ロックバンド
さて親父から彩のバンドをやめさせるよう言われたお袋は翌朝、複雑そうな表情で、彩を見ていた。
彩は「このサラダ美味しい」と朝から相変わらず明るかった。
俺はこれから何が起こるかなんとなくわかっていた。
案の定新聞を読みながら行儀悪く食事をしている親父が咳払いをした。
それが合図だった。
「あ、彩、あのね…最近、バンドでキーボードやっているでしょ…?そのことについてなんだけど…」
彩のフォークが止まった。
「何…?」
彩はすでに何を言われるか、わかったのかもしれない。表情がみるみる曇っていくのがわかった。
「ロックバンドってその…あ、彩らしくないっていうか、そのことで受験に専念できなくなったり、そういう人たちってあまり勉強しない人が多いみたいだし…」
俺は昨日のうちに考えていたセリフを口にする。
「…だからやめろっての?俺、それって偏見だと思うんだけど…彩だって、やりたいことはやればいいし、たまには勉強から離れてそういう個性的な奴らと楽しい日々を送ったほうがいいんじゃないのか?それに今更…」
「健は黙ってて!今お母さんは彩と話をしているの!」
俺はお袋を睨みつけて、とりあえず口を閉ざした。
「前にも聞いたかもしれないけど、どんなロックバンドなの?」
彩はこんな状況でも笑顔を作って言った。
「アウトオブコントロールってバンドのコピーなの。今けっこう有名だから知ってるでしょ?激しい曲も多いんだけど、そこにキーボードが入ることで乱暴さが緩和されるの。だからけっこう重要ポストなんだ。それでね。けっこうキーボードの演奏が難しいんだよ。だから有名なバンドなのにキーボードの部分だけ弾ける人が少ないの。ほかのギターとかは結構簡単みたいなんだけど…だから私じゃないとたぶん無理だって…」
「バンドのメンバーはほとんど男なんだろ?」
父親が口を挟んだ。母親が言いづらそうにしているためにじれったくなってきたのだろう。父親が口を出し始めるともう百パーセント押さえ込み態勢となる。
彩が不安そうな顔でつぶやいた。
「…ボーカル、ギター、ドラムは男の子、ベースが女の子。あとはキーボードの私で五人」
父親は新聞をたたんで、鼻で笑って言った。
「ふっ、そこにいる男にはもうお前のことを狙っている奴がいるはずだ。バンドマンなんて女好きのろくでなしばかりだからな」
「ち、ちがうよ。みんないい人…」
「思春期の男の貪欲さをお前が知っているとでもいうのか?必ず言い寄ってくる男がいる。お前は何も知らずついて行き、悪い遊びを次々と教えられるに決まってる。外国人のロックバンドのマネをして、酒、タバコ、ひどい時にはドラッグ。あと、俺は確かお前に以前『恋愛は大学に入るまでは絶対にするな』って言ってあるよな。大学に行ったらどうせ高校の彼氏となど別れるだろうし、逆にそいつのために、進路を変更するような悪影響などあったら恐ろしい。そいつと同じ大学にいくとか、とにかくロクなもんじゃない。恋愛にうつつを抜かして受験に失敗する恐れもある。つまり、今お前がロックバンドを組むということは、あらゆるリスクがあるということなんだ。お前のピアノの腕も落ちる。なめらかなクラシックピアノの演奏がぎこちなくなる」
俺は相変わらずの親父の独裁体制につい苛立ち、怒り出す。
「だからやめろってのかよ!なんで父さんって俺たちを押さえ込むんだよ!」
「押さえ込むのも愛情の一つだ。ケーキが美味しいからといってそればかり毎日食わせている親の方が俺はおかしな親だと思うが」
「彩はちゃんと勉強もしているから、ちょっとくらいいいじゃねえかよ!」
「彩は徐々に成績が落ちてきている!俺はバンドが原因だと思っている。東京国立大学の経済学部に入るには並大抵の努力じゃ、入れない!」
「だーかーらー…なんであんたが勝手にそこまで彩の『進路』を決めるわけ!なんであんたの卒業した大学の学科に入学するって決まっているの?」
「親に向かってあんたとはなんだ!それに今はお前に言ってるんじゃない!彩に言ってるんだ!彩、もうわかっただろ!だから今日中に断ってこい」
そこにお袋が便乗するようにつぶやく。
「彩、お父さんの言うこと…聞いて…」
相変わらずオヤジの犬…それがウチのお袋。
そうやって便乗して言うと思ったぜ。あんたもあんたでなんなの?そんなにしてまでこの人の奴隷でいる理由はなんなの?
すると彩は一切の抵抗も無くつぶやいた。
「…うん…わかった」
彩は無理に笑顔を作りながら、目には涙を浮かべていた。
馬鹿…!心の中で俺はつぶやく。
「今日、断ってくるね…」
彩がそういうと両親揃ってホッとした表情で笑顔を浮かべた。
「よおし!彩なら父さんと母さんの気持ちを分かってくれると思っていたよ。さあ、早く食べないと遅刻するから、食べよう食べよう」
勝手に自分の夢や理想を子供に押し付ける独裁者のような親父、それに服従するお袋、反抗心が日々強くなっていく俺、そして逆らうことをせず、ほとんど受け入れる人間的に出来すぎている「良い子」の彩。
これが我が田中家。
完全に仲のいい家庭なんてない。それはわかっている。
でもうちは父親の独裁政権でがっちり固められていたため、それで成り立っているような家庭だった。
逆に父親が頼りなければ、それはそれで家族がまとまらず、砂上の城の如く崩壊しているかもしれない。
うちの場合、父親は地位も名誉も金もある。お袋も正社員として働いている。そのおかげもあり、耐震強度もバッチリの自慢の三階建てのマイホームに住むことが出来ている。
彩は成績優秀、しかもモデル並みの美少女。
俺の成績を除くと、田中家は表面上はほとんど完璧な家庭だった。
だから親父がこんな暴君でも俺たちは「ここは裕福で幸せな家庭」なんだとどこかで言い聞かせていた。
しかし、これから先、妹、彩一人のために、今まで築き上げてきた一見裕福な家庭、田中家は見るも無残に壊れていくのであった…。
「ええええ?マジで!」
「…ごめん。今まで頑張ってきたのに…」
「だ、だってさ、彩ちゃんほどうまくあの難しいキーボードのパート弾ける奴っていないよ。彩ちゃんが抜けたら俺たち単なるやかましいパンクバンドで終わっちゃうじゃんか!彩ちゃんが入るだけでも全然違うんだよ!」
「そうだよ!どうせガッコのセンセーなんてバンドマンなんてロクデナシって決めつけているんだから。そういった偏見をなくすには、成績トップの彩ちゃんの力が必要なんだよ!たのむよ!」
「…ごめん…ちょっと家庭の事情で…」
「へっ、さっすがにサラブレットは違うねえ。あたいたちのようなバカと付き合うなってどうせ親に言われたんだろ、だいたい予想が付くよ」
ベースの女子がベースの生音を鳴らしながら、見事に指摘した。
俺はこっそり彼らのやりとりを体育館の倉庫に隠れながらのぞき見していた。
防音完備された倉庫内はギターやらアンプやらドラムやらの楽器や機材でごった返していた。
軽音楽部は一バンドにつき一時間だけ放課後体育館の倉庫で練習が可能で、今日は彩のメンバーが借りれる日だと分かっていた。
体育館の倉庫は背後の方にも扉があり、俺は裏口からこっそり入ったのである。
妹のためにわざわざ張り込みするのは俺なりに二つの理由があった。
一つは保健室の話以来、最近の彩に何か変化が起こっているのではということを突き止めたかったこと、もう一つは友人を大切にする彩が親の言いなりになり、あっさりメンバーを裏切るのかに関心があったからだった。
メンバーを裏切らない、それともメンバーを裏切って親の期待に答える、どちらが良い子なのか?
俺個人としては一度約束したからにはよほどの理由がないかぎりはメンバーを裏切らないのが良い子なのではと思っていた。
しかし彩はメンバーを裏切ることを選んだのだ。
まああの親からの命令は絶対だから、彩の気持ちもわかる。
完全独裁政権からは逃れようがないのだから。メンバーからいろいろ言われる彩が哀れに思えた。
「まあ、いいわ、キーボードがいなくなったならいなくなったで…。その怒りを思いっきり本番でぶっつけてやろうぜ!あたいはベースを客席にぶん投げるつもりだよ」
「マジかよ!」
「そのくれーやらねえと、彩のいない分を解消できねえよ!彩、あたいらも分かっているよ、そもそもお前があたいらのようなロクデナシと一緒にセッションできないタイプの人種だってことぐらい…。まあ、そうやってまた、あたいらへの大人たちの偏見は加速するんだろうね。どうせロクデナシになるんだったらとことんなってやろうじゃないの!」
ベース女はベースを乱暴にマットレスの上に投げつけて言った。
「ごめん…」
彩は泣き始めた。
「彩ちゃん、君は何にも悪くないよ。俺たちのやっている音楽を未だに理解できない親が存在するのには驚きだけど、しょうがない。それは彩ちゃんのせいじゃない」
イケメン風のボーカルの男が優しく言いながら、彩の肩に手を置いた。
馴れ馴れしく顔まで近づけていた。この男は彩に気があるのではと思った。
すると、デブのドラムの男が不安げに言った。
「…でもよ、三曲目のキーボードソロが見どころの部分…どうすんだよ…?他にも五曲目にもそういう部分あるじゃん。そもそもオレらのバンドのオープニングって彩ちゃんのキーボードソロでかっこよく始まる予定になっているだろう?オレらってはっきり言ってその部分をギターソロなんかでかわりにカバーする技術なんてないじゃん。あの部分が単なる伴奏だけになるとすっげーしらけると思うんだけど…。」
「そんなとこまで誰も気にしちゃいねえよ。バンドなんてしょせん、『自己満足』なんだから」
髪をスプレーで逆立てているギターの男が冷めたような態度で言った。『ギターソロでかわりにカバーする技術なんてないじゃん』というドラムの男の発言が気に障ったのか、ドラムの男を睨みつけながらの発言だった。そしてギターの男の冷めたような発言にドラムの男が牙をむいたような態度で言った。
「『しょせん自己満足』?なんだよそれ!そりゃ、俺たちゃプロじゃないけど、お前のロックへの情熱ってそんなもんだったのかよ!」
それをきっかけに、だんだんメンバーの言い争いが激しくなってきた。彩は下を向いたまま、泣いていた。
そんな険悪なムードのところに、倉庫の扉が重い音を立てて開き、色白の男が入ってきた。
背が高くサラサラヘアーでいかにもヴィジュアル系バンドって感じの奴だった。
「おう、どうした?なんか空気悪いなあ…足引っ張ってるメンバーでもいんのか?」
「タケちゃん!実はさあ…」
ドラムの男がすがりつくように事情を語り始めた。
その男が何者なのか、はっきりとはわからなかったが、どうやら別のバンドのリーダーらしかった。
そしてその男が一通り話を聞き、出した結論は実にシンプルなものだった。そしてメンバー一同があっさりその意見を賞賛した。
「彩ちゃんだっけ?バレなきゃいいじゃん。っつーかバレないって。心配なら少し変装すればいい。メガネかけたり、髪型変えたりして。だけどな、そんな大企業の親なんか仕事でどうせ学園祭なんかこないだろ?心配ないって。そのかわり、彩ちゃんは勉強も頑張らないとねえ」
彩ははっとした表情をした。
実際、当日は土曜日だったが、親父は重要な仕事が入っていた。
彩のはっとした表情は、妙に納得した表情であり、初めて「イイ子」から解放された瞬間だったのではないかと思う。
彩はしばらく考えたのち言った。
「あたし、やってみる!みんなに迷惑かけたくないし、それに何よりも…あたし、このバンドが好き!」
メンバー全員が歓喜につつまれた。
さっきまでの重い空気は一気になくなり、倉庫内はロックの爆音が響いた。
演奏を聴いていると、なるほど確かに彩のキーボードが入らないと単なるやかましいパンクバンドである。
しかし彩のキーボードがそれを一気に緩和させ、ポップで聴きやすい音に変化させているのだった。
このバンドって何かのオーディションを受けたら合格するんじゃないかって思った。
ボーカルはかなり高い声が出て、イケメンだし、長く黒い髪の美少女は優しくキーボードを鳴らす。
ギターは荒削りだがエネルギーに満ちていて、ベースの女の子も小悪魔的なルックスでクールに自分の業務を果たしている。
ドラムはやや神経質そうだが、サビの部分では「俺はこれが言いたいんだぁ」とでも言わんばかりにドラムに魂をこめる。
聴いていて鳥肌の立つ、心地よいロックバンドだった…。
学園祭までの間、彩はバンドの練習と勉強を両立させているようだった。自宅では両親が居ない時を見計らってわずかな時間でもスキあらばと、ヘッドフォンで例のバンドの曲を聴きながらピアノをかき鳴らしていた。
キーボードを持ってくると一気にバレるので、練習はピアノでするしかなかった。
だいたい両親が帰ってくる時間は決まっていたので、練習時間は極めて限られていた。
「結局、続けることにしたんだな…」
俺は盗み聞きしていたにも関わらず何食わぬ顔で言った。
「うん。だって、一度約束したことを裏切れないし…。それにお父さんだって…一度は黙認したんだから…それをいまさらやめろなんてお父さんも大人としてちょっとおかしいと思うから…」
妹から初めて親への不満が漏れた。
「やっぱりお前もそう思っていたのか。ウチの両親ってなんか…」
「帰ってきた!」
そう言うと彩は俺を無理やりピアノに座らせて、そそくさと自室へ走って行った。
彩の部屋の扉が乱暴に閉められる。
「ただいま〜」
レジ袋に沢山の食料を詰め込んで、疲れた顔の母親が帰ってきた。
「お、おう。おかえり」
「どうしたの?ピアノなんか弾いて。めずらしい」
「いやあ、何かたまには弾いてみようかなって思って…。はは。だけどやっぱ俺才能無いな。だめだわ」
無理やり演技して、俺はピアノを閉じた。
「今日はほんっとうに疲れちゃった…。バイトの子が一人さぼるわ、千切り用の機械が詰まるわで、もうてんてこまい…。けっこう大変なのよ。スーパーの惣菜製造部門も…」
母親はまるでこないだ父親から言われた『たかだかスーパーの惣菜の作業員』という言葉に対して気に食わないかのような感じで、俺に訴えた。俺に言われても困るのだが…。
「彩はもう帰ってきてるの?」
「ああ、帰ってきてさっそく勉強だよ。俺にはとてもできないね」
「あんただって、成績はいいところ行っているんだから。お父さんのいつも言っている『人並み以上』を目指して頑張りなさい」
まったくこのヒトはどこまで親父の意見に服従しているのか。
さっきの職場での愚痴からして、親父に反論したい部分って絶対あるはずなのに、うちのお袋はまず反論しない。
考えてみたらいつからだろう、うちのお袋が、親父と全く喧嘩をしなくなったのは…。
たしか俺が小学校三年のあたりにものすごい怒鳴り合いの喧嘩が何度かあった気がするし、親父がお袋をビンタして、お袋が泣き崩れる場面も目撃している。
彩もその場面を見ていて怯えていたのを昨日のように覚えている。
「パパに逆らうと、ママでさえも…ああなるんだ…」
彩はそんなことを漏らしていたっけ。
しかし最近ではこのような場面は全く見られない。
お互い中年になり、落ち着いたのだろうか…?
しかしこの考えは全く違うということに俺は後々気づくこととなる。
学園祭当日、高校中が活気にあふれ、その日は勉強の「ベ」の字もなかった。
これはうちの学園祭の特徴だった。
学園祭は二日間あるが、その間は「勉強」のことを忘れること、言わないこと、そのかわりとことん楽しんで、そのエネルギーを学園祭終了後の勉強に生かすこと。
それがうちの校長の一つの方針だった。
だからこの日には単語帳を開いている人間は一人もおらず、みんな普段の勉強漬けのストレスを発散していた。
発散のしすぎで人前で素っ裸になって踊る男もいたくらいだった。
しかしこの日ばかりはよほどのことでもない限りは先生も極力怒らなかった。
すべての教室は屋台、作品展示場、お化け屋敷、喫茶店、占いコーナー、ゲームコーナー、映画鑑賞コーナー、文化部コーナー等に変身していた。
しかしなんと言っても学園祭の見どころはバンドだった。
バンドマン達はこの日のために勉強をそっちのけで猛練習していた。
確かに親父のいう全く勉強をしない人間もいたが、バンドマンたちは学園祭が終わったら、そこからは急激に受験モードに入る人も多く、今度は大学に入ってさらにレベルの高いバンドをやるんだということを励みに勉強している人が大半だった。
バンドは二日間で十三組出たが、彩たちのバンドは一日目の四番目だった。
そしてまさに今俺達が薄暗い体育館で待っているのが彩たちのバンドだった。
周りはものすごい熱気に包まれていた。
すると観客たちは一斉に叫び始め、俺は仰天してしまった。
「彩ちゃーん! 彩ちゃーん!」
それは次第に
「あーや! あーや!」に変わっていった。
近藤も前田も同じく叫んでいた。
叫んでいたのはほとんど男子生徒だったが、女子も叫んでいた。
俺の妹ってこんなにも人気があったのか?芸能人になれるんじゃないかって本気で思った。そして彩たちのステージが始まった。
スタートからしてあまりにもカッコよく、兄貴の俺が嫉妬するほどだった。
幕が開く前に彩のキーボードソロから始まったのだ。
約一分にわたるバッハのような美しい音色はまったく嫌味くさくもなく、クドいといった印象もなかった。
彩は『自分はあくまでも脇役』といった雰囲気でうつむいてキーボードを弾いていて、それが逆に彩のミステリアスなイメージを生み出したようだ。
その音色ですでに大歓声、そして幕が開き、爆音と共に、彩たちのライブが始まった…。
荒削りだが激しく美しい…俺は妹に嫉妬と誇らしさを同時に感じていた。
大成功をおさめたライブはアンコールが鳴り響き、時間の関係で次のバンドが自分たちの機材のセッテイングをしている時も、「ひっこめー!」とか聴こえたり、急に客が減ったりして、次のバンドがかわいそうになるくらいの盛り上がりだった。
兄貴としては嫉妬とうれしさが入り交じった気持ちだったが、彩があの理解のないガンコな両親を押しのけて、一度は諦めたステージに見事に立てたことに、俺は感動していた。
後から分かったことだがメンバーは全員泣いていたらしい。たかが学園祭のライブと思われるかもしれないが、その時の演奏が最高に出来のいいものだったということをメンバー自身も体中で実感していたのだろう。
もちろん彩が一番感動して泣いていたらしいが…。
しかしその夜、その感動は嘘のように絶望に変わった。
「これ、おまえだろ?」
リビングのソファーに腰掛けた親父は焼酎を飲みながら、タバコを吸い、ガラステーブルの上に数枚の写真を置いていた。
親父の向かいには彩が座っていて、下を向いていた。お袋は親父のそばで立って、不安げな表情をしていた。
俺は傍観者の如く、リビングの出入口の柱に背中を置いて、ため息を付きながら突っ立っていた。
「こんなこったろうって思ったよ…。知人がたまたま仕事が休みだったものだから、その『アウトオブ』なんとかってバンドがいたら、キーボードの人間がいないか確かめて、もしいたら写真を撮ってくれって頼んでおいたんだ」
そこまでするか、このクソ親父……!
彩はうつむいたまま、何もしゃべらない。
「どういうことだ…?」
「…………」
すると父親は割れんばかりの勢いでガラスデーブルを叩いて叫んだ。
「どういうことだって言ってんだよ!」
「………………」
「あ、あなた…」
「うるさい!そもそも澄子!お前の母親としての観察能力にも問題があるんだよ!バンドやってそうな気配くらい感じろよ!」
お袋は、一瞬怒りを抑えたような顔をしたが、すぐに「ごめんなさい」と言った。
「彩、お前は父親である俺に嘘をついた。バンドの連中には『断っておく』と言ったはずだ。しかし思いっきり堂々と出ている。この写真を見ると多少髪型を変えたり、めがねをかけたりしているが、これお前だろ?こんなんでごまかせるほど世の中甘くない。とにかくお前は約束を破った」
すると彩は小さな声で言った。
「お父さんだって、最初はバンドに対して何も言わなかったじゃない…。黙認してたじゃない。だから練習していたのに…」
彩は泣き声で精一杯の反論をした。
「黙認?何を証拠に黙認なんて言うんだ?たしかにバンドの話は聞いたよ。だが俺は仕事が忙しくて、そのことについて真剣に考える時間が遅れただけだ。ようやく余裕が出来たから
遅れたとはいえしっかりと『反対』と伝えたのだ。俺は『いいよ』なんて一言も言ってない」
するとお袋がめずらしく、彩をフォローした。
「で、でもあなた、バンドの話が出たとき、あなた自身が『黙認』という言葉を使ってたわよね?それに『ほお…そうか、バンドか…』って言ってたわよ。あの言葉のニュアンスには嫌悪感のような雰囲気を感じなかったわ」
「俺自身が『黙認』って言葉を使っただと…?『ほお、そうか、バンドか』だって…?俺はそんなこと言った覚えは全く無いな」
「いいえ、言っ…」
すると親父はまた割れんばかりの勢いでガラステーブルを叩いて叫んだ。
「俺が『言ってない』と言ったら言ってないんだ!いい加減にしろ!」
お袋は唇を震わせながら、自らの主張を抑えた。
「彩、もう過ぎてしまったことはしかたがない。とにかく俺に謝れ」
彩は既に泣きじゃくって、親父の顔を見ず、ひたすら下ばかりを見ていた。
するとそこに手のひらを返し、追い打ちをかけるようにお袋が彩にこう言った。
「あ、彩、お父さんに謝りなさい!」
彩は、泣き顔で一瞬お袋の顔を見た。
さっきまでのフォローは何だったの?信じられない、といった表情だった。
俺自身もすでに怒りがピークに達していた。
味方してくれるかと思っていたお袋からの想定外の発言にとうとう俺は叫んだ。
「一体なんなんだよ!バンドやって彩の成績がそんなに下がったか?誰かに迷惑かけたか?本人のやりたいことをなんでそこまでして押さえつけるんだよ!母さん、あんた単なる犬だよ、いや犬以下だ!親父の奴隷じゃねえかよ!」
すると親父は俺の方に向かい、ずかずかとやってきた。またお得意のビンタかと思ったが、暴言だけで済んだ。
「お前には関係ない!とっとと勉強しろ!」
俺と親父とはお互い、不良のガンの付け合いの如く、にらみ合いとなった。
「あ、彩、早くお父さんに謝りなさい…」
このババア…まだ性懲りもなくそんなことを…そう思っていた矢先、
「お父さん…お母さん…この度は嘘をついてごめんなさい…バンドのメンバーとの約束を今更裏切るということがどうしてもできなくて、隠れてやっていました。ごめんなさい。もう二度とバンドはしません…」
彩は絶対に納得していなかったはずだ。
それにも関わらず、このような丁寧な謝罪を、理不尽な両親にしたのである。
家族ってこんなものなのか?お互いを受け入れることも許されず、ただ抑圧される…。
これが「幸せな家庭」形成のために必要なものなのか…?俺は思わずまた叫んだ。
「彩!お前、馬鹿、こんな奴らに謝ることなんか…お前はなんにも悪くねえ!」
「うるさい!お前はとっとと勉強しに行け!」
父親は俺にそう怒鳴りつけると、その後次第に笑顔になり、あたかも不良少女を改心させたドラマの熱血教師の如く、彩の肩に両手を置いて言った。
「彩…良く言った!良く言ったぞ!それでいい!それでいいんだ!」
「彩、わかってくれたのね…」
両親は彩に近寄り、感動の名場面を作り上げていた。
が、俺にとっては全くの茶番劇としか思えなかった。
こんなことをしていたら何かがおかしくなる。いやもう既にこの家庭はおかしい…。何かが起こる、何かが起こるに違いない。
そう思っていた。
そして俺の予感は的中するのであった。
この夜の翌日から、この家の表面上だけの「幸せな家庭」がじわりじわりと崩れていくのであった………。