Case02:忘れ物と炭酸
「あーあ…逃げちゃった」
「初対面でいきなり抱きつく奴があるか。アホですか」
「アホじゃないよ!」
拗ねる所長――神道雅は、唇を尖らせながら溜まった書類を片づける作業を再開させた。
先ほどは、いきなり抱きついて説明もせずにいろいろ喋りまくった所為で少年を逃してしまった。
ため息をついた牧屋華は白衣を脱いでロッカーにある自分のハンガーにかけた。
(あの少年…)
昨夜は強力な【影】の出現を発見し、所長自らと右腕である自分も出動した。
宿り主は小柄な少年。見た目からして中学生くらいか。
その小さな体に宿った【影】の濃さは相当なもので、その分苦しんだのだろうと唇を噛んだ。
所長が変態行為に走る前に、さっさと片付けてしまおう。
そう思っていた。
「…ぼく、は」
「!」
「驚いた…あそこまで浸食されても喋れてる」
「ぼく、は…変わるって、決めたんだ!!」
変わる。
少年がそう叫んだ瞬間、彼の足もとに黒く光る円ができた。
【影】よりも澄んだ綺麗だと思える純粋な黒。
円は瞬く間に広がり、倒れた体を囲うようにして止まった。
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああああああ』
「これは…っ」
「…」
少年に纏わりついていた【影】は円の中で浄化されるようにして霧になった。
普通の人間にはできない事だ。
これは。
「所長、彼は私たちの仲間でしょうか」
「決めつけるのはまだ早い。この出来事をもし記憶していれば…ビンゴだけど」
そう言って所長は、倒れている少年の髪をそっと撫でた。
優しい表情で見つめる所長には普段の変態の二文字はなかった。
「…」
「華さん…」
「ん、どうした。紗那」
考え込んでいた華の服を遠慮がちに神宮紗那が引っ張った。
先ほどまで読んでいた本は読み終わったようだ。
自分より低い彼女に目線を合わせると照れたように顔を赤らめた。
照れ屋の彼女が必死に何かを伝えようとしている。
聞き逃さないように耳を傾けた。
「あ、あの…あっちに…忘れ物」
「忘れ物?」
「そう…さっきの人が、カバン忘れていきました」
「…」
覗いてみると、確かに学生が持っていそうなカバンが一つ置いてある。
そういえば渡すのを忘れていたな。
そう考えて、華ははっと雅を振り返った。
話が聞こえていたらしい雅はニヤニヤと笑いながら手を組んでいる。
「これは再会パターンですねぇ」
「セクハラはダメですよ」
「しないよ!大体、可愛いものを愛でて何が悪い!」
「愛で方にもよるんですよ!どうして抱きついた上にいやらしい触り方してるんですか!」
「誰かやらしいって?!」
始まった恒例の口喧嘩におろおろしている紗那の頭を撫でて、佐々野茜は漫画を閉じた。
隣の医務室のベッドに座ると、忘れ物のカバンを調べてみる。
なんとなく彼が気になったのだ。
偶然、一番上には教科書が入っていたので名前を確認した。
「ねこがみ…まさと…ねこか」
「し、しまった…カバン忘れてきちゃった…」
学校の前まで来たが、すぐに両手が空いている事に気がついた。
きっとさっきまでいたあの場所に忘れてきたんだ。
「うー…また行くのかぁ…」
「あれ?猫神?」
「あ」
声をかけられて俯いていた顔をあげると、選択科目で同じクラスの男子生徒がいた。
隣には彼女らしき女子生徒が不思議そうにこちらを見ている。
「遅刻?」
「う、うん…?」
「真面目なお前でも遅刻したりすんだなぁ。でももう学校終わったぜ」
「え」
「今日午前中授業だし」
「あ!」
そうだった。
今日は土曜日の時間割。
落ち込みながらもお礼を言うと、なんとなく学校の中庭にあるベンチに座った。
人があまり来ないここは、正人にとって癒しの場所だった。
校舎に囲まれて横からの光は入らず、頭上からの太陽光が温かい。
同時に狭いことから、幼い頃に遊んだ秘密基地を思い出した。
小さく聞こえてくる小鳥の声に耳を澄ませる。
ゆっくり深呼吸すると、昨夜と今朝の事をもう一度頭の中で整理することにした。
(なんだったんだろう…あの炎…あの人達も…)
黒い紫のような炎。あれを思い出すだけで心臓が痛くなった。
自分の胸に右手を当ててみる。
しばらく経っても何も起きない。ましてや炎なんて出るワケが無い。
しかし、確かに昨夜は自分の体から炎は出ていた。
「んー…はっ」
試しに両手を右腰に当てて、思い切り突き出してみる。なにも起きない。
流石に有名なアニメのキャラクターのように技は出せなかった。
「ふん!…駄目かぁ」
「何?必殺技の練習か?」
「ッぇ?!」
人の声に驚いて立ち上がるときょろきょろと辺りを見回す。
こっちだよという声に見上げると同時に、秀がカバンを抱えたまま飛ぶのが見えた。
ちょうど太陽と重なった秀に目を細めると、そのまま衝撃が正人を襲った。
思わず尻餅を着くと、着地した秀に慌てて引き起こされる。
「悪い!大丈夫か?!」
「し、秀君…?」
「まさか避けないとは思っていなかった…すまん」
「い、いや、僕の方こそ。ぼーっとしてたから」
制服についた草を掃いながら上を見上げる。
校舎のこちら側には窓はない。
飛び降りてきたとすれば、屋上からだ。
「秀君…まさか、屋上から…?!」
「ん?あぁ」
「だ、大丈夫なの?屋上って5階じゃないか」
「大丈夫。俺は体の強さが取り柄だし」
そういって笑顔で力こぶをつくる秀の腕の筋肉は、程よい具合についていた。
見た目は球技系の部活でもしていそうだが中身はとても文化系な彼の一体どこにそんな強さがあるのだろう。
試しに自分のカッターシャツの袖を捲くった腕を曲げてみるが、筋肉なんて無いに等しい。
なんとも貧相な体だ。
「筋トレしようかな…」
「やめとけ。にゃんこには似合わない」
「そう…?」
捲った袖を元に戻すと、もう一度ベンチに座った。
隣に秀も腰かける。
秀はカバンから缶ジュースを二本取り出すと、一本を正人に手渡した。
「お前、こんな所でサボりか?」
「ううん。遅刻してから、ここで考え事してた」
「ふーん」
受け取った缶ジュースは炭酸で、あやうく振りそうになる手を止めた。
走ってきて疲れた喉に炭酸は刺激が強かったが、不足していた水分が補われていくのを感じた。
半分ほどになった缶の中を覗きながら、ふと疑問を口にする。
「秀君、ここにはよく来るの?」
「ん?」
「だってあんまりここって人も来ないから。知名度もそんなにないかなって」
「あぁ…うん。なんとなく、な」
いつになく歯切れの悪い秀に首をかしげると、気にするなと頭を強めに撫でられた。
乱れた髪を手ぐしで直している間に秀は炭酸を一気に飲み干して缶を軽くつぶした。
カバンを肩にかけると、立ち上がってもう一度だけ頭を撫でて門のほうへ歩いていってしまう。
「秀君!」
「なんだ」
「えっと、こ、これ!ありがとう!」
まだ半分残っている炭酸の缶を指さすと、秀は笑って背中を向けたまま手を振った。
一人残された正人はベンチに座りなおすとゆっくり炭酸を飲み干した。
彼はどうしたのだろう。
やがて缶が空になると、重要な用事を思い出して勢いよく立ち上がった。
「そうだ、カバン」
あの謎の人たちのところへ行かなければ。
正直また抱きつかれたらどうしようかと思うが、行かなければ授業には出れない。
重くなる足を引きずって、正人は逃げてきた道のりを思い出しながら歩き出した。