Case01:始まりの焔
「おはよう、猫神君」
「…おはよう」
朝礼のベルが鳴る10分前。
下駄箱で靴を履きかえていた正人に声をかけたのはクラスメイトの望月杏だった。
正人は驚いたように顔を上げて、ふわりと笑うと挨拶を返した。
杏から見たこの猫神正人という青年は、どこか不思議な物体に見えた。
それは入学式の頃からだ。
柔らかそうな黒髪に、決して不健康には見えない程度の白い肌。丸い黒目に小柄な体の彼は、男子列の中でも特に目立った。
そんな容姿の所為か女子には異性というよりは同性として可愛がられ、男子にもまるで弟や妹のように守られていた。
ふわふわと浮遊するように特定のグループは持たず、気が付けば誰かのグループと一緒に行動していたりする。クラゲのようなものだろうか。
だが、三年間同じクラスになって初めて気づいたことがある。
彼は基本的に人の目を見ないのだ。
ちゃんと見てくれる時もあるが偶然目があったりしようものなら焦ったように逸らしてしまう。
最初は何かしてしまったのだろうかと落ち込んでいたが、よく観察するとそれは他の誰に対してもそうであった。
加えて、友人との会話が終わった瞬間や一人で窓際の席から外を眺めているときの表情はどこか暗く、いつもの笑顔からは想像できない顔をしていた。
何か悩みでもあるのかと思っているが、三年生になって二ヶ月経った今でもまだ聞けていない。
「猫神君、元気?」
「元気だけど…どうして?」
「なんとなく!」
「そう。望月さんはいつも元気だね」
親指を立てて言う杏に首をかしげていた正人は、可笑しそうに小さく笑うと教室までの廊下を歩きだした。
慌てて上履きに足を突っ込んで顔を上げれば、律儀に階段のところで待っていてくれている。
「あと6分。急ごう」
「了解」
軍隊のように恰好つけて敬礼をして隣に並ぶと、また正人は笑って同じように右手で敬礼をした。
こんな優しく笑う人がどうしてあんなに苦しそうな寂しそうな顔をするのだろう。
先を行く正人の背中を見ながら、喉まで出かかった疑問を飲み込んで次の段に足をかけたのだった。
「それで、――――あぁ、今日はここまで」
数学担当の教師が黒板に数式を書いたところで授業終了のチャイムが鳴った。
起きていた生徒は背伸びをして寝ていた生徒も体を起こした。
正人たちが通う私立神堂学園では、高等部三年生になると内部進学と外部進学とでクラスを分けられていた。
そのため受験に必要のない科目になると睡眠タイムに入る生徒がほとんどだった。
教師的にはきちんと勉強はしてほしいものの受験に関係ないのではしょうがないかと少し甘めに見ていた。荷物をまとめて教師が教室から出ていく。
その後も真面目な性分の正人は受験に必要なくとも線を引き、きっちりと最後までノートを書く。
出来上がった文章をみて満足げに机の中へ直すと、前席の男子生徒が振り返った。
「にゃんこ!帰りにクレープ食べに行こう」
「にゃんこって言わないでよ…クレープ?いつもの?」
「いいじゃんにゃんこ可愛いよ!そうそう、新作出たってさ」
「可愛いって言われても嬉しくない。新作か…なら行こうかな」
「やったあ!早く行こうぜ!」
「終礼が先だよ、宗也」
正人が指を指した方を見れば、いつの間にか来ていた担任が咳払いをしている。
慌てて前を向く五十嵐に苦笑すると正人は窓の外を見た。
この神道町にやってきてもう三年が経つ。
都会で暮らしていた正人にとって、田舎に近いこの町はとても居心地がよかった。
親の急な転勤先が父親の実家近くである事には初めは驚いた。
父親の実家といえば、周りは田んぼばかりでご近所ともかなり家が離れているという子供の頃の記憶しかなかったからだ。
そんな田舎の学校でどうなるだろうかと覚悟していれば、家は確かに絵にかいたような田舎にあるが学校は家から少しだけ遠くの町の学園に転入することになった。
(中心部へ行かなければ人もそれほど多くない。前に比べれば天国だ)
壁のように建つビルとたくさんの行き交う人々。
たくさんの話し声が頭上を飛び交う都会の道路。
ふと昔の感覚が呼びさまされて小さく震えだす手を強く握りしめた。
大丈夫、大丈夫。呪文のように繰り返されてきた言葉を心の中で唱えると、顔を上げた。
「にゃんこ、大丈夫か」
「え、あ…秀君、終礼は?」
「終わってる。どうした?体調でも悪いのか?」
「大丈夫」
目線を合わせるようにしてクラスメイトの新涼秀が目の前にいた。
考え事をしている内に終礼は終わっていたらしい。
掃除に当たった列の生徒が文句を言いながらも机を運んでいる。
荷物をまとめて立ち上がると、気合を入れるように両頬を強めに叩いた。
痛かった。
「にゃんこ、本当に具合は悪くないのか?あの馬鹿がクレープって騒いでいたが」
「うん。行くよ、僕も食べたいし」
「そうか」
高身長で黙っていれば少し怖い見た目の秀だったが、本人はとても真面目で成績も優秀な人間だった。
よく体調不良を起こす正人の事を気遣い、面倒を見てくれる兄のような存在。
入学式の時、眩暈に襲われて一人廊下で蹲っていた正人を助けてくれたのも彼だ。
今も変わらず世話を焼いてくれるが、最近では正人と宗也の保護者といわれつつある。
「宗、あまりにゃんこに迷惑かけるんじゃないぞ」
「わかってるよ!母さん」
「誰が母さんだ」
「それにしても…その顔で『にゃんこ』なんて単語が出てくるとギャップありすぎて笑えるな」
「し、仕方ないだろう!あだ名がそうなんだから」
「よし!今日から秀も秀にゃんでいこう!」
「腕折るぞ」
「すいませんでした」
漫才のような会話をする二人を見ていると、まるでジャーマンシェパードに対して子犬の柴犬が遊んでほしいとせがんでいるように見える。
茶色の髪に高校生にしては低めの身長、声変わりも来なさそうな少年の声をしている宗也に柴犬という表現はぴったりだった。
正人が想像して思わず笑うと何を笑っているのかと二人は顔を見合わせた。
「じゃあ、また」
「寄り道するんじゃないぞ」
「えーっ」
「もう暗いし夜道は危ないからね」
「にゃんこが言うならしょうがないなぁ」
「おい。俺の言葉は無視か」
行きつけのクレープ屋で新作を堪能し小さなゲームセンターで遊んでいれば、すぐに辺りは暗くなった。
明日は土曜日で午前中のみの授業。
遅くなってしまったので急いで帰らないと、課題が間に合わない。
それに家が遠いので外灯もない道をひたすら進むのは少し怖かった。
「また明日!秀とにゃんこ!」
「ああ」
「気を付けて」
宗也と別れてから二人でシャッターの閉まりつつある商店街を歩いた。
ただえさえ少ない人影が今は無いに等しい道。
明日の授業についてなどを話していると、急に秀がじっと自分を見つめてきた。
思わず目をそらしてしまう。ぎゅっと自分の左手を握りしめる。
「あのさ」
「何?」
「あー…その、えーと、なんだ。あまり深くは聞かないし、聞いちゃいけない事なら悪い」
ばつが悪そうに藍色っぽい黒髪をかく秀。
「うん?」
「にゃんこな…どうして人と話すとき、そんなに怖がってる」
「―――っ」
時間が止まった気がした。
動悸がしてきて、握った手に汗がにじんできた。
「俺の気のせいだったらごめんな。ただ、たまにそうじゃないかと思う時があって…入学当初よりはマシだが目も合わせてくれないし」
「どうして?僕は大丈夫だよ」
「…本当に?」
「うん。全然大丈夫」
震えそうになる足に力を入れて秀を見上げた。
秀は心配そうな顔をしながらそうか、と少し頬を緩めた。
自分とはサイズの違う大きな手が正人の頭に乗せられる。
「なんかあったら言え。言いたくなければそれでいいが、相談にはいつでも乗るから」
「ありがとう、秀君」
秀の家兼八百屋の前まで来ると、秀は軽く手を振ってシャッターの中へ入っていった。
完全に人の気配がなくなるのを確認するとその場から勢いよく駆け出した。
(はやく、帰ろう)
動悸が先ほどより激しくなってきた。
汗が流れるのも気にせず、ただひたすらに走った。
物心ついた時からの症状。
正人は人と関わる事を恐れていた。
誰か本当に親しい人の傍にいないと心が落ち着かない。
そう思えば逆に一人になりたいと思うこともあった。
知らない人間がいれば怖くなり、前を向いて歩けない。
ただの人見知りだと思っていたがそれも歳を重ねるうちに酷くなっていった。
引っ越してくる寸前の時もそうだった。
溢れる人の笑い声や若い青年たちの声。
声を聞くだけ、姿を見るだけで鼓動は早くなり酸素不足の魚のようになってしまう。
当然そんな正人が都会の人ごみに居られるわけもなく、ストレスで胃に穴が開くほどだった。
神道町に来てからはそんなことも少なく――未だに治る事はないが頻度は減り、――昔に比べれば平穏な毎日を過ごしていたと思ったのに。
「いやだ、くそ、っ」
どうしてそこまで恐怖心を覚えるかは謎だった。
誰にも言えず、ずっと溜め込まれてきた恐怖心が一気によみがえってくる。
走っている内に整備されていない田舎道に入り、石に躓いてしまった。
膝を切ったようで痛みを感じるがそれよりも湧き出す恐怖心しか頭にはなかった。
「大丈夫、頑張れるよ、だい…っ!」
心臓が痛い。
真っ暗な道で体を九の字に曲げて、正人は浮かんでくる涙をただひたすら流した。
突然、痛みが一段と増した。
「ぐあ、ぁッ」
その瞬間、暗い道の中に黒紫の炎があがった。
思わず火元を見ると、それはなんと自分の体から零れるように燃え盛っていたのだ。
息をしようにも驚きと恐怖でうまく酸素を取り込めない。
揺らめく焔はやがて自分と同じ大きさになり、勢いよく被さってきた。
苦しい、痛い、誰か。
「その子から離れろ」
凛とした低めの女性の声。
霞む視界の中ではよく見えないが、髪の長い人だという事だけわかった。
「あ、可愛い子だ。さすがだね」
「どういう意味ですか。馬鹿にしてるんですか」
「してないよー」
もう一人、優しそうな男性の声もする。
「さて、早めに倒さないと」
「あの少年はどうしましょうか」
「あー…死んじゃわない程度に攻撃して。死んだら面倒だから」
「…了解」
殺される?
何が起こっている?
この人たちは誰?
纏わりつく炎が一層強く体を締め上げてきた。
「はな、せ」
ここで死ぬわけにはいかない。
明日は大好きな家庭科の時間があるんだ。
秀君が作ってくれる和菓子は美味しいんだから。
宗也も新しいお菓子持ってきてくれるって言っていた。
それに、僕はこの町で変わると決めたんだ。
途切れそうな意識を必死につないで、強くそう思った瞬間。
僕の意識は完全に途切れてしまった。
「目が覚めたか」
次に目を開いた時、見知らぬ場所にいた。
学校の保健室に似たような部屋に、白衣の女性。
女性は起き上がった正人の頭を優しく撫でると、カルテのようなものに何かを書き込んだ。
「あの、僕は、」
「昨夜の事を覚えているか」
「え」
黒い炎。痛む体。
二人の声。
「あなた、あの時の…!」
「やはり覚えているか」
一瞬眉を寄せると、カルテを手に持ったまま正人の手を引いた。
「おいで。話がある」
言われるがまま隣の部屋に行くと、そこには人が四人ソファに向かい合わせで座っていた。
手前には大人しそうな少女と漫画を読んで笑う少女。
奥にはお菓子をせがむ少年とそれに首を振る青年。
そしてそのまた奥にある社長が使っていそうなデスクの所には、書類を整頓する男性がいた。
「所長、目が覚めたそうです」
「おおっ!大丈夫だった?君は道で倒れていてね、それで」
「所長。覚醒者です…君、この人が助けてくれたんだ」
「え…」
女性の言葉に、所長と呼ばれた青年は手に持っていた書類を置いて立ち上がった。
周りのメンバーも驚いたように正人を見ている。
背中を押された正人は所長の前に立たされると、唾を飲み込んだ。
「そっか…嬉しいような悲しいようなだね」
端正な顔立ちの所長はそういって正人を思いっきり抱きしめてきた。
「え?!」
「こんなかわいい子が!可愛い子が!」
「え、ちょ、放して!放してください!なんですか?!」
「君の名前は!」
「え、え、と、猫神正人…です」
「猫神くん!」
「はい?!」
「ようこそ!君は我々『楓心療所』の一員に加わるに値する!!」
そう叫ばれた正人は、ただハテナを頭に浮かべるだけだった。
いつもは趣味で二次創作ばかりでしたが、数年ぶりにオリジナルでの小説を書きました。きちんと最後まで書ききりたいと思いますので、よろしくお願いいたします。また、楽しんでいただければ幸いです。