専門的リハビリ施設へ入院
火災の危機も脱し、無事退院した日の夜のことは今後も忘れることはないだろう。
彩の部屋のみが崩壊しているため、家族全員が一階の両親の部屋で、四人で川の字で寝たのだが、四人が同じ部屋で寝るというのは俺の記憶が正しければ初めてのことではないだろうかと思った。
初めて、家族が本当の意味で一緒に過ごした時間となった。
今回の火事の件で、親父は今になってようやく、お袋と共に誇り高き田中家の本家本元のところに行き、彩の病状について、今まであったことなど、全てを暴露した。
父親は自分の両親やその他そこに集まった親族から口々に『そんな深刻な事態をどうして今まで黙っていたのか!』とお叱りを受けていたという。
特に祖父は熱っぽく語っていたらしい。
「代々優秀な田中家の誇りを傷つけないようにと、お前は『精神病になった娘』を『恥』として、隠し、表面上優秀な家庭を演じていたのだろうが、子供の命をすり減らしてまで田中家の誇りを守ろうとするその態度は、それこそ恥ずべき行為であって、田中家のご先祖に顔向けできないぞ!そもそもかつての田中家はとても貧乏だった。しかし田中家が今こうして裕福になった理由は、困ったとき、親族同士、お互いが助け合って生きてきた、その『結果』、知恵が生まれ、優秀になったということに過ぎないのだぞ。『優秀になるために』生きているんじゃない。助け合い、分かち合った結果として、人として『優秀』になるのであってだな、『優秀になる』というのは、世のため人のために生きることの『手段』であって、それ自体が『目的』であってはいけないんだぞ!言っておくが田中家は『世間体』を気にするようなことをしたためしなど今まで一度もないんだぞ!」
父親はひたすら頭を下げて聞いていたようだ。
この時のことは全てお袋から聞いたのだが、お袋は俺にこの話をした後、こう言っていた。
「あんなに小さくなっているお父さんを見たのは初めてで、少しだけ『ざまあみろ』と思
ったわ。ふふふ…」
その例の病院は、とある高原と温泉で有名な場所にあった。
前日に小さな温泉旅館に泊まった俺、両親、彩の四人は白くて大きなその建物の前で立ち尽くしていた。
四人とも緊張していた。
周りは大きな山々に囲まれ、大自然の真っただ中にあった。
通常の精神科医でも治療が難しいと言われている「人格障害」や「多重人格」や「アルコール、ドラッグ中毒」「激しいトラウマ」などを治すことを専門とした本格的な病院、それがこの白くて大きな建物だった。
今までの彩に対する精神科からの治療といえば、ただ五分程適当な会話をした後に、血圧と熱だけを計られ、後は安定剤が出されるということが繰り返されるだけであったが、この病院に入ると本格的な人格形成の再教育と集団ミーティング、その他認知行動療法だかなんだかいろいろと行われ、一ヶ月もすると飛躍的に病状が回復する人もいると言われているのだ。
彩は今まで、散々自殺のマネゴトみたいなことをしてきたが、火災を経験した時、恐怖におののき、初めて『生きたい』と思った。
このことをきっかけとして、彩にこの病院の話をすると、彩は県外に一〜二ヶ月入院するということには最初のうち抵抗を示したが、最終的には『この病院を信じてみる』と言った。
近藤は彩が本格的な治療を受けられることがうれしい反面、一〜二ヶ月も彩と会えなくなるという現実を耐えられないほど辛く感じていた。
俺にもその苦悩を涙ながらに訴えることがよくあった。
前田にそんな悩みを打ち明けたところで、いつの間にか電車の話題に変わっているに決まっているから、近藤は俺にその想いを訴え続けていた。
自分の友人から、自分の妹に対する想いを延々と聞かされるというのはなんとも複雑な心境だった。
しかし近藤が切ないのも無理はない。病んでいるとはいえ、付き合ったばかりの彼女といきなり、一〜二ヶ月も離れるのだから。
しかも辛いのはそれだけではなく、病院では携帯電話の持ち込みが禁止されていたのだから、なおさらのことだった。
つまりやりとりは病院に直接電話して本人を呼び出してもらうか、彩から近藤に、館内の公衆電話からかけるか、あるいは手紙しかなかった。
専門病院に入院する約一週間前の話になるが、例の自殺ネットの掲示板にはこう書かれていた。
アーヤ「今日で私はこの掲示板から消えます。といっても死ぬわけじゃないですよ。
私、あることがきっかけで実は、死にたいんじゃなくて、生きたいんだって気づいたんです。生きるために某専門病院に短期リハビリに行ってきます。今までお世話になりました。ありがとう。みんなもいずれ『死にたくない』って思える日がくることを祈ってます。さようなら」
エル「あーあ…とうとう君はそっち側の人間になってしまったか…。裏切り者だな。
でもこの掲示板では裏切り者を祝福するというのが常識になってます、おめでとう。
さようならなんていわんといてや。死にたくなくても、この掲示板たまに見てね。
この掲示板は自殺を奨励する掲示板では決してないからね。まあ気楽に行ってきな」
掲示板には他にも多くの応援メッセージが書かれていたが、『頑張れ』という言葉だけは一度も書かれていなかった。
みんな良く知っているんだな…
こういう人たちが既に充分頑張って生きているってことを…そう思った。
入院する前、彩は当分会えなくなる彼氏、近藤に会いに行ったようだ。
何を語り合ったかは二人しかわからない。ただ、家に帰ってきた彩は当分会えないから落ち込んでいると思いきや、時々「ふふっ」と笑っていた。
彩が笑っている…。
『彩が、引きこもって以来今日…初めて笑顔を見せたんだぜ!いや、今までも全く笑顔がなかったわけではないけど、本気の笑顔はあれが初めてだった気がする。俺泣きそうになっているぜ』
俺は近藤にメールを送信した。五分もしないで返信があった。
『俺の愛の力ってやっぱりすごいだろ?俺も彩も今日という日を一生忘れないだろう』
『どういうことだ?しかも彩って、いつの間に呼び捨て?』
『俺は絶対に君を裏切らない!彩にそう言ったら彩が「じゃあ証拠みせてよ」と言ったから、俺はその証拠として…つまり…そういうことだよ、お兄様』
二人の距離が一気に縮まった原因…。
『わああああ!もういい!しゃべんな!じゃあな!』
俺は送信後すぐ、ベットに携帯を投げつけた。そしてそれ以上想像するのをやめた。
想像したくない!もういい!俺は何にも聞いてない!
あいつらが付き合おうが、もしかしたらだが、唇を重ねようがどうでもいい、知ったこっちゃない。
彩と近藤が付き合うなど、想定外なんてものじゃなかったのだが、近藤はたしかに彩の大きな心の支えになっていた(未だに違和感があるが…)。
一時期は彩の精神状態に振り回されて、弱音を吐いていた近藤だったが、近藤は彩の病状をネットで調べ、その資料は膨大なものとなり、またその手の本もどっさり読み、対応の仕方をかなり把握しつつあった。
そして今、俺、両親、彩は「高岡高原メンタルヘルス・リハビリセンター」という病院の中へと入った…。
中に入って最初に思ったのは「若い女性患者」が多かったこと、「痩せている美少女患者」が多かったということ、他の精神科の患者と違い、高齢だったり、歩き方が変だったり、ろれつの回らない口調の患者が少ないということだった。
「田中彩さーん」
看護師が彩の名前を呼んだので、俺たちはカウンセリングルームというところに向かった。
しかし俺だけが、なぜかカウンセリングルームに入ることが許されず、両親と彩だけが入っていった。医師の目からして俺は眼中になしということか…?じゃあ俺までわざわざ遠征した理由って何…?ちょっとムカついた。
しょうがないので、俺は単に県外の温泉旅行に来たのだと思うことで気を紛らわした。
俺は、精神科という得体のしれない場所のベンチで気まずい状態で携帯をいじっているしかなかった。
精神科に対する偏見はやはり俺にもあった。
しかし、患者はみんな案外普通そうだった。あえて言えば、やたらと缶コーヒーを飲む男と、やたらと落ち着きなくタバコを吸う女がいたくらい。
あと、精神科の患者はなぜかうんこ座りを好む。
待つこと五十分、彩と両親はカウンセリングルームを出てきた。
彩の表情はどことなく寂しそうであった。そしてそれは両親も同様にそうだった。
親父がため息をついた、お袋がため息をついた、そして彩がため息をついた。
するとカウンセリングルームから、中年の太った看護師が出てきて彩の肩に優しく手を置いて、ささやいた。
「ほら、これからが再スタートなんだから、ここからしばらくは私たちと過ごすんだから、お父さんたちに挨拶したら?」
彩は俺の顔を見た。そして両親の顔を見た。
彩の目頭から一滴の涙がこぼれ落ち、気づいたら俺も両親の目頭も同じような状態になっていた。
「…じゃあね。頑張ってくる…」
彩が俺たちにつぶやく。
「もう充分頑張ってきたから、これからは気楽に行きましょう、彩さん」
看護師が優しく彩の頭に手を置く。
彩は親父、お袋、そして俺と握手を交わし、看護師に連れられて、病棟への廊下を歩いていった。
俺たちはずっと彩を見ていた。
廊下の曲がり角で彩が見えなくなりそうなとき、彩が俺たちの方を振り向き、再び手を振った。俺たちも力なく手を振った。
……そして、彩のいない生活がはじまった。
彩は最初のうちは、心細さからか、病院内の公衆電話からよく両親、特に母親に電話をしてきた。
話す内容といえば、ミーティングの連続で疲れたとか、ものすごい虐待を受けてきた患者が何十人もいて驚いたとか、あの先生は嫌だとか、あの看護師はムカつくとか、あのケースワーカーは天使だとかそういった内容が多かった。しかし、スタッフに対しての好き嫌いの感情は、その日によって違っていた。これも彩の病気の特徴らしいが…。
彩は近藤にも電話をかけ、近藤いわく二日に一回は必ずかかってきたとのことだった。
しかし、日が経つにつれ、彩は両親にも、近藤にも徐々に連絡をしなくなっていった。
向こうの生活に慣れて、不安がなくなってきたのか、患者同士友達となり、電話をするのが億劫になってきたのかそれはわからない。
彩からの電話が少なくて、両親はうれしいような、寂しいような…とつぶやいていた。
一方近藤は、彩からの電話が少なくなっていることに不安を感じていた。
病院内で彼氏でも出来たのではとさえ思っていた。
そのため、何度か近藤から病院に電話をかけたこともあったが、いつでも「今本人はミーティング中なので…」と言われたという。
電話があったことだけ伝えてくださいと言うものの、彩から電話がかかってくることは極めて少なくなっていたようだ。
ようやく彩と会話が出来ても、なぜか会話が続かず、彩側の声のトーンもあまりうれしそうじゃなく感じたという。
むしろ『お願いだから早く切ってくれないかなあ』と言っているようにさえ思えたという。
落ち込んでいる近藤に対し、俺と前田は、近藤を慰めるため、美味しいものでも食べにいこうぜと誘った。
俺が知っている美味しいお店、もちろんあそこだった。
秋田の郷土料理が最高に上手いあの店だった。
「近藤、前田、最高に上手い店知っているから。今晩食いにいこうぜ」