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修威達が生まれる前、例えばその祖父母や曾祖父母の時代。魔法というものは今よりももっとずっと夢のあるものだったという。教科書にもあったように、魔法とはどのような方法を用いても再現できない奇妙な現象を指す言葉として使われてきた。それはときに奇蹟であり、いわば夢を叶える方法だったのだ。その頃に考えられていた魔法であれば、あるいは舟雪の悩みを解決することもできたのかもしれない。
「まあいいじゃん、割と似合ってるぞその髪」
「本気かよ」
「おう。そのでっかい体格で髪の色抜いてその目つき、3つ揃って立派な不良に見える」
「そうやってまた喧嘩を売ってくるんだなあんたは」
「喧嘩売ってるつもりはひとつもねぇよ。そう見られたくねぇならどっか直せば? でもお前がそのままでいいんならそれをどうこうする必要もねぇだろ。他からどう見えるかなんてその程度のことじゃねぇか」
修威はそう言って横に座る舟雪の髪へと手を伸ばす。意外なことに彼は避けたり抵抗したりはしなかった。修威の指が彼の灰色の髪をつまむと、舟雪は持っていたパンを一度袋に戻しながらその修威の手首を捕まえる。
「うお、何すんだ」
「いや、思い出した。あんた、明園っていったな。課外授業の度にでかい棒きれを振り回して木人を倒しまくってる奴がいるって聞いたことあるぞ。学ランの女子ってのも。あんたのことだったのか」
「ありゃま、知られてた」
「で、昨日の授業の結果で入学1か月にして3段に上がった」
そこまでかよ、と修威はやや面倒くさい気持ちになりながら言う。舟雪はそんな修威の目をひたと見据えながら、まるでその奥を見透かそうとでもするかのようにじっと息を詰めていた。
「や、めてくれ。そうやって見られんの好きじゃねぇ」
『人は顔色や目つきで、心の内に隠している思いや考えを示していまス』と、今朝技術準備室で奇妙な木人のぽくじんに言われた言葉が修威の脳裏に蘇る。修威はあまり人の目を見て話す方ではない。そして同時に、じっと見られて話すことも好きではない。
もしもそこに隠された感情や考えがあるのなら、それは永遠に隠しておけばいいのだ。互い暴き立てて、それで分かり合えた・通じ合えたなどと手を取って喜ぶ気になどなれない。知りたくないし、知られたくもない。人間の内側にあるものなど。
「明園?」
目を逸らした修威に、舟雪は怪訝そうに首を傾げている。その表情からはこれまであった警戒心や棘のようなものが抜け落ちて、つい数か月前まで中学生であったことを強く思い出させるようなあどけない素顔が現れていた。修威はたまらず目を閉じる。
「……悪い」
舟雪は素直な口ぶりでそう言うと、修威の腕から手を離した。そしてしばらくビニル袋の中をごそごそと探り、中から鶏肉と玉子を挟んだパンを取り出す。
「おら、これで許してくれ」
「……売店の極旨とりたまパン?」
「さっきの授業の後必死こいて走って勝ち取った」
「自分で食うために頑張ったんじゃねぇのかよ」
焼きそばパンとカレーコロッケパンを食べてさらにとりたまパンまで食べるというのは随分と食いしん坊なことだと思いながらも修威は一応そう言い返す。いいんだ、と舟雪は言った。
「それにあんた、飯まさかそれだけか?」
修威の傍らのビニル袋を指差す舟雪。透明な袋の中身が小さなジュースの空きパックだけであることは誰の目にも明らかだ。修威としてはそれで不足もないのだが、何故か差し出されたパンを拒む気にはならなかった。
「ありがと」
修威がははっ、と笑いながら売店の人気パンを受け取ると、舟雪はどこか安心したような優しい色を目に浮かべてもう一度「悪かったな」と謝罪の言葉を口にした。気にするなよ、と修威はパンの袋を開けながら言う。
「俺の方こそ色々悪かったよ。お前、いい奴っぽいからついからかいたくなる」
「ああ、それよく言われる。別にからかわれるくらいいいんだけどな、ついこっちも熱が入っちまう」
「よく言われるんだ」
「おう、よく吠えるけど噛みつかない犬っころみたいだって」
「やっぱりワンコなんじゃねぇか」
「そっちの意味じゃなかっただろうが、あんたのは」
犬のような少年はビニル袋から先程の食べかけであるカレーコロッケパンを取り出して食べながら苦々しい顔で言う。修威はそんな彼の横顔を横目で見ながらふふふと笑い、鶏肉と玉子を挟んだパンをかじる。塩胡椒で味付けされた鶏肉は程よい厚みで歯に弾力を感じさせ、輪切りにされたゆで卵との相性は抜群だ。この手のパンには珍しく、間に挟んであるレタスからは水気がほとんど出ていない。どうやら作る際にきっちりと水切りをしているらしい。パンの表面はかりりと硬く、中は肉汁が染みて柔らかい。なるほどこれは“極旨”の名を冠するにふさわしい代物だ。売店ですぐに売り切れる程の人気商品になるのも頷ける。
「うまいなぁ、このパン」
「だろ。廊下ダッシュで買いに行く価値あるだろ」
「いや、俺はダッシュはしないけど」
「課外授業以外は体力温存か?」
「そういうんでもないけどなぁ。俺あれだ、ダッシュしたら大体コケる」
「えっ、ダセぇ」
パンを咀嚼する合間に2人はそんな風に言葉を交わした。他に通る生徒もいない芝生の上でゆったりと食べるパンは修威にとっても意外な程においしいもので、たまにはこういうのも悪くないと思う。パンを食べ終えた修威は「ふいー、食った食った。ごちそーさま」と空に向かって言いながらまた芝生に寝転がった。舟雪は苦笑と呆れの間のような表情を浮かべてそんな修威を見る。
「自由な奴だな」
「そうかね?」
少しだけ風が冷たくなってくる。明日雨だっけ、と舟雪が言って空を見上げた。空の色は綺麗な青だが、流れる雲が少しだけ速い。爽やかだった風に不意に生臭いような臭いが混じる。
「なんだ、この臭い」
くんくん、と鼻を動かしながら修威は顔をしかめる。雨来るか? と舟雪が尋ねて修威はいいやと首を振った。
「雨の……水の匂いとは違う」
「そんなの分かるのか、あんた」
「え、分かるだろ?」
「いやオレは分かんねぇ」
「ちゃんと嗅いでみろよ。なんかこう、なんだこれ、冷蔵庫が壊れて中の肉が腐ったような臭い」
「……それあんたの実体験?」
なんで肉が腐るまで冷蔵庫が壊れていることに気付かなかったんだ、と舟雪が至極真っ当なツッコミを入れる中、修威は身を起こして辺りの臭いを嗅ぐ。やはり空気に何か妙な臭いが混じっているようだ。
「おいワンコ! お前ももっと鼻を利かせろ!」
「いや、だからあんたが言ったそれって犬のことじゃねぇだろ……って、なんだ? 本当に変な臭いがするな」
舟雪がそう言ったそのとき、芝生の横に設置された屋外スピーカーからけたたましい警告音が鳴り響く。
びーっ、びーっ、びーっ、びーっ、びー
「これ、課外授業の?」
修威は不可解だという表情でスピーカーを見上げる。これまで課外授業が休み時間に始まることはなかった。それは当然のことで、課外授業という名称ではあるもののそれも正規のカリキュラムに組み込まれた“授業”なのだ。休み時間は休むための時間であり、課外授業が行われるはずはない。
警告音が鳴り続ける。課外授業であれば合間にその開始を告げるアナウンスが入るはずだ。ではやはりこれは課外授業の開始を示す音とは違うものなのだろうか。戸惑う修威に舟雪が言う。
「何か変だぞ、明園。校舎に戻ろう」
「お、おおう」
さっと立ち上がった長身の舟雪がごく当たり前のように修威へと片手を差し出す。へ、と一瞬修威はためらった。
舟雪は気持ちの好い人間だ。昨日知り合ったばかりの、しかも決して好印象とはいえないだろう相手に向かってこんな風にするりと手を貸してみせる。そういうものなのか、と修威はどこか上の空で舟雪を見上げた。灰色の髪を透かして降る陽射しが、眩しくて。
未だに鳴り止まない警告音を背景に修威はへらりと笑いながら自力でその場に立ち上がった。
執筆日2014/12/02