1
修威と舟雪は芝生から出ると校舎の入り口を目指して足早に歩きだした。屋外スピーカーがどれも警告音を発し、離れた場所にあるそれらがわずかな時間差を持って修威達の耳に鳴り止まない音を響かせる。やかましいな、と修威はぼやいた。
「課外授業の音じゃないのは確かだろうけど、何なんだこれ」
するとそんな修威の疑問に答えるかのように警告音が一度ぷつりと切れ、代わりに男性の大声がスピーカーから流れてくる。
『全校生徒に連絡! 屋外にいる者は至急校舎内へ入りなさい! 校舎内にいる者は窓を閉めて鍵を掛け、その後は極力窓から離れなさい! 繰り返す、屋外にいる生徒は校舎に入り、校舎にいる生徒は窓を閉めて窓から離れなさい! 今すぐに!』
「な、なんだ?」
舟雪が戸惑った様子でスピーカーを見上げ、修威はむぅと少し考えた後でぽんと手を打つ。
「あ、今の声大和瀬先生だ」
「マジか」
どうやら舟雪は声の主に思い至らなかったらしい。修威にとっては友人の父親という立ち位置でもあるジョージなので、その声は他と比べていくらか修威の脳に深く刻み込まれている。あくまで他と比べての話であるが。
「珍しいなあ、大和瀬先生があんなおっかない声出すなんて」
「何かヤバい事態なんじゃねぇのか? つーか、そうやって呑気にしてねぇで早く校舎行くぞ!」
「おお、ワンコが微妙に頼もしく見えるね」
「ワンコって呼ぶんじゃねぇ!」
緊迫感のある放送を聞いてなお、修威達はまだどこか悠長な会話をしながら小走りに校舎へと向かう。今まで2人が過ごしていた芝生は校舎をぐるりと回り込んだ場所にあり、入り口からは遠い。だからこそ人通りも少なく、静かに過ごすにはうってつけの場所であった。今回はそれが裏目に出たということになる。
「くっそ、ついてねぇなっ!」
「悪態ついてても仕方ないだろー」
「なんでさっきからそんな落ち着いてんだよあんたは!」
「さあ。ああ、多分お前が俺より派手に慌ててるから? じゃあ俺慌てる必要ないじゃんって」
「どういう理屈だ!」
ともあれ、このようなときに1人でないということはそれだけで充分に心強い。修威もそれは分かっている。舟雪はそんな修威をちらりと見て、何か複雑そうな表情を見せつつ溜め息をついた。
「変な奴」
「えー?」
へらり、と修威は笑う。お前なんて黒染め失敗で脱色に走った灰色頭のくせに、と修威が言えば舟雪は噛みつくような勢いで振り返った。
「頭の話はやめろ!」
「だって一番目立つんだもん」
「知ってる! でもやめろマジで!」
知ってんのかい。修威がこらえきれずにツッコミを入れる。舟雪は「あーもう!」と呻きながらその灰色の頭をがしがしと掻きむしった。 しかし直後、そんな彼の表情が一変する。
「明園、止まれ!」
ぐい、と彼の大きな手が修威の腕を掴んでその場に修威を縫いとめた。ふぃあっ? と叫んだ修威の前に上空から何かが落ちてくる。だん、と大きな音がした。
「あ、はっ? なんだこれ」
「明園!」
修威の目は自然とその落ちてきた物体を見る。大きな塊だ、もじゃりとした硬そうな毛をまとわりつかせた。それは修威の目が捉えた限りで言えば4本の肢と2つの耳と、そして1つの口を持っていた。目らしきものを確認するより早く、修威の身体は舟雪によって後ろへと引きずられる。
「なんだよこの化け物!?」
大きな背中の向こう側から舟雪の声がする。長身の彼の後ろに庇われる格好になった修威はその脇腹を押しのけて前に出ようとした。舟雪が修威の頭を押さえて怒鳴る。
「馬鹿、危ないから出てくるんじゃねぇ!」
「お前俺を何だと思って」
修威の反論を待たず、空から落ちてきた4つ肢の何かが咆哮する。うおおおおん、とよく響くその声はまるでテレビで見る狼の遠吠えのようだ。うおお!? と修威も思わず身をすくませる。
「犬、か? 犬にしてはでかいし、なんで空から?」
「言ってる場合か! 逃げるぞっ」
舟雪が修威の手を引いて走り出す。しかし修威はその勢いに負けてつまずき、膝からべしゃりと転んだ。あっ、と舟雪が慌てたように叫んで振り返ったときにはもう遅い。2人のやりとりが刺激になったのか、遠吠えを繰り返していた獣のような何かが毛深い顔の奥に隠されていた金色の瞳をぎらりと光らせて修威を見た。
があおう!
冗談のような声と共に獣が飛びかかってくる。まるで人間を見たら襲えとでもしつけられているかのようだな、と修威は不思議と冷静な頭で考えた。その指先が学生服の内ポケットから1本の長い鉛筆を取り出す。
2Hの芯を持つ硬めの鉛筆。極限まで尖らせた先端を保護する銀色のペンシルキャップを弾くように外してその辺に放り投げる。どうせ替えはいくらでもあるのだ。ただひとつ、賭けるとすれば今このときに「それ」が許されているのか、どうか。
そうは言うものの、分の悪い賭けでないことは分かっていた。これまでにも何度か経験してきた感覚が、理屈ではない何かで修威の全身に伝えているのだ。
今なら魔法を使うことができる、と。慣れとは奇妙なものだ、と修威は深く考えることもせずに鉛筆を槍と呼べる大きさにまで拡大した。「魔法!?」と舟雪の声が裏返る。
「おーりゃあ!」
修威は舟雪の方には顔ひとつ向けることなく、ただ毛むくじゃらのそれに対して鉛筆の先端を突き出した。反撃されるとは予想していなかったのか、獣はがうっと吠えて飛び退く。修威はさらにそれを追う。
「逃げんのか、おらあ!」
「明園、無茶するな!」
「やかましいっ! なんだか知らないけど魔法が使えりゃこっちのもんだ!」
「そう簡単にいくかよ、木人じゃねぇんだぞ!」
至極真っ当な舟雪の意見を修威はひとまず無視する。確かに相手は木人ではないし、今は課外授業の時間ではない。安全は保障されておらず、戦っても成績には繋がらない。しかしそれでも。
「だったら、どうやって逃げるんだよ! 校舎に入る前に追いつかれるのがオチだろうが!」
「っ!」
修威が言い返した言葉に舟雪はハッとした様子で表情を変える。そう、獣の足は速い。舟雪1人であればひょっとすると逃げ切れるかもしれないが、小柄な修威には無理な話だ。そもそも修威はあまり運動能力が高い方ではない。普段から居眠りばかりしているせいもあってか、基本的に反応が鈍いのである。
「逃げたいんならとっとと行けよ、俺はそれができねぇからこうしてんだ」
鉛筆槍を片手に獣を牽制しつつ修威は言う。はっ、と舟雪が不愉快そうに息を吐いた。
「女1人置いて逃げる? できるわけねぇだろ」
「おお、ワンコが格好のいいことを言った」
「ワンコって……とか言ってる場合じゃねぇな。明園、あんたが逃げられる時間を作れば逃げるんだな?」
まさかそれでもなお戦うつもりじゃないだろうな、と舟雪は睨み付ける視線で修威に問い掛ける。勿論だと修威も頷いた。
「誰がこんなのと好き好んで戦うかよ。逃げたいよ俺だって」
「分かった、じゃあ少し任せる」
「え、任せるの!?」
「オレは後衛系なんだよ!」
ぎゃん、と吠えて舟雪は先程の修威と同じように学生服の内側から何かを取り出した。しかしそれは修威の鉛筆と比べてずっと大きく、頑丈そうで、さらに人工的なものだった。滑らかなパープルに輝くプラスチックのカバーが日の光を受けてきらりと輝く。表面にいくつも取り付けられたボタン。両手で持てばちょうどそれらが手指の位置に収まり、その手に挟まれるようにして配置されている画面が舟雪の声に応えるようにして黒からオレンジへと色を変える。
「起動! モードセレクト、スライディング・パズル」
ビィン、と舟雪の手の中で紫色の人工物が唸る。様子を窺うように黙っていた獣が再び修威達に向かって大声で吠えたてた。修威は弾かれたように鉛筆槍を振り回す。
「時間稼ぎなんざぁ趣味じゃねぇが、やるときはやるんだからな!」
ばちん、と振った鉛筆の先が獣の額に偶然命中した。ぎゃん、と獣が一声鳴く。舟雪の手の中で唸っていた人工物……携帯型のゲーム機がその場に似合わない軽やかな起動音を立てた。
執筆日2014/12/07