惨劇の始まり
翌朝、彩は何事もなかったかのように元気に挨拶をし、食卓についた。
パンにはチーズとケチャップをつけてトースターで焼き、美味しそうに食べ、両親も昨日何事もなかったかのように普通だった。
あれだけ昨日どんよりとした空気に満ちていたのに、どうしてこうも安易にこの家庭は元に戻るのだろう…?俺は不思議でしょうがなかった。
彩はいつもよりも早く食卓をすまして、歯を磨き、学校に行く準備を整えて、元気な声で「いってきまーす」と言い、家を出ていった。
不思議でしょうがなかった。どうしてこれだけ抑圧された独裁政権のような家庭に彩は耐えられるのか?
俺が学校に着いたのはチャイムが鳴る五分前であった。
またいつものくだらない一日がはじまる。そう考えながら、朝のミーティングが始まり、机の上でいつもの如くあくびをしていた。
一時間目、世界史。
「羊」と呼ばれるくらい眠くなる先生の授業で、彼の授業は録音すれば不眠症の患者に是非おすすめのグッズになるのではと思うくらいのものだった。
二時間目、数学。
相変わらずわからない。黒板に次々と宇宙語が書かれていき、とてもついていけない。
三時間目、化学。
もうこの変で嫌になる…。
その時ふと思った。
『保健室に行ってみようか…』
俺は『このままでは何も変わらない、学校と独裁家庭の間で人生の目標もなく、わけもわからないまま、わけのわからない会社に入り一生を過ごす…そんなのは嫌だ』と、ふいに思い立ち、具合が悪いことにすることにした。
俺が仮病を使うのは初めてのことだった。
俺は、やや緊張しながらも手を挙げた。
「せ、先生…」
「どうした?」
「ちょ、ちょっと体調が悪いので…保健室に行きたいんですけど…」
先生はあっさりと許可してくれた。仮病ってこんなに簡単なものなのかって思った。
おそらく化学の先生は、生徒の体調不良は『自分の領域』ではないと判断したから安易に保健室に送ったのだろう。
俺は体調も悪くないのに保健室に入った。
そうするとすでに一人カーテンを仕切って先客がいた。
保健の先生、安田は言った。
「ええと、名前は?」
「田中健です」
「田中さん…?おや…お兄さ…!いやいや、健さんですか…!保健室に来るのは初めてですね。どうしましたか?」
安田は神経質でぎこちない性格の人間だということは知っていたので、この動揺には何かがあるなと思った。だいいち「お兄さ…」でやめるって…。
この時にやはり妹が保健室の常連であることがわかった。
守秘義務を守るのが日本一ヘタな保健の先生かもしれない。
「ど、ど、どこが調子悪いですか?」
妙に態度がぎこちない安田。奴のメガネがカタカタと震えているかのようにみえる。
「いや、なんか熱があるんじゃねえかなって思って…」
安田は昭和の風情を感じさせる水銀の体温計を出し、俺に自分で脇の下に入れるよう伝えた。俺は言われた通りした。
しばらく沈黙していた。
カーテンで仕切られている先客が妙に存在感がないのに違和感を覚えた。
咳もなければ寝返りする音もなければ、呼吸音すらも感じなかった。
俺には逆にそれが不自然に感じた。
「ここには俺の妹、田中彩が来ることってありますか?」
コーヒーを飲んでいる安田に唐突に質問、安田はコーヒーを吹き出しかけ、ゲホゲホとムセていた。分かり易すぎるお約束のリアクションだった。
もうこれが正解だと俺はすぐ分かった。
「い、いやいや…。妹さんかどうかは…私もいろいろな生徒さんを見ているから、ちょっとはっきりは覚えてないんだけどねえ、ごめんね…」
その瞬間、バタンと保健室の扉が閉まった。
それと同時に安田は俺から体温計を出すように指示した。なんかまだ三分経ってないような気がするんだが…。
「三十六度、平熱ですね。問題ないですね。じゃ、じゃあ早く授業にお戻りになって下さい」
全体的に不自然な空気を感じた。
俺は体温計を安田に返すと、言われた通り保健室を出ようとしたが、安田が体温計をアルコール消毒している時のスキを狙い、勢い良く一気に仕切られたカーテンを開いた。
そこには誰もいなかった。しかしベッドに触れると温かかった。
「あの、勝手にカーテンを開けないで!」
安田は強い口調で言った。
「なんで誰もいないのにカーテンをしきっていたんですか?」
「…と、特に深い意味はないです。さあ、授業中でしょ、早く…」
「深い意味はないって…さっきバタンって扉が閉まる音がしたんですが…ここに寝ていた人が逃げるようにして出ていったんじゃないですか?」
「さ、さあ、よくわかりません」
「なんで、保健室に他の人間が入ってきただけで病人がすばやく消えるんですか?ベッドに
体温がまだ残っているなら誰かがさっきまで寝ていた証拠じゃないですか?」
「と、とにかくそんなことまで教えることはできません。難しい言葉で守秘義務って言うんです。さあさあ早く授業に戻って!」
「まさか俺の妹が今、ここに寝てたんですか?」
「だからそういうことは私が言うと守秘義務を破ることになりますから、そう思うなら本人から聞いたらどうですか?しつこいわね君も!」
頭をかきむしりながら、やや荒い呼吸で安田はそう言い放ち、俺を保健室から追い出した。
おそらくさっきまでこのベッドに寝ていたのは彩だろう。
俺が突然やって来たから逃げたのだと思う。
別に逃げる必要などないと思うのだが、あえて逃げるということはやはり何かがあると思った。
その日の夕飯、彩は別に何事もなかったかのように普通に学校のことや友人のことをお袋に話していた。
ちなみに親父は相変わらず食卓にはいなかった。今夜も取引先の人間と高級クラブで飲むのだろう。
翌朝、俺が起きると何やら親父がお袋に怒鳴っていた。
「風邪とかならともかく『学校にいきたくないからいかない』ってそんなことが許されるわけがないだろう!早く起こしてこい!」
「何度言ってもダメで、理由も教えてくれないのよ!あなたから言った方がいいと思う」
俺はリビングに入り「おはよ」と言うが、俺のことなど眼中にもないように二人はもめていた。
いつもなら既に起きてパンを食べているはずの彩がいない。
彩が登校拒否?ありえない。
もしかして昨日俺が保健室に行ったことが原因?そのくらいで登校拒否?
わけがわからない。
「彩は?」
状況を把握しつつあえてお袋に訪ねてみる。
「学校に行かないって言うのよ。いくら理由を聞いても話してくれないの。あなた何か心当たりある?」
「ないよ、だって昨日の晩ご飯の時だってなんともなかったじゃん」
すると親父が深いため息を付いて言った。
「ええい、もう時間がない!俺が言ってきてやる!行きたくないだあ?そんなこと許されるわけがない!」
親父はリビングのドアを勢い良く閉め、階段をズカズカと上がり、彩の部屋をガンガンと激しくノックした。
その様子を恐る恐る下から見守る俺とお袋。
「彩!早くしろ!鍵を開けろ!遅刻するだろ!母さんから聞いたぞ『学校に行きたくない』だと!理由を言ってみろ!」
「…………………」
彩の部屋からは全く返事がない。
「だから理由を言えっていっているんだ!言わないと何もわからないだろう」
「…………………」
「『学校に行きたくない』から行かないなんてそんなの社会じゃ通用しないぞ!例えば『会社に行きたくない』人間なんて山ほどいるんだ、それでもみんな生きるために働いているんだぞ!俺だってその一人だ!みんな頑張っているんだ!甘えるな!」
「………………………」
「いい加減に返事をしろ!俺だってこんなことしてたら会社に遅刻するじゃないか!とにかく理由を言え!」
「…理由を言ったら、休ませてくれるの?」
やっと彩が返事をした。
「その理由にもよる、とにかく理由を言え!病気でない限り学校を休むことは許さん!」
「じゃあ、病気だから休む」
父親の苛立ちはピークに達した。
「だったらまずは熱を計れ!リビングで計れ!」
「熱は部屋で計った」
「証拠がないじゃないか!」
「三十六度ちょうどだった」
「平熱じゃないか!下痢とか吐き気とか他にそんなのでもあるってのか?」
「体のどこも悪くない」
「だったら仮病じゃないか、それともお前なにかイジメとか、悩みでもあるのか!それなら相談に乗ってやる」
「何もない、クラスメートも先生もみんないい人ばかりだよ」
「だったらどこに問題があるっていうんだ!」
「だから病気だから休むっていってるでしょ!」
「病気じゃないじゃないか!」
「心の病気を患ったの。だから当分休みます」
「な、なんだと!」
親父はとうとう強硬手段に出た。
扉を壊さんばかりにガンガンと蹴飛ばし始めた。
「おい、澄子!金づちを持ってこい!この扉を壊してやる!」
言われたとおりお袋は急いで金づちを取ってきた。
「親父!もう今日はいいじゃねえかよ!本人なりの理由があるんだろ!一日くらいは休ませてやれよ!」
「うるさい!お前はとっとと学校へ行け!」
俺はもはや全くの部外者だった。
「彩、今父さんは金づちを持っている、これ以上開けないのなら、金づちでこの扉を壊すぞ!」
「彩、お父さんの言うこと聞いて!とにかく扉だけでも開けて頂戴」
すると彩は大きな声でこう言い放った。
「扉を開けたら即自殺してやる!」
俺を含め、三人の動きが止まった。
親父もお袋も衝撃的な言葉に耳を疑っているようだった。
もちろん俺も彩のセリフとは思えなかった。
「な、なんだと!お前、一体何を考えているんだ!」
「わたし…、今…、すごおく切れ味の良い果物ナイフを持っているの。扉を開けたら即、首に突き刺して自殺するから」
親父もお袋も言葉を失った。
これがアノ彩なのか?扉の向こう側にいるのは本当にアノ成績優秀で、運動神経も良く、ピアノも上手な、美しい自慢の美少女、彩なのか…。俺もそうだが、両親もそう思っていたにちがいない。
父親はポケットから携帯を取り出し、どこかに電話をし始めた。
するとさっきまで鬼のように怒り狂っていた父の声が急に小声になり、時々声が裏返りながら、弱々しい態度で電話し始めた。
「あ、田中です、あ、あ、あ、あの上田社長はいらっしゃいますか?……あ、ああどうもおはようございます。しゃ、しゃ、社長、まことに申し訳ございませんが、ちょっとアクシデントがありまして、出社に1時間ほど遅れますので、ええ、詳しくは後でお話いたします…。え?その件…あああ…ええっと、急ぎますか?はあ、確かに私でないと対応ができないのですが、あ、山下君が知ってますから、私の机の二番目の引き出しに『起案書』と書かれているものがありますので、そ、それで、す、すみませんが対応していてもらえますでしょうか、は、はあ、そ、そうですね…すみません、え?あ、ああ、ごもっともで、すみません…はい…誠に申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします、失礼いたします…」
誰もいない方向に深々と頭をさげて、携帯を切った弱々しい親父は、再び鬼のような雄叫びを挙げた。
「お前のせいでみんなが迷惑してるんだ!俺の仕事にも影響してるんだぞ!早く出てこい!いいかげんにしないと、本当にドアを壊すぞ!」
「お願いだから、彩、お父さんの言うことを聞いて!」
彩の心に明らかに変化が起きているにも関わらず、相変わらず強行突破に出ようとしている両親に俺はあきれ果てて、叫んだ。
「親父、母さんもいいかげんにしろよ!一日くらい休んだからってどうってことねえじゃねえか!今日はもうやめようよ!」
すると父親は俺を睨んで言った。
「俺はコイツと戦うために、会社をあえて遅刻する道を選んだんだぞ!登校拒否など弱い人間がやるものだ!絶対に意地でも学校に行かせてやる!」
彩が不気味な低い声でうなるように叫んだ。
「何度も言うけど……扉開けたら本気で首にナイフ突き刺して即死してやるからね!嘘だと思う?本気よ!」
今までの明るい彩からは聞いたことのないような声だった。悪魔でも乗り移ったんじゃないかって三人とも思ったに違いない。彩は続けて低い声で言った。
「私、今、果物ナイフを首に当てているんだよ…ウソじゃないよ。私に死んで欲しくなかったら私の言うとおりにして。私、心を病んでしまったんだよ。どういうわけかもう世の中が嫌になったの…慢性的に虚無感を感じるし、死にたいなあってふと思うことも多いの…」
「あ、あなた、彩を精神科に連れていった方がいいのかしら…」
「じょ、冗談じゃない!世間体ってものが…」
「そんなこと言っている場合じゃないでしょう!」
彩がまた唸るような低い声で、叫んだ。
「ヒソヒソ話、みーんな聞こえているわよ、いっとくけど私は心は病んでいても、精神病じゃありませんから。連れていっても異常なしって言われるわよ。もし連れてったら、両親の言うことはすべてでっち上げですって言ってやる。そんなとこ絶対に行かない」
父親は少し冷静な声になり、言った。
「彩、いくらなんでもその部屋から出てこないで生活するのは無理だ。お前はトイレに行きたくなったらそこで用を足すのか?」
「もちろん、その時はトイレに行くけど、私の体に少しでも触れたら即、ナイフを首に刺すから。部屋から出るときは常にナイフを首に当てて生活するからそのつもりでいてね」
親父もお袋も結局この日は彩を学校に行かせるのを諦めることにした。
自分たちが怒れば怒るほどかえって火に油を注いでいると判断したのだ。
思春期という難しい年頃だ、友人とのトラブルか、失恋したのか、きっと何かあったに違いない。一過性の精神的な混乱に違いない。時がくればすぐに元に戻る。
両親も俺も最終的には楽観的に考えることにした。
俺はいつも通り学校に行き、親父もお袋もそれぞれの仕事に出かけた。
多少の心配はもちろんあったが、学校はともかく両親は家のローンや会社への責任もあり、仕事を安易に休むことはできなかった。
「大丈夫、彩は少し疲れてしまったのに違いない…またそのうち元気な彩に戻る」
俺も両親もそう考えていた。
しかし彩が部屋に引きこもってから一週間が経ってしまった。
俺を含め、両親共一〜二日もすればどうにかなるんじゃないかって甘い考えでいたのだが、彩の異常な行動は想像以上に家族を驚かせ、苦しめた。
一週間も同じ状態が続くというのは想定外だった。
お袋はしょっちゅう泣くようになり、親父はいつでもイライラしていた。
そして俺はこの現状をどう受け止めるべきかがさっぱりわからなかった。
彩はみんなが仕事や学校に行き、留守になった隙にシャワーを浴び、ドラム式の洗濯機で服や下着を洗濯・乾燥させ、部屋のゴミは袋にまとめ「捨ててください」と書いた紙を貼り付けて、玄関靴箱の脇に置いていた。
ごくまれに近くのコンビニに行くこともあったようだ。
食事については
「昼はいらないから朝と晩のご飯だけ私の部屋の入口の廊下に置いて。持ってこないのなら餓死してもいいのだとみなして、絶望してナイフで死ぬからね」と本人が言うので両親ともやむなく彩の言う通り従った。
彩の部屋には最初から鍵がかかるようになっていたが、いつの間にか彩は外部の様子がわかるように内部からチェーンも取り付けていたのだ。
彩の部屋の扉は「部屋側」から押すタイプの扉だったので、彩はまず鍵を解除し、チェーンが掛かった扉をそっと開けて左右に俺たちがいないことをはっきり確認してからすぐに足元の食事のお膳を部屋に引っ張り込み、一瞬で鍵を掛けていた。
そして食べ終わったらまたチェーンの隙間から左右を見て、誰もいないのを確認したらすかさず食後のお膳を廊下に出して、すぐにまた鍵を掛けるという異常なほどの警戒ぶりだった。
彩の家族への不信感は想像以上で、俺たちが「学校や仕事に行ったフリ」をして隠れていて、一階に降りてきた自分を捕まえて、精神科に強制的に連れていくのではないかと思っているらしく、そのようなことをしても無駄だと何度も警告してきた。
警告は口頭、携帯メール、携帯電話などで随時知らせてきた。
コミュニケーション手段で日に日に多くなっていったのは携帯メールであり、同じ文章メールが俺たち三人の携帯にいつも同時に入ってきた。
最近のメールはコレである。
「わたしはたとえ家族が全員外出したとしても、部屋の外、トイレ、風呂場にも果物ナイフを常に首に当てて行動しているから、もし誰かが隠れているのを発見したら、『私を確保するために隠れていた』とみなして、その時点で即自殺するからね。何度も言うけど自殺はハッタリや脅しじゃないからね、本気で実行に移すからね」という内容だった。
トイレは一階にも二階にもあったが、当然彩は二階のトイレを使っていた。トイレから出る時も彩はものすごく俺たちを警戒していた。
「トイレの外に誰かがいた時点で、『私の確保』が目的とみなして即自殺するから」と警告していた。
俺たちは階段を上がる時も自分たちの行動をいちいち彩に報告しなければいけなかった。
「彩―、今はトイレにいるのか?兄さんトイレに入るぞー」とか
「彩―、父さん、健の部屋に用事があるからこれから階段を登って健の部屋にいくぞー!」とか、その他、いかなる理由でも二階に上がる理由などを下階から告げないで上がっていくと、「二階に上がる理由を言え!早く言え!」等と大騒ぎした。
彩は一日中何をしているのか?
どうも自分のノート型パソコンでネットばかりをやっているみたいだった。
いつでも部屋の中からカタカタとキーボードを鳴らす音や、マウスをクリックする「カチッ、カチッ…」という音が聞こえていた。
彩が引きこもってから十日目の夜、親父は早めに仕事から帰ってきて、俺とお袋を呼び、彩に聞こえないようにリビングで家族会議をしようと言い出した。
リビングには豪華なシャンデリアがあって明るいのに、空気は淀んでいた。
この家の二階には得体のしれないものが住んでいる…そういった空気だった。
「もう十日目だ…親をなめやがって…これ以上だまっているわけにはいかない。学校への言い訳ももう限界に近づいている」
学校への言い訳というのは、『娘は英語に興味を持っていて、親戚の人と四〜五日アメリカに行くことになったので、その間、学校を休学したい』という多少無理のある言い訳だった。
そこまで世間体を気にするのかと思い、俺はつくづく両親には幻滅していた。
正直に先生にひきこもり状態であることを伝えるとか、公的な機関、児童相談所や引きこもりの親の会などの門を叩けばいいじゃないかと言ったこともあるが、親父は彩が必ず元通りの「優等生で良い子の彩」に戻ると信じて、そのようなことは一切拒絶した。
「あいつ、『死ぬ』なんて言っているけど、俺は死ねないと思う。有名な誰かが『死ぬって言う奴にかぎって死んだためしがない』って言ってたしな」
親父の意見に俺は真っ向から反対した。
「親父の考えは古すぎる。死ぬって言って死んだ人間なんてたくさんいる。俺だっていろいろネットで調べたりしたんだ。親父はネットで引きこもりとかについて全く調べてないのかよ」
「そんなことしている暇は俺にはない。とにかく今夜最終警告をアイツにする」
そういうと親父は立ち上がり、玄関を出て、車から何かを持ってきた。それは建設現場専用の巨大なハンマーだった。
「建設業の知人から借りてきたんだ。今夜あいつに警告する。『明日の朝になっても開けないと巨大ハンマーでドアを無理やり破壊して意地でも下に連れてくる』ってな」
「あ、あなたそんなことしたら彩がナイフを首に…」
「バーカ、死ねるわけがない。もういい加減あいつの脅しに振り回されるのはまっぴらだし、娘に怯える俺たち自身も情けない。俺は絶対にあいつはナイフを自らの首に突き刺すなどできるわけがないと思っている」
「親父、だけどあいつ『本気だ』って何度も言っているんだぜ!その発想は余りにも浅はかで危険じゃないか。もっともっとアイツの話を聞いてやるべきじゃないのか?ここは一度怒りを抑えて、優しく、愛情を持って交渉するのがいいんじゃないのか?」
「何が優しく交渉だ!これ以上、あいつの言いなりになるわけにはいかない!あのバカ娘が…こっちが黙ってりゃどんどんどんどん調子に乗りやがって…注文もエスカレートするばかりで、あいつのためにもならない。心配するな、あいつに死ねるわけがない」
「親父、俺テレビか何かでこんなのをみたことがある。人質に拳銃をあててコンビニに立てこもっている男のドキュメンタリー番組だったんだけど、交渉人はまずは相手に合わせた。相手の話をひたすら親身になって聞いていた。その結果犯人は自首してきたんだ。だけど今の親父は彩の話など聞かずに問答無用でただ無理やり学校に行かせようとばかりしている!それだと根本的な解決にならない。まずは原因を探る方が先だ」
「何度理由をたずねても『世の中が嫌になった』の一点張りじゃないか!健!これ以上悠長なこと言っている余裕などないんだ!アイツはもう十日間も学校に行ってないんだぞ!あいつからの最近のメールでも『勉強は全くしていない』って書いてたじゃないか。このままだと運が良くとも二流大学にしか入れない。俺はアイツの将来を考えて言っているんだ!」
お袋はその脇でただ黙ってうんうんと聞いている。
このババア、相変わらず『自分』の無い奴隷犬そのものだ。
ちなみに勉強をしているかについて、彩にメールで聞いたのは俺だった。
俺と彩の兄妹関係について一言で説明すると、良いわけでも悪いわけでもなく、年齢が増すごとに互いに距離を置き始めて、今となってはおはようの挨拶くらいしかしない程度の仲であった。
だから今となっては他人のような兄妹と言っていいくらいコミュニケーションがなかった。
お互いに関心もなかった。
言うまでもなく異性として意識したこともほとんどない。ただし、ルックスが良いということだけは確かだな、とは思っていた。
恐らく向こうも俺に対しては何も関心はないだろう。
空気みたいなもの。
「あ、いるな。まあいてもいなくてもどうでもいいや」って感じだろう。
彩がひきこもってからは携帯に電話してもメールしてもほとんど出ることはなかった。時々扉の内外で会話ができたが、長続きはしなかった。
ただ一度だけ長く話せたことがあった。四日程前のことだ。
最初は妹と扉を挟んで会話をしていたが、聞き取りづらいので携帯に電話したら、その時は出てくれたのだった。
そのとき話した内容はこんな感じだったと思う。
「なんで、引きこもっているんだ…?学校が嫌なのか?」
「さあ」
「親だろ?あの独裁体制に嫌気がさしているんだろ?それがこないだのバンド事件で一気に反発心が芽生えたんだろ?」
「さあ、否定も肯定もしない」
「あとお前、トイレにめったに行かないけど、どうしているんだ?」
「…おしっこだけなら女性用の尿器をすでに三つ買ってあるからそこに貯めて、蓋をしてベッドの下の奥に置いてある。みんながいなくなってからトイレに捨てに行ってその後洗ってる。その他衛生用品はほとんど揃っている、手の消毒もできる。不衛生な環境じゃないわ」
シモの件という恥ずかしい部分について、彩が具体的に話してくれた。
このことにより、意外と彩は俺には心を開いてくれていると勘違いしてしまった。
しかし、すぐにその期待は裏切られた。
「だけどお前、一日中部屋で何をやっているんだ?暇じゃないのか?」
「一日中ほぼネットと音楽鑑賞。あとはネットの知り合いが教えてくれた本とかを読んでいるよ」
「ネットの知り合い?本?具体的に教えてくれ」
「教えない。あなたには関係ないから」
俺は少し挑発するような質問の仕方に変えた。
「ひきこもりの原因、わかった、好きな男に振られたんだろ、そうとしか思えない」
「否定も肯定もしない。だけどあんたの発想って低レベルだね」
「男だな?」
「否定も肯定もしない」
「さっきからその変な表現はなんなんだ?」
「だって違うっていえば、どんどん消去法でひきこもりの理由が明確になっていくでしょう?だから否定も肯定もしない。つまりイエスともノーともどちらも言わない。勝手に想像してちょうだい」
彩のこの口調と表現からは全く手掛かりが得られず、これ以上は何を聞いても「さあ」とか「否定も肯定もしない」のいずれでしかなかった。
この時の会話については一応両親にも話はした。
俺が想像するに彩の一日はこうである。
一応朝食を食べるということは、夜ふかしをそれほどしていない。
おそらく朝食後、俺たちが学校とか職場とかに行ったのを確認したら、歯磨きやシャワーなどをし、いろいろ身だしなみを整え、また部屋に引きこもり、ネットやら何かをしているのだ。
昼食は適当に冷蔵庫から残り物をあさったり、食パンや牛乳で済ませているのだろう。
台所や冷蔵庫の、それらの物の減りが早いからだ。
どうしても必要なものがある時は外出して、出来るだけまとめ買いをし、また引きこもる。そんな毎日を送っているのだろうと思う。
話を元に戻そう。
さてリビングでの彩に関する話し合いが始まり、一時間が経過した時だった。
いきなり父親が意を消したように立ち上がり、巨大なハンマーを持ちながら、『彩、これから上にいくぞー!』などど、いちいち下階から断らずに階段をズカズカと上がっていった。
「二階に上がってくる時は理由をいいなさいって言ってるでしょう!」
彩は相変わらず自分が『二階の主人』であるかのような傲慢な言い方をした。
「彩!お前に警告する!明日の朝にはこの扉を開けろ!そうすれば今までのことはなかったことにしてやる!」
彩の態度も良くはないが、このクソオヤジ!この場に及んでまで上から目線で言いやがって…そんな言い方したら意固地になって、ますます開けなくなるに決まっているだろう!
「もし明日の朝になってもお前がこの部屋から出てこないと、ハンマーでドアを無理やり破壊するぞ!父さんは今、建設業者から借りてきた巨大なハンマーを手に持っているんだぞ!」
「………………」
返事がない。
親父のこのような対応は絶対に間違っていると俺は感じていた。自分自身がされても嫌だろうなと思ったからだ。
「彩、わかったでしょう?お父さんの言うとおり、明日には出ておいで、そして今まで通り楽しく暮らしましょう」
母親が言ったセリフの数十秒後に母親の持っていた携帯のメール音が突然鳴った。
母親は恐る恐る携帯メールを確認する。
『今までどおり楽しく?笑わせるんじゃないわよ、今までどおり自分を押さえ込んで苦しく暮らせって?お母さん、あなたもよくこんな家庭で耐えられるわね。このメス犬!お父様へ、明日ハンマーで破壊し始めた瞬間、私は即この世から旅立つことでしょう。これはわたしからの最後の警告』
このメールを見て、お袋はワッと泣き崩れた。
親父はメールを確認後、「なめやがってええ…」と今にもハンマーで扉を破壊しそうな、鬼のような表情になって体中を震わせていた。
そして俺は、この状況の中で、初めて「自分はなんて不幸な家庭に生まれたんだろう」と思った。
この家庭って、いろいろ不自由はあるけど、まだ普通の家庭の部類だと思っていた。
いや経済的なことをいうとむしろ他の家よりも裕福だったので幸せな家庭の方に入るんじゃないかって思っていた。
もちろん両親の嫌いな部分は山ほどあるが、親だって神様じゃない。
どこの家庭も似たようなもんだろうって思っていた。
翌朝、九時を過ぎたのに、想像していたとおり、彩は一向に部屋から外に出てくる気配すらなかった。
今日は土曜日で、両親の仕事が休みであった。もちろん俺も学校は休みだった。
彩にとっては土日が一番苦痛な時間だった。言うまでもなく俺たちの誰かは必ず家にいるからだ。
その日の朝食はいつも以上にどんよりとした黒い空気が漂っていた。
天気は良かったが、それが尚更このリビングを暗くさせていた。
なぜウチだけがこんなにも暗黒のオーラを漂わせていないといけないのか…。
三人ともそう感じていたに違いない。
親父は彩が九時を過ぎてもリビングに現れなかったら強行突破すると言っていた。
その九時を過ぎて、現在は九時五分だった。
「よし!いくぞ!」
親父は立ち上がり、俺とお袋もしぶしぶ立ち上がった。
親父は例の巨大ハンマーを持っている。
俺は親父に何度か扉の破壊だけはやめるよう説得したが、親父は全く聞き入れてはくれなかった。
だから俺は全く気が進まなかった。それどころか絶対に悪いことが起こると思っていた。
親父は足音を押し殺しながら階段を上がっていく、その後ろをお袋と俺が同じく音を立てずに上がっていく。
その時父親と母親と俺の携帯メール音が一斉に鳴った。携帯は全てリビングに置いていた。俺たちは一瞬動揺した。
恐らく彩が階段の音に気づいたのだろう、俺は今度はそっと、階段を降り始めた。
そしてリビングの携帯メールを見た。やはり彩からだった。
その内容に俺は背筋が凍りついた。
「お父さん、お母さん、階段をそっと上がってきているということは当然ハンマーを持っているのでしょう。もう時間の問題なので早速、手首は既に血だらけです。結構深く行きましたよ。血まみれでスゴイことになってますよ」
俺は急いで階段に走ったが、もうすでに遅かった。親父はハンマーを思いっきり、彩の部屋の扉に叩きつけ、二度程の強打で扉は脆くも破壊され、部屋が開いた。
彩の姿を見て、親父もお袋も、口を大きく開けて、震え始めた。
後から階段を上がってきた俺も彩の姿に絶句した。
彩は部屋の隅っこの壁に背中を付けていた。左腕はほとんどの箇所が無残にナイフで切り刻まされおり、血まみれで、壁に血飛沫がついており、床の絨毯の一部も血で染まっていた。
「お父さん、約束破ったから、これから首をやります。さようなら」
無表情で彩はそう言い放った。親父もお袋も言葉が出てこない。
彩は左腕のいたるところから、だらだらと血を垂らしながら、右手に血に染まった果物ナイフを持って、氷のような無表情で、全く動かなかった。
「彩、やめろ、もういいからやめろ…お前が本気なのはもうわかったから…今度こそ何もしないから、やめろ!」
俺は震える声で叫んだ。
しかしせっかくの俺の発言を親父は見事に覆してしまった。
しかも、恐らくこのような状況で『一番言ってはいけないセリフ』を彩に言ってしまった。
「…や、やれるもんならやってみろ!」
その瞬間、彩は何のためらいもなく、一瞬にして自らの首を切り裂いた。想像以上の量の血飛沫が、勢いよく飛び散る。彩はその場で壁からずり落ちるようにして、足を伸ばし、気を失った。
「きゃあああああああああ!」
お袋は狂ったように叫びだし、錯乱状態となった。
親父は彩に駆け寄り、ハンカチで止血するものの、その後何をどうしていいかわからず、俺に「救急車!救急車!」と叫ぶだけだった。
俺は急いで携帯をいじるが、救急車の番号が思いだせない。
焦ればあせるほど、思い出せず、間違って天気予報にかけたり、時報の番号にかけたりした。
救急車が一一九番だとようやく思い出し、電話する。
「こちら○○出張所、火事ですか?救急ですか?」
「救急です!急いでください!妹が首を切って自殺を図って、死にそうなんです!」
「落ち着いてください。妹さんは何歳ですか?お名前は?あなたのお名前は?あなたの電話番号は?あなたの住所は…?」
こちらもパニックで自分の住所すらも出てこない、電話番号すらも出てこない。
気を取り直してようやく全てを伝えることができ、救急車は約十分でやってきた。
その間親父はとにかくタオルなどで彩の首や腕を止血していた。
俺はこれが悪夢ではなく現実なのだということを半分理解できずにいた。