな舟雪の横顔を見て、そして。
べしゃっ
足元にあった段差に引っ掛かって盛大に転んだ。追い抜いた舟雪がおいと叫びながら振り返る。2人を追い掛けてきた獣が追い付いてくる。
「明園ぉ!」
半ば泣きそうな声で叫びながら、舟雪はゲーム機を放り出して両手で修威の身体を引き起こした。しかしその判断が命取りになる。
「あ、苗田馬鹿!」
抱え上げられながらも背後の様子を窺った修威の目に飛び込んできたのは、今まさに2人に追いつき舟雪の頭に向けて大きな口を開けて飛び掛かってくる獣の姿だった。生臭く湿った息が、これが現れる直前に感じた異臭が強烈に修威の鼻を叩く。
「なっろ!」
修威は身体を反転させ、未だ手放さずにいた鉛筆槍を振り回した。獣が一旦退く。逃げろよ、と修威は叫ぶ。
「転んだ俺が悪いんだ」
「っ、あのなぁ!」
「俺のポカにお前を巻き込んだら、俺はどうやって謝ればいいんだ? 逃げてくれよ!」
修威が怒鳴る間にも態勢を立て直した獣が2人の目の前に迫っている。槍を警戒してある一定の距離を保ってこちらを睨み付けるその眼差しにはただの犬にはない知性があった。これは何だろう、と修威はあまり回らない頭で考える。
自分は今、何と戦っているのだろうか。
これが課外授業でないなら、仮想敵“木人”を相手とした模擬戦闘訓練でないというのなら、その意味するところはつまり。
「にっ……逃げられるかっ!」
諦めの悪い舟雪が叫ぶ。そして彼はあろうことか、修威の身体を横抱きにして持ち上げるとそのまま校舎へ向かって走り出した。不安定な姿勢で揺さぶられ、修威は思わずぎゃあと喚いて舟雪の首の辺りにしがみつく。それでも何とか槍を手放すことはせず、迫り来る獣の位置を確認することも忘れない。
「苗田! 何すんだよ!」
「あんた走らすとコケるって分かったからな、だったらこの方が速い!」
「いや遅いから! 明らかに速度落ちてる! 追いつかれるぞ馬鹿!」
「……」
修威の指摘に舟雪は何も答えなかった。彼はただ修威を振り落さないようにしっかりと抱え、真っ直ぐに前だけを見て走り続ける。食いしばった歯の隙間から時折震えるような息が漏れた。
獣が舟雪の背に飛び掛かる。修威が言葉にならない音を叫んで、それでも舟雪は修威を放さず、走ることをやめもしない。愚かに、頑なに、彼は助かりようのない手段を捨てずに貫こうとした。獣の金色の瞳が嘲笑うかのように舟雪を見て、それを目にした修威の腹に何かぞっと冷えたものが生まれる。金色の目の奥に澱のように溜まった感情は侮蔑と、安い殺意だった。
は、と修威は小さく息を吐く。見たくないものを見た。獣が修威達を襲うことに意味などないのだ。ただそれからしてみれば修威達は取るに足らないものであり、その生命を奪うことに抵抗も何もないというだけのことだ。殺しても殺さなくてもどちらでも同じで、強いて言えば自分よりも下等な存在が自分に牙を剥いたことが癇に障ったから殺すことにしたと、ただそれだけのことなのだろう。
知りたくなかった。だから修威は人の目を見ることが苦手なのだ。いけないと思いながらも修威はぎゅっと目を瞑る。もういい。
「苗田、ごめん」
小さく呟いた修威の声に舟雪が息を呑む。ぎ、と彼の奥歯が鳴る音が修威の耳にも届いた。目を閉じた後の暗い世界で修威はふとその場に似合わないことを考える。
誰かに抱かれているというのは温かくて、心地いい。
すう、と修威の意識が霞んでいく。眠りに落ちようとしているときのように、世界に触れている感覚が小さくなっていく。あるいは世界と触れ合うための感覚器そのものが小さくなっていくかのような感覚を覚える。そうだ、もしもこの先に獣の牙や爪によって引き起こされる痛みがあるのなら、予めそれを感じないようにしてしまえばいい。痛みがなければ怖さも少ない。全部、全部小さく小さくしてしまえばいいのだ。それだけでとても楽になることができる。
「あら、可愛いワンちゃんがいるわね」
ひりりと耳を焼くような、奇妙な熱を帯びた声が修威の聴覚を呼び覚ます。薄れかけていた全身の感覚を取り戻すと、修威を抱いたままの舟雪が茫然と立ち尽くしていることが分かった。何が起こったのだろうと顔を上げた修威の視界に映ったのは、予想の範囲を大きく超えて難しい構図だった。
少女である。少し赤みを帯びた茶色の髪を頭の横でふたつに結わえ、残りを背中に垂らしたいわゆるツーサイドアップという形にまとめて赤いリボンで飾っている。修威から見えるのは少女の背中である。レーネ大和瀬高等学校の女子用制服の襟に似た白く四角い襟と、その下にとても制服のそれとは思えない非常に短いトップス。きゅっとくびれた腰のラインは肌が剥き出しになったままで、恐らく前から見ればへそがそのまま見えるのだろう。ローライズの長く白いスカートはどうやら前が開いているようで、風になびく度に裾が軽々と翻っていた。
少女の足元を守るのはこの学校という場にはあまりにも似つかわしくない鮮やかな赤色のハイヒールブーツだ。細く長いヒールの高さは果たしてどれほどあるのか、未だかつて踵の高い靴を履いたことのない修威には全く見当もつかない。あれで階段を上るときっと引っ掛けて転ぶだろうな、とそれくらいのことしか考えられない。とにかくその少女は突然空から降ってきた獣以上に異次元の存在として修威の目に映る。
「うふふ、ほうらワンちゃんいらっしゃい? ……あたしが相手になってあげるわ」
不気味な程に情熱的なその声がねっとりと修威の耳を撫でつけていく。思わずぞわりと肌を粟立て、修威はそのまま舟雪の身体にしがみついた。
「なんだあれ!」
「オレに聞くな!」
どうやら突然の闖入者に戸惑っているのは舟雪も同じらしい。なんだなんだと言い合う2人の前で謎の少女はふわりと軽やかに地を蹴った。
あ、と思う間もなかった。
少女の華麗な跳び蹴りがまず獣の眉間を打ち、ぐらりと傾いだその身体に一発目のヒールが叩き込まれる。例のハイヒールブーツのヒールである。細く尖ったそれは跳躍の勢いによって紛れもない凶器となって獣の身体に穴を穿った。直後、もう片方のヒールがその眉間に突き刺さる。
それはあまりにも呆気ない戦いの幕切れだった。
執筆日2014/12/07