家庭崩壊
病院の待合室で俺たち三人は彩の処置をひたすら待った。
長い廊下に灰色の長椅子だけが殺風景に並んでいた。
言葉なく、中で何が行われているのかが全く想像できない。
何時間待ったか、よく覚えていない。
とにかくその間、三人は全く会話をしなかった。会話ができなかった。
やがて処置室からマスクを付けた医師が出てきた。
医師の表情はわからないが、目付きは極めて厳しい。
医師は大きくため息をついて言った。
「…とりあえず命に別状はありません。喉や声帯にも異常はないでしょう。奇跡的に急所は外れていましたから…ただ…」
「ただ…?」
父親が恐る恐るたずねた。
「言うまでもなく、精神的に非常に不安定です。外科的な処置は終わりましたが、このまま安易に自宅に帰すことが危険なのはみなさんもお分かりかと思います。切り傷の深さからしても単なる自傷行為とは思えません。死ぬつもりでやったのだと思います。ご本人には意識が回復してから、当病院の精神科にかかってもらいます」
その言葉を聞き、親父が眉を潜め、明らかな嫌悪感と偏見に満ちた表情をしてつぶやいた。
「せいしんか…ですか…」
「私は外科医なので何とも言えませんが、こういった自傷行為の患者の何割かは、家庭環境の犠牲者であることが多いのです。失礼なことを承知で言いますが、家庭内で何か彼女を知らないうちに追い込んでいたようなことはありませんか?よく考えてください」
そう言うと外科医はその場を後にした。
「ありがとうございました!」
深々とお辞儀したのはお袋だった。お辞儀をしながらお袋は泣いていた。
親父はプルプルと体を震わせ、悲しみよりもむしろ怒りに満ち溢れたような表情をしていた。
彩は左腕と首が包帯でぐるぐる巻きにされていた。
そして危険回避のためか、ナースステーションの近くの病室に寝かされていた。
俺たち三人はベッドの脇の長椅子で眠れずに一晩過ごした。
危険なので付いていて欲しいという病院のお願いだった。
彩が目を覚ましたのは翌朝だった。
彩がかすれた声でつぶやいた。
「…なに…ここ…?」
「びょ、病院だよ…」
親父が普段の威厳もどこかに忘れてきたかのように、弱々しくつぶやいた。
「死ねなかったんだ…アタシ…」
親父が震えた声で言った。
「彩、許してくれ…。お前の警告を無視してあんなことをして…」
「………」
「頼む、もう退院したらあんなことはしないでくれ。出来ることがあったら何でもする」
お袋は俺の後ろで鼻をすすっている。昨日から泣いてばかりいる。
俺は彩の心配ももちろんあったが、生まれてこの方、あんなグロテスクで残虐な場面は見たことがなく、思い出しただけで彩に吐き気すら覚えた。
彩の首や左手を見るたびに、血なまぐさい臭いがするような感覚を感じた。
「アタシ、いつ退院できるの…?もう別に処置することもないんでしょう?」
「いろいろと診察が終わってから、退院になる」
「いろいろって…?」
親父は咳払いをして、気まずそうに答えた。
「いろいろだ、俺も医者じゃないから詳しくはわからん。まあ傷の具合とかその辺を見るんじゃないか」
「…そう」
数分間沈黙した後、彩がかすれ声でつぶやいた。
「お願いがあるの」
「何だ…?」
「アタシが退院するまでに、今すぐ早急に、私の部屋の扉を直して!当然ながら鍵も作って!言っておくけど合鍵なんて隠れて持っていたら、その事実を知った時点で、また同じコトをするからね!今度はもっと深く行くよ…」
三人とも息を飲んだ。今回の自殺企図で、彩が少しでも懲りてくれたのではと、恐らく俺を含め、両親も思っていたので、この発言には絶望的な気分にすらなった。両親もそうだったに違いない。
親父は今とても彩に逆らえる状態でもなく、病室を出て慌てて知人の業者に電話し始めた。「見積りなどいいからとにかくすぐにでも作ってくれ」といった内容の話し声が廊下から聞こえてくる。
彩は三日程で、退院の許可が出た。退院時、付き添ったのはお袋だけであった。親父は仕事で、俺も学校に行かなければいけなかったからだ。
退院したとはいえ、医師の指示通り、彩はその日のうちに同病院の精神科の医師の診断を受けることになった。
お袋は「精神科受診」と直接言わなかったものの、現場に行く前に彩はあっさりと気づいたという。
俺が学校から帰ってきたとき、お袋はリビングのソファーでぐったりとしていた。
「…ただいま…」
もうこの黒いオーラはいい加減に消えて欲しかったが、しばらく消えないことを俺は覚悟しつつあった。
お袋は、精神科に彩を連れていった時の状況を小声で詳しく話始めた…。
「まさか、精神科にいくの?冗談じゃない。私は死にたかっただけ。脳は正常。帰る!」
「彩、これは先生の指示なの!私も彩は正常だと思うわ、それを証明するためにもお願いだから言うことを聞いて頂戴!検査なの、単なる検査!」
「違う、きっと閉鎖病棟とかいう牢屋みたいなところに入れられて、死ぬことも生きることもできない状態にさせられるんだ!」
「そんなことはしない!」
「約束できるの?絶対に私が精神科に入院しないって、約束できるの?危険だからって診断されて、入院になるんじゃないの?そんなトコに入院なんて絶対にしたくない!」
お袋は激しく抵抗する彩に対し、根拠がないまま、一か八かで、
「入院は絶対にしないから安心して!」と言い放ったという。
「信じていいのね…?」
「う、うん…」
「もし入院になったら、もうアナタのことなんて二度と信じない。母親だということも今後永遠に否定する」
その言葉を聞いて、自分が娘から縁を切られるかもしれないという恐怖で体中が震え上がって寒気を感じたという。
こないだ自殺を実際に実行に移した彩だから、もしこれで入院などとなったら、自分は本当に縁を切られてしまうと思ったという。
診察の前に、精神科のソーシャルワーカーと呼ばれる人間が出てきて、彩にいろいろと質問をし、専用の記入用紙にいろいろ記録、その後、五十分程待たされて、ようやく担当の精神科医と面会出来たという。
その精神科医は最初の外科医とは違い、小太りでのんびりした感じの医師で、やる気があるのかないのかわからないような、比較的若い医師だったとのこと。
その医師は最初お袋と彩の二人にいろいろと質問をしていたが、やがて、お袋を待合室に待たせ、彩に色々と質問したり、変な絵を見せて「これが何に見えるか」とか訊いたり、本人に絵を描かせたりしたらしく、それは彩から聞いたという。
結論として、入院についてはベットが空いてないと言われ、また一週間後に来るようにと言われたとのこと。
「じゃあ今、彩は部屋にいるんだな…扉も鍵も、もう復活しているしな。ところで病名とかは?うつ病か?」
「今ははっきりとは診断名を付けられない…と言われた。けど『ナントカ人格障害』の一種じゃないかって」
「ナントカって何?」
「ちょっと…はっきりわからない、なんて言ったっけなあ…」
「あんた、やる気あんのかよ!娘の病名くらいちゃんと聞けよ!ふざけてんのか!医者に娘のこと丸投げしてんじゃねえええええ!」
俺はお袋を怒鳴り散らした。するとお袋はその場で泣き崩れた。
ここまで泣き崩れるとは思わなかった俺は、戸惑ってしまい、そこからはしばらく何も質問できなくなった。
お袋はみっともないほどに泣きじゃくり、それが十分以上は続いた。
もはやお袋も精神的に追い詰められているかのようだった。
ようやく落ち着いてきたあたりで、俺は質問を再開した。
「薬とかは出たのか?」
「一応出たわ。毎食後。こっちで管理している。だけど、薬は心を安定はさせるけど対症療法にすぎないだろうって」
「つまり薬を飲んだからといって彩の今の状態が治る可能性は低いってことか」
「…うん。ただ心を落ち着けているだけ」
再び彩のひきこもり生活が始まった。学校に対して両親は次のように伝えた。
「現在彩はひきこもり状態となり、精神科に通院している。言うまでもなく、ひきこもりの事実は隠しておいて欲しい。あくまでも家庭の事情による休学であり、アメリカ留学などを考え、英語のレッスンを受けたり、時々アメリカの友人の家にホームステイをしたりしている。日本の大学に入るかどうかわからないため、休学しているのだと周囲には伝えてほしい」
見栄っ張りの両親がいかにも言いそうなセリフだった。
プライドが高く、世間体ばかりを気にして、娘のひきこもりに対しても、周囲に一切の助けを求めようともしない。
だから「ひきこもりの親の会」だの「フリースペース(ひきこもりの人たちが集う場所)」などにも一切参加しない。
世間は狭い。自慢の秀才美少女が今現在引きこもりで、精神科に通院しているということがよほどバレたくないらしい。
しかも、何かそれに関する文献などをネットですら調べようとしない。
親父は仕事を言い訳に彩から逃避し、母親は腫れ物に触るかのように、彩に接するようになっていた。
両親はすでに俺のことなど眼中に無く、俺についてなど考えている余裕すらないかのようだった。
両親は、彩のことで毎晩のように大ゲンカをするようになっていった。
俺はいつも喧嘩をリビングの扉の小窓から見聞きしていた。
「そもそもお前が彩の心の変化に気づくのが遅かったのが悪いんだ!」
「なによ、あんたはいつも仕事仕事で、休みの日も二日酔いで寝ているか、釣りにいくか、ゴルフに行くかで、ちっとも彩のことなんて見てなかったじゃない!」
「男は仕事と付き合いで、子供のことなんて見ている余裕などないんだよ!何度言えば分かってくれるんだ!今だって重要なプロジェクトの真っ最中なんだ。今はどんなことがあっても仕事を休むことはできない!」
「彩が倒れても?」
「その時はお前に頼むって言っているだろう?」
「あなた様からすれば私の仕事は身分の低い仕事かもしれないけど、わたしだって惣菜売り場の主任なの!急に私が休むと、現場は一気に混乱するから私だって安易に仕事をぬけだせないの!私が仕事を辞めたら、この大きな三階建ての自慢のマイホームのローン返済も、二人の車のローン返済も危なくなるでしょう。ましてや二人の大学の学費まであやうくなるじゃないの!あなたの親戚の協力を得ることってどうしても出来ないの?」
「あんな自殺未遂するようなおかしなひきこもり娘がうちにいるなんて、そんなことを先祖代々誇り高き田中家に言えるわけがないだろう!田中家始まって以来の恥だ!」
「どこまでプライドが高いのよ!娘の命と家の恥とどっちが重要なの?私の親戚は九州と沖縄だから何かあっても遠すぎて来れないし…あなたもわたしも仕事を休むわけにもいかないし…もうどうしたらいいの?」
お袋はまた泣き始める。
「なんであんな状態なのに入院できないんだ…」
「もっと重い精神疾患の患者がたくさんいるからよ。彩は幻聴も幻覚もなく、脳に異状は見られないから、精神ではなくて、人格形成に問題があるんだって。だから入院したからといって治るわけじゃないって。本当に治したかったら、県外に彩のような状態の患者を入れる専門の精神科があるっていうんだけど…」
「県外の精神科に入院って、以前なんか聞いた、山奥にある人里離れた病院だろ!冗談じゃない!子捨て山みたいなものだ!しかも入院費用が高すぎる!」
「だったらどうすればいいの!」
「とにかく、俺はもう寝る!明日また重大なプレゼンがあるんだ!」
「なによ!自分ばっかり忙しいみたいな言い方して!結局みんな私にあなたは押し付けるのね!昔っからそうじゃない。健が生まれた時も、彩が生まれた時も、夜泣き、おむつ交換、お風呂、寝かしつけ、病気の時の看病…ほとんど手伝ってくれたためしがない!『俺は明日重要な仕事があるから…』って、いつでもいつでもそればっかり!」
お袋の口からは、毎晩のように今まで服従してきた怒りが、爆発したかのように溢れ出し、暴言が止まらなくなっていた。
しかしこの晩は親父も仕事と日常の疲れがそうとう溜まってたようで、怒りがピークに達していたようだった。
次の瞬間…ガシャーンという激しい異音がリビングに鳴り響いた。
親父がお袋を拳で殴りつけ、お袋がテーブルに頭をぶつけたのである。
俺は思わずリビングの扉を開けた。
お袋は鼻と頭から血を流していた。親父の手は両手とも拳をにぎった状態であった。
「やめろよ!何やってんだよ!家庭内暴力じゃねえか!」
親父は俺を睨みつけたまま何も言わない。
するとお袋は低く、憎しみのこもった声でこうつぶやいた。
「健…もうここまで見られてしまったなら教えてあげる」
俺はかつてない母親の怨念に満ちた顔を見ながら、話を聞く。
「この人、元々、家庭内暴力がすごい人なのよ。結婚するまでは全く気付かなかった。結婚して、子供が産まれたあたりから徐々に暴力を振るうようになってきたの。この人なりの仕事のプレッシャーとかいろいろあったのかもしれないけども…でもこの家庭を暴力的な家庭にするわけにはいかないとわたしは思った。子供たちに恐怖を与えたくないと思った、だからこの人の言うことはみんな逆らわずに聞くようになっていったの。この人を自由にして、一切拘束もしないで、ひたすらこの人の言いなりになっていたら、この人から暴力が消えていった。だから私は、この家庭を守るために、この人の犬になろうって決めたの。そうすればこの家からは少なくとも暴力は消える。だから出来るだけ、あなたたちにも『とにかくお父さんの言うことを聞きなさい』って言ったの。あなたたちは私のことをお父さんの奴隷か犬みたいだと思っていたかもしれないわね。でもやっぱり恐れていたことが起こった。思春期や反抗期を迎えたあなたが、進路のことでお父さんとケンカになったとき、とうとうお父さんはあなたを殴ってしまった。あの時のことは今でも覚えている。でももうこれ以上暴力は嫌だから…だから…あなたの夢を押さえつけてでも、『お父さんに謝りなさい』と言ってしまった…。一番大事なのはあなたが夢を持つことなのに…」
そういうとお袋はまた、泣き崩れた。
親父は拳を握りながら、歯ぎしりをしていたが、次の瞬間、近くにあった白い花瓶を手に取り、それを思いっきりリビングの壁に投げつけた。花瓶はものすごい音と共に粉々になり、俺の顔にまで破片の一部が飛んできた。
「な、な…何を…」
それ以上言えない俺。かつて親父に殴られた恐怖がフラッシュバックする。次の瞬間三人の携帯メール音が鳴った。彩からだった…。
三人の動きが止まった。もはや三人共着信音恐怖症だった。
俺の携帯でメールを確認する。
『うるさいんですけど。私が存在しているってそんなに悪いことですか?今ケンカしているのって夫婦の問題ってより、結局は私のせいでしょう?私があんなことをしなければこの家は一応形上だけでも成り立っていたのだからね。じゃあ、私みたいな邪魔者は死ねばいいですか?お父さん、明日は大事なプレゼンですか?その時間帯に彩が何かヤバイことをしたら、仕事を投げてでも飛んできてくれますか?恐らく来れないでしょうね。じゃあ死ねってことですね?私さえいなければこの家、きっと幸せになる。私なんて産まれなきゃよかったね』
そのメールが三人の心のバランスをさらに崩し、精神的にどんどんと追い込まれているのが目に見えてわかった。
親父はその場でしゃがみこんでしまった…。
その夜、両親にはもはや花瓶の破片を片付ける力などなかった…。
翌朝、お袋は米すら炊いてなく、全く朝食を作っていなかった。
昨日あんなことがあったわけだから、そんなことするエネルギーもないのだろう。
俺はお袋にとてもじゃないが朝食はどうしたの?などと聞けなかった。
しかし非情な独裁者はこう言った。
「おい!朝食はどうした?パンのひとつも用意してないじゃないか!」
そこからはまた喧嘩が始まった。
「私はもうあなたの奴隷じゃないし、犬でもないから!」
「メシを作るのはお前の仕事だろう!」
「悪いけど、コンビニで適当に買って食べて」
「それだと歯も磨かないで出勤しろってことか!」
「だったら、そこらにあるパンとか牛乳とか、適当に食べてよ!」
「そんなもんで、今日という一日が乗り切れる訳がない…お前は俺に与えられた仕事の重い責任が全くわかっていない、未だにわかってない!」
俺は二人の間に挟まれていながら、存在感がないかのようだった。
二人はお互いのエゴをぶつけ合うようになり、彩が心を病んだ原因についてもお互いに罪をなすりつけ合うようになり、夫婦仲はさらに悪くなっているのを感じた。
「二人ともやめろよ!俺はパンと牛乳だけでいいよ!親父はコンビニで何か買えばいいじゃないか!」
親父は俺をギロリと睨みつけ、お袋をも睨みつけ、捨て台詞を履いて出ていった。
「ああ、そうさせてもらうよ!澄子、お前はもう料理など作らなくていい。俺はこれから毎食外で食べることにする!」
親父は苛立ちのあまり、勢い余ってそう宣言したかのようだった。リビングの扉を開くとバターン!と壊れそうな勢いで扉を閉めて、とっとと会社に出かけてしまった。
「もう、この家…おしまいね…」
「何言ってんだよ!そんなこと言うなよ…!ふざけんなよ!」
「自分自身を人質にした長期ひきこもり作戦」
彩を表現するならそんな状態であった。
とうとうこんな状態で一ヶ月が過ぎた。
親父とお袋は毎晩喧嘩、彩は家族が不在の時と、精神科通院の時以外はずっと部屋に引きこもって、ネットをしているか、例の自殺系の音楽を聴いているか(同じ曲を延々とリピートしている)、謎の本を読んでいるかのいずれかのようであった。
最近たまに携帯で誰かと話している時があるようだったが、聞き耳をたてると大概敬語で話しているので、学校の友人ではないと思われた。ネット友達の可能性がある。