表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/14

悪魔との攻防戦

彩は予定通り丁度二週間後に退院した。

 彩を迎えに行ったのは親父だった。親父は仕事を休んで彩を迎えに行ったのである。

 かつての親父だったらありえない。

 しかしこんなことをしても、大して意味がないばかりか、するどい彩にとっては「今更優しさをアピールして、アタシからの好感度をあげようとしているだけ」と逆に悪くとるに違いない。少なくとも良くは解釈してくれなのではないかと思った。

 あとで親父から聞いたが、「顔色は良かったが、表情は怒りに満ちていた」らしい。

 そして車内で親父が何かを話しかけても、全く口を聞いてくれなかったという。

 家に帰るなり、彩は走るように玄関に靴を脱ぎ捨て、直ぐ様自分の部屋に入り、既に二度目の修理を終えた扉の鍵を閉めてしまったという。

 親父はその後昼食としてコンビニ弁当と昼の薬を持っていったが、弁当も薬も一応摂取したらしい。

 その後、親父は直接話しかけたり、電話したり、メールをしたりもしたが、全く返事がなかったという。

 俺は夕方、帰宅後、親父からその一部始終を聞いたのだ。

 娘にここまで無視されるとは、何とも痛々しいが、想定内のことだった。

 俺はとりあえず、メールをした。

『退院、おめでとう。やっぱり家が一番だろう?』

 三十分経ったが返事がない。

 多少挑発的に送ると返事がくると思ったのだが、思惑通りにはならなかったようだ。

 くじけずに再度携帯でメールの文章を作成している時、それを妨害するかのようにメールが届いた。

 彩からの長文の返信だった。長文ゆえに、なかなか返事が来なかったのだ。

 俺はとりあえずホッとする。

 こういう人と生活していると一番辛いのは返事がない時だから…。

『入院生活は地獄だったわ。なんと八人部屋よ!しかも個々のベッドにテレビどころか、カーテンすら無いのよ!なんでカーテンがないのか、隣のおばさんに聞いたら、「自殺防止のために決まってるじゃない」って。患者の平均年齢は四十〜五十歳のおばさんばかりで話が合わないし、意味のわからないことを言っている連中ばかりだし…私のことを「聖母マリア」の生まれ変わりだから、近いうちにキリストを身ごもるはずだって言っていたおばさんも居たし…これにはさすがに笑えた。真向かいの女は「担当医には前世で強姦されたからその償いとして、彼は今私の召使いのようになっている。でもあの人は実は夜は芸能人をしていて、二足のわらじでとても忙しい人なんだ」なんて言っているし…。あと談話室では同い年の高校生の男子がいて、「君と僕は結ばれる運命だ、僕はどうやら火星人の遺伝子を持っているらしいけど愛があればそんなのは関係ないから」なんて告白されるし…ねえ、これ言っとくけどみんな本当の話だよ!あと、病棟でリストカットがしたくてたまらないときには、職員が見落としているものを見つける嗅覚が必要だって教えてくれた人もいた。その人は喫煙所に貼っていたポスターの画鋲を盗んで、画鋲で自分の手首に傷をつけたり、刺したりしていた。まさに狂った世界。悪いけどアタシ、あの人たちに比べたら完璧に正常だから。ただ、ひきこもっているだけだから』

 俺は返信した。

『お前は正常な分、逆に恐ろしい。ごまかしは通用しないし、薬も効かないし、計画性のあることをするし、変なところが異常にするどいからな。お前のせいでこの家はもう崩壊寸前だよ。わかるだろ?』

 五分後返信があった。

『そうね、私なんか死んだ方がいいよね、やっぱり』

 やばい、またこういう方向になってしまった…。

いちいち言葉を選ぶのが面倒くさい、なんて神経をつかうメールなんだ…!

 このままだと、またメールに返信がこなくなる。

 俺にとって一番怖いのは、この返信が来ない瞬間だった。

 俺はこういう事態に備えてこんなメールを直ぐ様、送信した。

『お前、幽霊って信じるか?』

 こういった突拍子もないメールに対しては、大概返信が返ってくるはずだという俺なりの考えのもとで送信した全く意味のないメールだった。

 案の定、三分もしないでメールが返ってきた。

『はあ?何で今、そういう話になるの?意味わからないんだけど。あんたのほうが病院に行ったほうがいいんじゃない?』

『そうだな、まあそれはどうでもいいや、話を替えよう。お前、引きこもる前、時々保健室で何をやっていたんだ?』

『リストカット。正確に言うと、太ももの又付近をカッターナイフで切っていた。だって手首とかだと、いちいち「その傷どうしたの?」とか聞かれて鬱陶しいから。あと保健室の安田先生にはバレてたけど、このことを言ったら遺書にあなたの名前を残して死んでやるって脅して、口止めしてたの…』

 …そういうことだったのか…。

『…そうか…あとお前、一年のくせに時々二年の女子トイレを使っていたみたいだけど、あれは何の理由があるんだ…?』

『だいたい似たような理由よ。一年のトイレだといちいち人と会って、やりづらいから、二年のトイレの中で太ももを刻んでいた。保健室も近かったから丁度良かった』


 それからというもの俺と彩とのメールのやりとりが二週間ほど続いた。

 彩にいきなり本題(県外の専門リハビリ病棟入院の話)をぶつけるのは危険すぎる。

 彩とはたわいのない世間話もした。芸能人の話、流行りの映画の話、地元に新しく出来た店の話、そして将来の話等…。


 そんなある日の夜のことだった。

その日は親父が出張、お袋は友人と一泊温泉旅行に行っていた。

危険な娘がいるのにずいぶん悠長な両親に思えるかもしれないが、今回はやむを得なかった。

お袋は以前からストレスを発散させないといけない状態だったのだが、この日は二十年ぶりに、昔からの親友三人と温泉旅行に行く日としてずっと楽しみにしていた日だった。

そして親父も急にどうしても避けられない出張が入ってしまったのだ。二人は喧嘩をし始めたが、俺が『彩のことは俺にまかせて』と言ったため、二人は安心して外泊、出張したのであった。

時刻は十一時頃だったと思う、俺と彩はいつものようにメールでのやりとりをしていた。

彩は相変わらず風呂とトイレ以外には部屋から外に出てこなかった。

そして相変わらず、常にナイフを持ち歩いていた。

『結局彩は将来何になりたいんだ?』

『結局兄さんは将来何になりたいの?』

『わからねえな。だけど親父のいうような、大企業に入り、出世して部長になるとかそんな夢は全くないな。あえて言うなら最近心理学に興味を持ち始めているから、そういった道に行こうかなって思っている』

『もしかして壊れたアタシからの影響?』

『それもあるけど、それだけじゃないよ。ところでお前は何になりたいんだ?』

『お嫁さん』

『そんだけかよ、今の時代、どのみち何らかの仕事にはつくだろうが』

『そもそも、アタシこんな状態で、仕事に就けるの…?』

『だから、就ける就けないの問題以前にお前には何かやりたいことがあるのかって聞いてんの!』

 以前から思ってはいたが、俺はいよいよメールでのやりとりが鬱陶しくなってきた。

 メールでは当然相手の声が聞こえない。文字の入力によっては大きな誤解を招くこともある。相手の声色もわからないし、その声色から発せられるニュアンスもわからない。

 そろそろ彩に電話してもいいのではないか。

 彩とはメールを通じてだいぶ信頼関係が回復してきた。

 電話だったら、さらに深い話ができる。

 でも、本当に電話していいのだろうか…?

 もし出なかったら…今度はまたしばらくメールの返信すらもなくなるかもしれない。

 彩の場合、たかが電話をするという行為だけでも、また警戒されて、拒否され、しばらくコミュニケーションが成り立たなくなる恐れもある。それがなによりも怖かった。

 例えると、穴の中にボールを落とし、取ろうとしたら、さらに奥に落ちていってしまったという状態…とでもいうべきだろうか。

 しかし、今の俺はもはやメールに限界を感じていた。

 電話はメールとは全く違う。相手と直接話をするということは、メールの何倍も相手のことがつかみやすい。

 俺は思い切って、彩に電話をすることにしたが、彩の番号を画面に出し、通話ボタンを押そうとして一瞬戸惑う。

「まてよ…いきなり電話すべきだろうか…?それとも『電話していいか』と訊いてから電話すべきだろうか…?」

 でも、電話していいかと訊いて『やだ』と言われたらそれまでだ。あるいはその質問に対して返信がないという状態になる可能性もある。

 ダメモトだ!俺は通話ボタンを押した。

 呼出音が鳴るが、出ない。留守番電話の設定をしていないため、延々と隣の部屋から着信音が流れている。

 彩は間違いなくいるはずなのに、聴こえているはずなのに、出ないということは、完全なる拒絶である。

「失敗したか…」

 俺は、電話を切り、再び彩にメールする。

『電話はやはり抵抗があるのか…?』

 それから十分が過ぎたが、返信がない。

 俺は彩の部屋の壁に耳をあてる。

 音楽が聴こえていた。あの自殺を美化する歌詞で、マニアに受けているヴィジュアル系ロックバンド「デスチャイルド」の曲だった。

ボリュームは着信音が聴こえないほど高くはない。

 俺は彩が壊れてからというもの「林 麗子」と、この「デスチャイルド」が大嫌いになっていた。

「死」を美化するなと言いたかった。

 彩の部屋からこの手の曲が流れている時はたいがい部屋の中で悪いことが起こっている。

 そうわかっていた。

 ましてや同じ曲をリピートしている時は、ほぼ自傷的な行為をしているときだ。

 …ってことは、また何かやってるのか!

 俺は思わず、彩の部屋の扉を叩いた。

「おい!大丈夫か?」

 …わかってはいたが、返事がない。

 どうせ鍵がかかっているだろうが扉を開けてみる。

 鍵がかかってない!俺にとっては逆にそれが恐怖だった。

「彩!」

 部屋の中には彩はいなかった…。

 デスチャイルドの「別世界」という「死」を売り物にしたようなとてつもなく不快な音楽が流れていたが、それどころじゃない、彩はどこだ?

 ふと、とてつもなく嫌な予感が脳裏をよぎった。

 …俺は恐る恐るクローゼットを見た。

 クローゼットに着いている洋服掛けのパイプ部分は縄を引っ掛けると簡単に首が吊れる。

 クローゼットは閉まっていた。

「まさか…」

 俺は震える手でクローゼットを開けた。

 しかし彩はそこにもいなかった。彩が首を吊る夢をたまに見ることがあったから、いないことには安堵した。

 彩は今までも何度も薬の大量摂取オーバードーズやリストカットを繰り返していたが、どれも自殺の成功率はそれほど高くはないらしい。

 彩は、最終的には「生きたい」のだと俺は思っていた。

未だにひきこもっている彩は「生きたい」のに、生きることもできない、そして「死にたい」のに死ぬこともできない。だから「死」そのものを「理想郷」や「ファンタジー」の世界にして、その中間地点に現実逃避してしまっているのではと思っていた。

 それにしても彩はどこへいったのか。

 部屋のどこにもいない。

 俺は、一階のリビングに降りた。

 真っ暗なリビングの電気を付けると、そこには彩が居た。

「彩!」

「ん…?何?兄さん…」

 彩は暗闇でぼーっと立ち尽くしていた。

 その表情は悟りを開いているかのように穏やかで、そして同時に孤独に満ちているかのようだった。

「心配かけやがって!」

 そう言いながらも、彩が自分の部屋ではなく、堂々とリビングにいるという現実が少しうれしかった。

「なあに?兄さん…?」

 しかしその顔はあまりにも青白い。手にはペットボトルを持っている。

 その中身はトマトジュースのようだった。

「飲む?健康にいいよ…」

 彩がニヤリと笑い、ペットボトルを俺に向かって投げた。

 俺は受け取って、キャップを開ける。直ぐ様これがトマトジュースでないことを感じた。

「このトマトジュースはどこから買ってきたんだ…?」

 彩は不気味に微笑み、言った。

「アタシの体内にいくらでもあるよ」

 俺は目眩がした。あの時に目撃した注射器の使い道がわかった。

 覚せい剤が使用目的ではないことがわかり、それを安心すると同時に、彩のしている行為の猟奇性に鳥肌が立ち、身動きが取れなくなった。

 彩はかなりふらついていた。

 俺は彩が、自殺系のオフ会で、誰かから注射器をもらい、そして採血の方法を教えてもらって、リストカットよりも手っ取り早く出血多量になる方法を学んだのだと思った。

 彩はふらついてはいたが、手には相変わらず刃物を持っている。

 俺はどうすればいいのか。

 両親に電話すればいいのか…。もうそれしかないだろう!

 俺が携帯を取り出した瞬間、彩は言った。

「携帯よこして。よこさないと、首斬って、即死するよ。こないだ一度失敗してるから今度は自信あるよ」

 彩の目はうつろで、どこを見ているのかわからないような状態だ。

「どうせ親に電話しようとしたんでしょう?アタシがこんな状態だから…」

 追い詰められた俺は、本音を言うしか方法はないと思った。

「ああ、そうさ。今のお前は命の危険があるし、守らなければいけないから。だから親に電話しようとした」

「携帯渡して。渡さないと死ぬ、私の足元に向かって携帯投げて。手渡しだと逆にナイフ取られそうだから」

 俺と彩は獣のようににらみ合う。

「じゃあ、あと十数える…十数えても兄さんが携帯を渡さないなら…私は首を斬って即死するよ。一…二…三…」

 ちくしょう!俺はどうすればいいんだ!こいつなら本気でやりかねない。

「六…七…八…」

 俺はやむを得ず、彩の足目掛けて床に置いた携帯を滑らした。それを彩は足でキャッチして、手際よくポケットにしまう。

「おりこうさん。兄さんにも今までも何度も言ったけど、あたしは精神病でも何でもないの。

ただ死にたいだけの人。それだけ」

「お前が死にたい原因ってのは結局なんだって言うんだ?両親か?この家か?それとも俺か?それとも学校か?それとも失恋でもしたのか?」

 すると彩はしばらく無言になり、俯きながらつぶやいた。

「失恋は全然違う。原因はわからない…でも、最近わかったのはやっぱり…親から捨てられたくないのかなあって…成績の良いイイ子でないと捨てられる、イイ子でないと存在価値を否定されて、おまけに暴力まで振るわれる。それが、怖いのかなって…で、イイ子を演じて、反抗期も押し殺すようにして生活して、…でも親から褒められれば褒められるほど、常に捨てられることへの不安が襲うようになって…次第に、生きていることがしんどくなっていった…。そして生きること自体に異常に嫌気がさしてきて…いっそのこと最初から自分なんていない方がいいと思うようになってきた。それで、ある日を境にアタシは何かがぶっ壊れてしまって……結局今は一番親が望まないような子供になってしまっている」

「だよな、今のお前は親を苦しめているだけだからな。イイ子でも悪い子でもなく、命が危険な子になっている。いつ自殺行為をするのか、恐ろしいったらありゃしない。なんでそんな痛々しいことをするんだ?」

「親がわたしのことを本当に愛しているのか、試したくて…」

「それで、『命』を掛けて試しているのか……?」

「そのとおり……かも…」

「お前なあ、親のことを神様だとでも思っているのか?お前と同じ人間だぞ。はっきり言ってやるが、今のお前は精神年齢が低すぎる。パパ、ママ、あたしをかまって…って叫んでいる三歳のガキと一緒だ」

 俺が挑発的なことを言うと、彩は一気に表情が怒りに変わった。

 恐らく、『自分がここまで心を開いて語ってやった、あなたなら少しは信頼できるかなって思ったのに、あなたも私のことを否定するのね』と思ったに違いない。

「お前は『完璧な愛』を求めすぎているんじゃないか?俺はお前の脳みそがイカれているとは思わないが、お前自身が人を完璧に愛せないように、親だっていくら子供が可愛くても『完璧な愛』を維持することはできないはずだ。時には憎み、時には怒ったりもするだろう。親だってしょせん人間なんだよ。お前さあ…」

 そう言いかけて、俺はあるセリフを言うべきかを一瞬迷った。

 拒否されたら、もうコレに関しての可能性はかなり断たれる。

 これでダメなら恐らく彩の心の病は少なくとも十年は続くのではないか、結婚もできないで、薬漬けの苦悩に満ちた人生が待っているのではないかと思っていた。

 一か八かだ。俺が勇気を出して言い放つ。

「お前は、一度親から離れて、県外の施設に行くべきじゃないかって思う」

 彩はきょとんとした顔をし、眉を潜めて言った。

「県外…?施設…?」

「お前は『愛』に対して何か大きな誤解をしている。そしてその誤解が、お前を苦しめている。お前はイイ子を演じる必要はない。親の思惑通りの人間にならなかったからといって、親はお前を見下しもしないし、捨てもしない」

 彩は身動き一つしないまま、俺を見つめていた。俺はさらに続けた。

「勉強?運動?資格?世間体?有名企業?親のレールからちょっと外れただけでお前自身が捨てられるのだとしたら、そんな心の狭い奴は親ではない!もしそれがお前の親なら、親なんてお前から捨ててしまえ!その時は俺もお前と一緒にあの親を捨てるつもりだ!親は欠点があろうとなかろうと、無条件に子供を愛する生き物のはずだろ!」

 彩はふらつきながらも、集中して俺の顔を見ていた。

「彩、お前は自殺系のネットで同じような仲間を見つけて傷の舐め合いをしている。だがな、奴らの誰かがお前に注射器を渡したり、お前自身も含めて、薬の物々交換をしたりしてたんだろ!」

「な、なんでそのことを知ってるの?」

「お、お前のパソコンを見た!勝手にプライバシーに踏み込んだのは悪かったと思っている、でもお前を救うためにはこのくらいしないとどうしようもなかったんだ!だけどなあ!自殺を勧めるようなオフ会仲間なんて本当の友達じゃない!自らを破壊する方法を研究するだけの一種の自傷行為を崇拝する異常テロ組織に過ぎない」

「あ、あいつら…と、友達だもん!あんないい人たち、この世にいないよ!それにあの自殺サイトは自殺を勧めるサイトなんかじゃない。自殺願望や心を病んでいる人たちの憩いの場なの。自殺を勧めるような言動は禁止というルールがあるの」

「そうだとしても…だいたい一度しか会ったことのない人間を、お前はどうしてそこまで理想化できるんだ!そもそも注射器を渡す時点で自殺を勧めているに近いじゃないか。目的だってわかって、手渡しているんだろう?」

「注射器なんてあいつらからもらったんじゃ…」

「え?どういうことだ!」

「と、とにかく注射器だけはあいつらから貰ったんじゃないし、あいつらとは確かに精神科薬の物々交換とかはしたけれど…それはあくまでも現実逃避の道具を交換しただけ。あいつらは私が今まで会った人たちの中で一番の人たち。天使のような人たちなんだよ」

「だーかーら!一度しか会ったことのない人間を理想化しすぎだ!お前たちはネットを通して知り合って、数日もしないうちにお互いを理想化しすぎている!そんなに理想化していたら恐らく、そいつらのささいな欠点を見つけただけで、今度は激しく見下すんじゃないのか?

お前のような病にはそう言った特徴もあるって、本に書いてあったよ」

「に、兄さん、アタシの病気のことなんか調べてたの…?勉強もしないで」

「あの馬鹿親達がロクにお前の病気を調べないで、医者やケースワーカーに何もかも任せきりだから、俺が調べざるを得ないと思ったんだよ!それでも以前よりはあの親共もマシになったんだぜ!」

「どこらへんが…?」

「お前のように引きこもっている子供を持つ親の会なんかに積極的に参加したりしている。以前は世間体を気にして、そんなところに行こうとさえしなかったんだぜ!」

 彩は複雑な表情を浮かべる。これは言って良かったのか、それとも悪かったのか…もはや俺には判断がつかない。

「ところでよ、お前…」

「何?」

「注射器はどこで手に入れた?」

 彩は俺を見つめたまま何も言わない。

「どこで手に入れた、病院から盗んだのか?」

「……」

「ヤクの売人からもらったのか?」

「全然違う!」

「誰から?」

「…近藤君」

 俺の脳裏を衝撃が走る。近藤?俺を含めた馬鹿三人組の近藤守から…?そうだ!アイツのうち…内科のクリニックだし…。でも、お前ら…。

「お、お前、引きこもっているくせにどうして近藤からそれをもらうことが出来たんだ?第一いつ会った?それともたまに会っているのか?」

「……………」

 彩は再び何も言わなくなった。

 俺は冷静になりたかった。頭の整理がしたかった。

「…ちょっとコーヒーを入れるから…待ってろ…」

 俺はヤカンに水を入れ、ガスを付けた。一応二人分のカップを用意した。

 この舌戦に休憩を入れたかった。

 ピーという音がなり、俺はガスを止め、インスタントコーヒーを二つのカップに入れ、お湯を注ぐ。砂糖とクリープを用意し、準備は整った。

「彩、とにかく一度座ってくれ」

 彩は言われたとおりリビングのソファーに腰掛けた。

 コーヒーを二つ、テーブルに置く。

 俺はしばらく自分から言葉を発するのをやめた。疲れたのもあるが、今の俺の態度はかなり一方的な状態になっている。このままだと彩は再び心を閉ざしてしまうだろう。

 俺はもう一つ、態度を変えた。

「真正面」から彩を見るのをやめた。これだと単なる刑事の取り調べになってしまう。そう思ったからだ。

 俺は彩が言葉を発するのを待つことにした。

 気まずい沈黙を緩和するのにコーヒーというものは役に立った。

 リビングにコーヒーの甘い香りがたちこめていた。

 それからどれくらい時間が経っただろう。コーヒーが丁度自販機の缶コーヒー程度の適温になった当たりだろうか、彩がようやく口を開いた。

「…兄さんの友達、二人と…兄さんの知らないときに電話番号とメアド交換をしていたの。私がまだ引きこもる前に…」

「あいつら…俺に内緒で勝手に人様の妹にちょっかい出しやがってえ…」

「ちがうの」

「え?」

 彩は俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。

「私から二人に電話番号とメアドの交換をお願いしたの…」

「お、お前から…?なんで?なんであんな馬鹿どもに…?」

 彩はコーヒーに口をつけ、ふう、とため息を吐いて言いづらそうに言った。

「り、利用しようとしたの」

「利用?お前の言っていることがよくわからんが」

「近藤さんからは注射器をもらうために近づいた。前田さんからは自殺サイトの管理人の住んでいる大阪に行くための最短切符や、その周辺の地理、その周辺のおすすめのカプセルホテルとか他、オフ会なんかに適したお店なんかを聞いた。彼はネットよりも詳しくて、変態のように全てを知っていた。彼にメールや電話をすると即、何でも答えてくれた」

「お前…引きこもる前から自殺ネットをやっていたのか…」

「二人を利用して悪かったと思っている。二人は私と電話番号・メアド交換ができたことをすごく喜んでしまって…」

「お前、小悪魔だな。あの二人は(俺も含めてだが)女を全然知らないんだ。男の純情を利用するな!」

「でも…近藤さんだけは、あたしのこと全部知っている…」

 俺は飲みかけたコーヒーを吹き出しそうになった。

「な、お前、今なんってった?それはどういう意味だ?」

「前田さんにはオフ会以来、私からはメールしていない。向こうからはしつこく電車の話題とかが迷惑メールのようにしょっちゅうやってくるけど、ほとんど返信していない。だけど近藤さんとは…最初メル友っぽくなって…そのうち長電話とかするようになって…それで、人生相談していて、今では恐らく、ひきこもりから自殺未遂、精神科入院とか…家族のこととか…ほとんどを話した…」

俺にとっては想定外の事実だった。よく事態が読み込めない。

「なんで、近藤の奴なんかに、そこまでディープな話をするんだ?お前たちはどういう関係になっているんだ?」

 すると彩は無言になった。

 俺は、彩から答えが帰ってくるのを待っていた。ここでまた取り調べしている刑事の状態にはならないように、必死で耐えた。

 約三分後、彩が俯きながらつぶやく。

「親しい相談相手って感じ…?」

「まさか…アイツと会ったりしてるのか?」

「土曜日の深夜とかにたまに…たまにだよ!電話とメールは毎日してるけど…」

「それって、かなり親密な関係じゃないか?…ん?ちょっと待て。話を少し前に戻すが、近藤はお前の精神状態を知ってて注射器を手渡したのか?」

「違うの。近藤さんには私のこういった状態を知らせる前に…その…アタシが嘘を付いて、それでから貰ったの」

「何て嘘を?」

「将来看護師になりたいから、参考までに一本でいいから注射器を貰えないかなあって言って…。最初は近ちゃんも、あ…、こ、近藤さんも躊躇してたけど…しつこくおねだりしたら持ってきてくれて…」

「おい、お前今、近ちゃんって言わなかったか?」

「あっ!…いや…」

 彩は何気に頬を赤く染めているかのようだった。

 青白い顔が赤く染まるという不思議な現象を初めて見た。

それを見て、少なくとも今宵、彩に命の危険はないと俺は判断した。

 この世に「恋」らしき未練のある人間が(失恋ならともかく)そう簡単に死ぬとは思えなかったからだ。

かといい、やはり、彩の手にはナイフが常にある。下手に刺激してはいけない…。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ