妹の異変
妹、彩は現在高校一年生。
明るく、人なつっこく、みんなから好かれ、成績は良く、運動神経もよく、しかもピアノも得意とする理想的な美少女として今や男子生徒の憧れの的だった。
髪はシャンプーの宣伝の女のように長い真っ黒なストレートヘアーだった。
色白で、目はアニメの女の子のように大きい。そのためよく近藤の馬鹿からは
「お前が羨ましいよ、あんなコと一つ屋根の下で暮らしているなんて、俺が兄貴になってやりてえよ!」などと言われたりしていた。
メルアドを教えてくれとか、パンツをくれとか言われ、
「本人に直接言えよ、俺は知らない」と何度答えたかわからない。
だいたい実の妹に『お前のパンツをくれないか』と言った時点で、もう家庭は崩壊するだろう。
彩はルックスだけでなく、性格もまるで天使のようだった。
明るく、活発で、面倒見がよく、人の悪口を一切言わなかった。
両親の言うことに逆らったことはないし、先生の言うことに逆らったこともない。
友達がいじめられているとそれをかばい、一緒にいじめられたこともある。
デパートで迷子の子がいると、積極的に係員のところまで連れていく。
街で募金活動をしていると、必ず千円以上のお金を入れる。
街でおばあちゃんが重い荷物を背負って歩いていると、積極的に荷物を持ってあげる。
お袋の友人が病気で寝込んだと聞いた時には、その子供(三歳の女の子)を一日中一人で育児していたこともある。
恐らくこの時の無報酬の奉仕的育児の話が主婦の間で広がったのだろう。その後彩はこの地域で「下町のマザーテレサ」とまで呼ばれていた。
でもこんなのは氷山の一角にすぎなかった。
彩の性格の良さは、他にも各方面から聞こえてきたものだ。
兄貴としては誇らしくもあったが、同時に、自分自身の自己中心的な性格に自己嫌悪を覚えずにはいられなかった。
ジリジリジリ…!
ピ・・ピ・・ピ…ピ・・ピピピピピピ…!
「アサダゾーオキロ―――!オキロ―――!」
俺は朝起きるのが大の苦手なので異なる音の目覚ましを三つセットしていた。
その日もいつものごとく三つの目覚ましが次々と鳴った。
手の届かないところにあちこちと置いているのだが、気づくといつも三つ共止まっている。それほど俺は毎朝の眠気に勝てなかった。
そして最終兵器はタイマーセットしたステレオから流れる大音量のヘヴィメタル…。
さすがにこれで起きないことはなかった。
「…うっせー…起きりゃいいんだろ…」
また今日もくだらない一日の始まり始まり。
父親から半強制的に入学させられた有名進学校で今日も朝の九時から午後の二時までは詰め込み教育を受ける。
授業終了のキンコンカンコンが鳴ってもまだ続けている先生が多く、実際の休み時間は七分くらいのもの。
そしてそれに対してあまり文句を言う生徒がいないから、学生の鏡のような生徒が多いと毎日のように思っていた。
そんな勉強漬けの一日が今日も始まるとわかりつつ、うんざりして目を覚まし、階段をふらふらしながら降りて、一階のリビングに行く。
お袋が、自分自身も仕事に出かける忙しい状況にもかかわらず、朝から完璧な朝ごはんを用意している。
主婦の鏡のような存在だといつも感じていた。かといって尊敬はしていなかった。
なぜかはそのうち話すことになる。
昨日の残り物などに頼らず、ちゃんと出来立ての目玉焼き、ソーセージ、サラダ、パンとごはん(選択制)、シチューなどを用意して、「おはよう」と笑顔で言ってくれる。
すでに親父も起きており、バッチリとスーツに着替えている。スーツの種類はいくつかあり、その時のスーツによりだいたい帰りの時間帯や、重要な取引があるのかどうかが察知できる。
今日のスーツを見るとおそらく取引先との接待のため、高級クラブにでもいくのだろう。
さすがは大企業の部長まで出世しただけある。
新聞はいつものごとくさっそくすべてのページを読みあさり、自分の仕事に関連するところには赤いマジックで線を引いたりしている。優秀な親父だ。かといい尊敬していたわけではない。
その理由もそのうち話すことになる。
そして、俺の妹。成績優秀の美少女。
妹は朝からシャワーを浴び、髪を乾かし、鏡で生意気にも薄化粧をしている。そして男を虜にする香りとルックスを完成させる。
食後、妹の歯磨きは十五分にもおよび、香りのいい呼吸を作り出す。その呼吸がまた男を虜にするのだろうか。
欠点を探すのが困難な秀才美少女はそうやって元気に、シャンプーのCMのごとく「いってきまーす!」とテンションの高い声で今朝も俺より先に玄関を出ていくのだった。
どうしてそんなにさわやかになれるのか、全く理解ができない。
欠点を探すのにこれほど苦労する妹も珍しい。
あのクソガリ勉学校の何が楽しいのか…。
ここまで書けば鋭い人ならわかるかもしれないが、俺はこの家では一番だらしない存在だった。
俺はボヤ〜っとしている方が好きだったし、人生なんてどうせこの先、
『勉強→仕事→結婚・出産(この時期のみ一時幸福)→約四〜五年で夫婦の倦怠期→中間管理職で胃潰瘍→退職→孤独な老後→死で終わる』というだけ。
どんなに頑張ってもどうせ最後には老人になって死ぬんだから、それだったら最初っからボヤ〜っとしているのがいいと思っていた。
別に家族全員が優秀じゃなくてもいいだろうとさえ思っていた。
俺のだらしなさはともかく、一般論から言って理想の家庭じゃないか!お前は幸せ者だなあって殆どの人がおそらく思うだろう。
まあ、今朝の光景は確かに日常的なことだが、それはあくまでも「表面上の光景」だけだからそう思われてもしかたがない。
ある意味では俺も田中家は幸せな家庭の中に入ると思っていた。
しかし一見幸せな田中家が、家の建築と同じく、わずかな家族間の設計ミスで崩れかかっていることを俺はこの時想像すらしていなかった。
俺がなんとなく変だなと感じ始めたのは、七月のある日、友人の近藤が言った一言、いや二言、三言だった。
「田中…すごいもの見ちゃったよ…」
近藤が青白い顔をしながら言った。
「なんだよ?」
「俺さっきの体育の時間でサッカーして、夢中になりすぎて、転んだ際に、ヒザを擦りむいちゃったじゃん。」
「ああ、あんときなあ、超皮むけて見てるだけでこっちまで痛くなったよ」
「そんで、保健室に行って治療してもらおうと思ったら、安田のババア、相変わらず『こんなんツバつけときゃあ治るわ、男が簡単に保健室なんかくるんじゃないよ』っていうんだぜ!あれでよく保健の先生が務まるよなあ…結局治療してもらったけどさ」
「そんで、すごいものの話って…?」
「ああ、そうだそうだ、安田のババアなんかどうでもいい。その後安田の奴のケータイが鳴って、なんの用事か知らないけど、保健室から出てったわけ。あと五分ちょっとで体育の授業が終わるし、次は世界一眠くなる世界史の川田の授業だから、俺はまだ具合が悪いふりしてベッドで横になってたわけ。保健室に入った時から気づいてはいたけど、隣のカーテンがしまっているわけね。安田のババアが保健室から出ていってからのことなんだけど、カーテンの中から女の子の声でたまにうーうー言っているんだ。具合悪いのかと思っていたらさ、その次には歌声に変わるんだよ」
「お前の話は相変わらず長いな…で、結論はなんなんだ?」
「ああそうそう、それで、なんの歌かっていうとなんか七○年代に流行った暗〜い女フォーク歌手、あれ名前なんていうんだっけかなあ…?林麗子だっけ?それの中でも一番暗い歌って言われている『私の失敗』って曲を歌っているんだよ。俺、なんかちょっと怖かったけど、『あの…』って言ってそおっとカーテンを覗いたわけ。そしたらお前の妹、彩ちゃんなんだよ!ベットに座っていたんだけど…」
「座っていたんだけど…?何?」
彩が林麗子の歌?コイツは何を言っているんだ?
「ただ座っていただけじゃない…スカートを太もも位まで自分でめくり上げていてさあ。それだけなら嬉しい話なのだが、よく見たら太もも部分に複数の切り傷があって、そこからダラダラと血が出ていて、それを一向に止めようとさえしないんだ。ベッドシーツに血が着かないようにするためか、彩ちゃんはシーツの上に新聞紙を沢山重ねて、それを敷いて、広げて座っていた。床には少し、血がポタポタと垂れていた。何?何やってるの?って思ったけど、恐ろしくて声がかけられなかった…。俺が今まで生きてきた中で一番の異常な光景だったよ。いっとくけど生理とかの血じゃないぜ、刃物で太ももを数回切ったような不自然な傷があって…。そうだな、少なくと五〜六箇所はあったぜ。一本の切り傷の長さは約七〜十センチ程の長さだった。俺は言葉を失ったよ。しかもカーテンから覗いている俺の存在に全く気づかないんだ」
近藤がスケベだったおかげで彩の太ももの切り傷の具体的状況はよく把握出来た。
しかし俺は全く状況が理解できなかった。
どういうことだ?どうしてあいつがそんな不自然なところに、そんな不自然な傷を負っているのだ…?
しかもどうしてそんな昭和の暗い歌手の歌を歌っていたのだ?
そもそもどうしてその歌を知っている?誰から教えてもらった?
あれはたしか「自殺ソング」と呼ばれて一時、販売停止になったという歌だった気がする。何かの話で聞いたことがあるのだ。
それに保健室など絶対にいかないような彩が保健室にいたことも…すべてにおいてさっぱり理解できなかった。
今朝も何事も無く、アイドルスマイルで家を出ていったと言うのに…。
「いやあ、でもまさか彩ちゃんのスカートの中を見れるとはねえ…」
「おまえなあ…最後にはその部分かよ!」
近藤の話はどう考えても俺の知っている彩ではない。理解が出来ない。
何かの間違いではないかと思いつつも、じゃあ何の間違いなのかといった疑問も沸く。
その後、トイレでションベンをしながらさっきの不可解な近藤の目撃情報を考えていた。
うちの彩は七○年代の曲、しかも暗い曲ばかり作ることで有名な林麗子の歌など知っているはずもないし、歌うはずもない。
保健室の門など叩いたこともないような健康優良娘がなぜ保健室に行き、しかも太ももという怪我をするのが難しいような場所に不自然な切り傷を作り、血を流していたのか。
少なくとも転んでできるような傷ではないだろう。
彩の人気を妬んだ女子生徒らからイジメを受けて、カッターナイフなどで太ももという目立たない場所に切り傷を負わされたのか…?
この勉強だけの学校にそんな陰湿なイジメグループがあるのだろうか?
いくら考えてもさっぱりわからなかった。
近藤が別の女子と見間違えたのではないかとさえ思った。
俺がトイレから出ると、隣の女子トイレから同じく彩が出てきた。
あれ?高校一年の彩がわざわざ二年の女子のトイレから出てくるってどういうことだ?
「あ…」
彩はそうつぶやき、俺の顔を見て、思わず言葉を失ったかのようだった。
「お…」
俺も彩と同じく一瞬言葉を失う。
「お、お前なんでわざわざ二年の女子トイレ使うんだ?一年だったら一階の女子トイレのほうが…」
「い、いいでしょ。別に。たまたま二年の先輩に会ってきて、ついでにトイレに入っただけ」
彩は何事もなかったかのようにつぶやいた。
学校が終わり、帰宅部の俺はバスに揺られながら家に帰った。
バスの中でも近藤の不可解な彩の行動が気になった。
最近の彩って何か変わったことあったっけ…?
いや、ない。勉強もトップクラスでスポーツもできる。
男子にはモテモテで、街を歩いていたら『モデルにならないか』とこないだも声をかけられたくらいだ。
つまりどう考えてもあの暗い七○年代歌手、林麗子の最も暗い歌『私の失敗』を保健室で歌う姿など想像もつかない。
それに太ももの怪我…何もつながらない。
さっきのトイレのことはまだいいとしても、近藤がわざわざそんな作り話を作るはずもなく、謎は深まるばかりだった。
夕方、家に着くと、俺はとりあえずパソコンを付けてみた。
ネットで何となく『林麗子』で検索してみる。
いくつかサイトが画面上に表示される。その中の一つ『林麗子とは』をクリックする。
ネット内の辞典、「ベストアンサーズ」というサイトだ。
そこには林麗子についての歴史がこと細かく書かれていた。それをここで全て書くときりがないので、省略して紹介する。
「林麗子、現在五十七歳。七○年代に『死にたくなる歌を作るフォークシンガー』という悪い評判で世間を一時賑わせる。しかしその切ない曲や詩は評価も高く、現在にいたるまでカリスマ化されており、一部のコアなファンは今でも復帰を願っている。しかし本人は現在歌手を完全に引退しており、今どこに住んでいるかも、生きているか死んでいるかもわからない。あらゆる噂がある。現在は三人の子供の母親で静岡の富士の樹海付近に別荘があるという説。仏教とキリスト教を融合させた宗教を作り、その教祖になっているという説。アルコール依存症で精神科に入退院を繰り返しているという説。八年前に海に飛び込んで自殺したという説。現在はこの自殺説が一番有力となっており、自殺系サイトでは神のように扱われている。この手の自殺系サイトのトップページでは、必ずと言っていいほど彼女の『私の失敗』がオルゴール形式で流れている。現在この手の曲を知っている人は自殺系サイトのユーザーである可能性も高く、そういった『自殺したい人』『精神を病んでいる人』『人生がうまくいってない人』にとっての憩いの場として自殺系サイトが利用されたりしている。
彼女の一番のヒット曲で、当時この歌のせいで何人もの若者が自殺したとして社会現象や訴訟が次々と起こった伝説の曲『私の失敗』はココをクリック」
俺はネットにグイグイ引き込まれているのを感じていた。ここに何かヒントがある。
今日の彩の謎の行動のヒントがここにあるのかも…。
クリックすると、画面が動画サイトに代わり、暗くせまいライブハウスが映し出され、観客たちが一斉に拍手を贈り始めた。
林麗子は薄暗いライブハウスでさらにサングラスを掛け、疲れはてた主婦のような色艶のない長い髪をだら〜んと垂らしていた。
こんな長い髪じゃあギターの弦に始終触れて、演奏の邪魔になるんじゃないかって思った。
音楽が流れ出した。うわっ…超暗い…。
イントロは林の隣にいるピアニストの、重く低いピアノの音から始まり、マイナーコードで悲しげな音色が聴く者を失望の世界に誘う。
テンポは眠くなるほどスローで、やがてそこに林のフォークギターがやはり重たくジャアアアアアア…ンンンン…と入る。
イントロだけで二分もある。よくこんなんでヒットしたなって思うくらいのじれったいイントロ。
そしていよいよ歌が始まった…。
なんか、すでにものすごく負のオーラを感じる…。
「私の失敗」
作詞・作曲 林 麗子
ごめんなさい あなた ごめんなさい あなた
わたしなんかがいるから あなたはいつでもうまくいかない
わたしはきっと 不幸を持ち込む天才
わたしはきっと 社会を汚す排泄物
幼い時から あんなに父が 幼い時から あんなに母が
幼いときから あんなに祖父母が わたしに期待してくれたのに
勉強できるお前が とても好きだと言われてたのに
わたしはもう頑張れない わたしが頑張らなきゃいけないのに
わたしは休むわけにはいかないのに
ごめんなさい もう眠りたい
もうなんの能力もありません。
(省略)
もう眠りたい もう眠らせて
もう眠りたい わたしを土に返して
生まれてこない方が よかったんだと思う
ごめんなさい 生まれて
ごめんなさい 生まれて
ごめんなさい 生まれて
ごめんなさい まだ生きてて…
(あとはこの繰り返しが八回ほど続く…)
これ、やばすぎるよ…。聞いているだけでマジ死にたくなる。
俺はパソコンの電源を消してから、まだ学校から帰って来ていない彩の部屋を覗こうと一瞬だが思った。
しかしいくら家族とは言え、プライバシーの問題もあるので入るのをためらった。
彩だってあと何分で帰ってくるかわからない。
俺は彩の部屋のドアノブに触れたものの結局開けずに、再び自分の部屋に戻った。
夕食時には彩もいたが、雰囲気はいつもと全く変わらなかった。
案の定親父の帰りは遅く、お袋、俺、彩の三人でご飯、味噌汁、魚、漬物、野菜炒めというごく一般的な家庭料理を食べていた。
テレビは親父がいないときはついていなかった。
親父はテレビを見ながら食事をするのが好きで、チャンネルの主導権は常に親父だった。
しかしお袋は食卓こそが家族の大事なコミュニケーションの時間という主義だったのでテレビはついていなかった。
とはいえ、そう言いながらも突然親父が帰ってくるとすぐさまテレビを付けるという習慣がお袋にはあった。
きっと「テレビくらいつけろよ」と言われることを知っていたからだろう。
お袋はほぼ親父の言いなりだった。親父は完全な「亭主関白」だった。
「彩、今日は何か学校で面白いことでもあった?」
お袋が優しく彩に問いかける。
「うーん、やっぱり最近はバンドが面白いかな。誘われたばかりの時はドラムとかエレキギター音の大きさに慣れなくて、耳栓をしていたんだけど、最近はだいぶ慣れた。私の担当してるキーボードってピアノと違って、鍵盤が軽いからなんか調子狂うんだけどいろんな音が出て面白い。あ、そうそう、優香がね、彼氏にいきなり振られたんだって」
「まあ、優香ちゃんが。どうして?」
「彼氏からいきなり、もうお前は飽きたって言われたって!でもすごいんだよ!優香の奴『うん、わかった』って笑顔で答えて、後ろを振り向いて歩きだしたその彼に跳び蹴りしてやったんだって!」
「へえ〜、かっこいいじゃない!優香ちゃんって意外とやるのね〜」
「でもその後やっぱりすんごい泣いてた…。もう死にたいなんていってさ」
「失恋って本当に辛いのよ、それで死んじゃう人もいるしね。でも必ず乗り越えることができるし、そうしたらきっともっと素敵な恋が待っているのよ」
「さっすがあ、熟女が言うと説得力あるう〜、ハハハ」
「彩、その熟女っていうのやめてよ〜、まあ熟女なんだけどさあ…」
そんな女同士の会話を俺はただ黙って聞いていた。しかし『死にたい』って言う言葉に反応した俺は唐突に彩に聞いた。
「彩、お前も『死にたい』とかって思ったことある?」
「え?あ、あるわけないじゃない、振られてもいないし、やりたいこといっぱいあるもん」
彩は一瞬動揺したようにも感じたが、結果としてはあっさりと答えた。
そうだよな。彩が死にたいなんて思うわけないか。
でもだったらあの保健室の話はなんなんだ?
かといい保健室のことについて訊く勇気はなかった。
それを聞くことでものすごい地雷を踏んでしまう気がしたからだ。
夜十一時頃、親父が帰ってきた。今日はおそらく高級クラブに部下を連れて行き、ホステスとへらへら笑いながら酒を飲んで過ごして遅くなったのだろう。
にもかかわらず、相変わらずなんの悪そびれた雰囲気もなく、「俺様のお帰りだ」とでも言うかのごとく、大きな音を立てて玄関を開け、まさに亭主関白の鏡のように、脱いだ靴も揃えず、背広をお袋に脱がせ、どっかりとソファーに座った。
お袋はお袋で手際よく、おつまみとウイスキーの水割りを持ってきた。
飲みに行った日は必ず、最後の締めはお袋がホステスだった。
タバコも堂々とその場で吸っていた。遠慮して外で吸うような人間じゃなかった。
俺はリビングの扉の窓からそっと中の様子を覗きつつ、二人の会話を聞いていた。
親父が俺と彩に対する話をするのはこの時間だけだからだ。
その話の内容でまた、あとでああしろこうしろとか、小言をお袋の口を通して言わせる、いつものシナリオである。
この辺からは田中家の表面上の世界ではなく、裏の世界を語っていきたい。
まず俺自身のこと。
俺は現在十七歳でいわゆる反抗期の真っただ中にあった。
それは思春期の成長の上で欠かせないものなのかもしれないが、それだけでただいたずらに反抗しているわけではなかった。
俺は以前から親父とお袋のやりとりに不満を覚えながら成長していた。
親父は俺と彩に自らのエリート的理想を押しつけ、その理想をいつだって、お袋の口を通して言わせていた。
お袋もお袋で、自分なりの考えがあるにも関わらず、自分の意見を言わず、親父のいいなりであった。
俺は両親のこの部分にすごく苛立ちを感じていた。
今宵の夫婦会議がいつものように始まったようだ・・。
「最近、彩の成績落ちてきてないか?」
「え?そうかしら?」
「そうかしらじゃないよ。なんか彩が元々ピアノを弾けることに目を付けられて、二ヶ月くらい前から軽音楽部の連中のサポートかなんかやってんだろ?」
「ええ、いよいよ再来月の学園祭でライブに出るんだって」
「やっぱりやめさせろ。ロックバンドを組んでいるような人間なんか頭の悪い連中ばかりだ。成績が悪いからそんなくだらん音楽でストレスを発散しているだけなんだから」
「あ、あなた、今更そんな…」
「いいからやめさせろ。俺も黙認していたが、やっぱりだめだ。ピアノを弾ける奴が、いわゆるキーボードとかをやると急にピアノがぎこちなくなるって聞いたことがあるんだ。俺はロックをやらせるためにあいつにピアノを習わせたわけじゃない。勉強だけでなく、女性らしい特技を持って欲しいからやらせたんだ。そのおかげであいつは市の大会で何度も優勝してるじゃないか。これ以上ロックバンドなんてやってたら有名大学の受験にも影響する。やめさせろ。あと、メンバーには当然男共がいるだろ?俺たちの美しい娘に、臭い息でハアハア吐きながら絶対に言い寄ってくる。酒からタバコから不純なことまでみっちり教え込まれ、今までの彩じゃなくなってしまう可能性だってある」
「…あなた…バンドやっていいっていったのに…」
「やっていいなんて言ってない!黙認してただけだ!」
なんたる屁理屈…。これが俺の親父。自分が法律。自分が『カラスは白い』と言えば、俺たちは決して『違うよ、カラスは黒いよ』なんて言えない。お袋までもが、『そ、そうね白いわね』という。それが我が家庭。完璧な亭主関白、というより暴君。
「本人けっこう楽しそうなのよ。私、あの子が成績も優秀で何一つ欠点が見当たらないのが逆に不安になる時があるの」
「欠点が何もないからこそ自慢の娘なんじゃないか。欠点を増やして何のメリットがある?」
「そうじゃなくて、あのコ、不自然な位いいコすぎるでしょう?少しぐらいガス抜きっていうか、ストレス発散させてもいいんじゃないかって…」
「ストレス?子供なんかにストレスなんかあるかよ。もちろんイジメを受けているなら別だろうけどな。ストレスなんてのは俺のような大人がためるものだ。好きなときに遊べて、好きなときに勉強ができて、仕事もしてないのに三食メシが食える。会社のようにめんどくさい人間関係だって少ない。もちろん全くないわけじゃないだろうが、学校の場合、嫌な奴だったら話しかけなければそれでいいだろう。でも会社に行けば、嫌な奴にも話しかけないといけないし、笑いたくもないときに笑わなければいけないし、殴りたいような理不尽な重役からの命令にも従わなければいけないんだぞ。お前だって、たかだかスーパーの惣菜コーナーの作業員だけどそのくらいわかるだろう」
「たかだかって…」
聞いているだけで腹の立つ会話だった。俺はいつだって両親の夜の会話をリビングの扉の窓から隠れて見聞きしていた。
勉強漬けで親父の指示通りの生活を送るだけの彩が、バンドという華やかなモノを通して初めて灰色の青春にわずかな革命を起こそうとしているのを、あっさりと、いつものごとくお袋の口を通して止めさせようとしている。
自分は何様なのか、お袋の仕事、スーパー勤務すらもどこかで見下している。
お袋が汗水垂らして作業しているだろうことも想像せずに、自分はただ部下の打った書類に印を押し、ああしろこうしろと指示しているだけだろうと、俺自身二人の仕事を想像しながら勝手に苛立っていた。
親父は大企業の部長。
かなりの地位と名誉と学歴の持ち主で、山ほどの部下を抱えていた。
お袋は某スーパーの惣菜製造の正社員をしており、主任のような存在だった。
お袋は家庭と仕事を上手に両立させていた。
毎晩帰りの遅い親父をいつも不満のひとつも言わずに温かく迎えていた。
親父の口ぐせは「人並み以上の人間に」であり、お袋もそれに対し「うんうん」と頷いていた。
俺たちはこんな感じの両親に、できるだけエリートに近い人間に形成されるように教育されてきた。
さっき言ったとおり俺は現在反抗期。
「勉強しろ、いい大学に入れ」という親父に対し、かつて堪忍袋が切れて、
「あんたの考えは古いんだよ!俺には俺の生き方があるからいちいちうるさいこと言うなよ!」とどなったことがある。
たしか中学三年の高校受験の時で、成績が伸びず、父親の希望する有名進学校に入れない可能性が強かったときである。
そのとき俺は親父の勧める高校ではなく、「自由」を理念とする別の高校に入りたかったのだ。
しかし親父は
「あんなとこは馬鹿の入る高校だ。勉強ができないのを言い訳に『自由』だなんていっているだけだ!」とほざいた。
それに対し俺の怒りは爆発し、
「馬鹿ってなんだよ!あんたはそんなに偉いのか!人種差別って一番最低じゃないのか!あんたのような大人にだけは絶対になりたくない!」と反抗した。
次の瞬間、激しいビンタが三回程飛んできて俺は床に倒れたのを覚えている。
彩は影から不安そうに俺たちの言い争いを見ていて、悲しそうな顔をしていたのも覚えている。不安そうにというより、むしろ親父に怯えているようだった。
そしてそこにはお袋もいて、俺にこういった。
「け、健、いいから、お父さんに謝りなさい!」
俺はお袋を睨み、心の中で「あんたも同類か、こいつの犬か…」と思った。
俺はそれ以上抵抗せずにその場を去った。
「まて!まだ話は終わっちゃおらんぞ!」
「勉強すればいいんだろ!」
こんなことがあっても次の日の朝にはみんな何事もなかったかのように普通だった。
これはお袋の力量が影響している。
お袋は暗い雰囲気をリセットさせる不思議な能力を持っていた。
お袋の作る朝ごはんにも原因があるのかもしれない。
お袋は朝から一生懸命、昨日の残り物などでなく、一から料理を作っていた。
家族のために早々と起きて目玉焼きやハムを焼き、シチューを作ったりしていた。
その料理の力なのか、前の日にどんなに暗いことがあっても、朝には家族の関係は表面上だけかもしれないが、元通りになっている。
これが田中家のだいたいの裏の構造だった…。