近藤と彩
翌日、俺は校舎の裏に近藤を呼んで、彩との関係を問いただした。
「すまない。彩ちゃんのいう通りだ。俺たちは会う回数は少ないが、二ヶ月位前から一応…つ、付き合っている…」
近藤は普段のちゃらちゃらした態度は全く見せず、俺をまっすぐ見ている。
「近藤、俺は彩の両親ではないから、お前と彩との交際をどうのこうのとは言わないが、一つだけ言っておくことがある」
「何だ?注射器のことなら何度か返すように頼んだが、本人が返したくないって言ってて困っているんだ」
「そのことも問題だが…。あいつと付き合うのはやめたほうがいい」
「どうして?」
「お前はアイツの病気をナメている。お前自身も俺たち家族と一緒に負の連鎖に巻き込まれて散々に振り回されてしまうぞ」
「俺は、愛があればそんなのは乗り越えられると思っている!」
いつになく真剣な近藤、こいつのこんなマジな状態を俺は今まで見たことがない。
「近藤…付き合って二ヶ月だって?恐らく今までだっていろいろあっただろう?」
近藤は頭を掻きながら、ため息をつく。
「ああ、いろいろとあったよ。夜中にメールが来て、ナントカって安定剤を飲みすぎちゃった…とか。近ちゃんちにデ○スとかハル○オンないかとか…ア○キサンないかとか、そのほかよくわからない薬についていろいろくれくれ行ってきたりしてな…」
「まさかやってないだろうな!」
「やるわけがない。だいたいうちは精神科じゃない。内科だ。精神科薬などそれほど置いてないし、精神科薬を素人が渡すのは一種の犯罪だ。そもそも彩ちゃんはすでにリッパな薬依存症だ。他にもいろいろあるよ。『死にたい』とか『もうだめ』とか『今すぐ会って』とか。特に『死にたい』なんてメールが来たら、どう返せばいいのかわからなくてね…正直そのたぐいのメールが来るだけで胃が痛くなることもある…。電話で話したほうが楽だと思って、電話するんだけど、なぜか電話には出なかったりね…なかなか難しい病気だなっていうのはわかる…」
「ある程度はわかっているようだな。でもな近藤。彩の病気はそんな生易しいものじゃない。アイツのせいで、いや確かに両親の独裁主義的な態度にも大いに問題はあったものの…アイツのせいでな…田中家は崩壊しそうになったんだぞ。いや今だって崩壊の危機はある」
「彩ちゃんのせいじゃない。そもそも彩ちゃんが病気になったのは、さっきお前が言ったとおり、お前の両親に問題があるんだ。そのせいで彩ちゃんがああいった病気になったんだ。だから田中家が崩壊するとしたら、それはお前の両親のまいた種だと思うよ。結局、言っちゃ悪いが、お前んちは表面上だけがエリートのいわゆる『機能不全家族』だったってわけだ。そしてな、健!」
近藤は挑発的な態度で、俺を指さす。
「彩ちゃんが病気になったのはお前にも原因があるんだぞ!」
いきなりの宣言に、俺は一歩後ずさりする。
「な、何だと…どういうことだ!」
「お前が反抗期を迎えて、両親がお前を激しく怒ったり、殴ったりされているのを彩ちゃんはずっと観て、そして怯えていた。自分も逆らうとああなるのかってな。それだけじゃない。そんな暗くなりがちな家庭を、彩ちゃんは少しでも元気づけようとして、いつでも笑顔を作り、成績の伸びないお前に代わり、成績が優秀な状態を維持してきたんだ。そして彩ちゃんは家庭でも仕事でも疲れている母親の負担を減らそうと、家事の手伝いもかなりしていた。自分のやりたいことなど全て押さえつけて、バンドまで辞めて…そんな生活がいよいよ限界になり…そんで病んでしまったんだ」
「…だから俺にも原因があると…?」
「そうだ!お前がもっと両親の期待に答えていれば、彩ちゃんの心は病まなかっただろう」
近藤の言うとおりかもしれないと思った。しかしなんか腑に落ちなかった。
お前にうちの何がわかる!
お前にうちの家庭の苦悩がわかるか!
いろいろな思いが、苛立ちを生み、俺は再び近藤に反撃した。これは反撃でもあるが、近藤のことを思うからこその最後の忠告だった。
「お前の言うことを否定はしない。だがな、もう一度言うぞ!アイツの病気は『愛』なんて簡単なもので救えるようなレベルのものじゃない!お前はドラマかなんかの見すぎだ!たまに聾唖の人とか、車椅子の人とかを題材にした恋愛ドラマがある。健常者の男と身体に障害をもった人との恋愛ドラマみたいなヤツだ。でもな『精神障害』となれば別だ!もちろん身体の障害も大変だろうが、『精神』の場合、次の日の予測が全くつかない。『精神障害者に対する差別発言だ』というふうにお前はとるかもしれないが、一緒に暮らして身をもって支えている立場になってみろ!俺は断言する!最初のうちはいいさ、まあ、今が一番ときめいているときだろう。だけどな、お前は絶対に逃げ出す。お前はだんたんとあいつを避けるはずだ。そしてな、あいつはそういうささいな態度には敏感に気づく。もしもお前が、あいつの前から去ったなら…アイツが何をするのかだいたい想像がつかないか?」
そう言って俺は、手を自分の首に当て、スパっと斬るようなジェスチャーをした。
「田中!俺は絶対に彩ちゃんを裏切らない!図書館で会ったあの日から、彩ちゃんのことを忘れたことは一度もない!勉強してようが、風呂に入っていようが、いつでも考えるのは彩ちゃんのことばかりだった。俺なら彩ちゃんの病気を理解できる。俺は『愛』の力を信じている」
激しく、力強く熱弁する近藤を俺は鼻で笑う。
「お前は彩の『心の病』を本気でナメている…。そのうちお前まで心を病んでしまうぜ。変な話だが、彩に対してお前のような異様な『情熱』は却って危険を招くんじゃないかって思うんだ。彩自身もそうだが、お前自身の精神も危険にさらされる気がする。下手をしたら共に危険な方向に行くような気がするんだ。俺はむしろちょっと傍観者みたいな状態で彩のことを見守る程度が丁度いいんじゃないかって思う。でも今のお前はただ、初めての恋愛に舞い上がっていて、『愛』という言語を無敵に感じているだけだ。お前は絶対にいずれ彩を避け始める…。俺は『愛』を信じてないわけじゃない。だがな、あいつに今一番必要なのは『愛』以前に『専門的治療』なんだ。お前の言っていることは、例えるなら『愛してる』と毎日言うことによって、今まで車椅子だった少女が立てるようになるといった非科学的な幻想論に過ぎない」
その後も俺と近藤は一時間近くも議論していたが、これ以上何を言っても水と油だとお互い悟ったようで、俺は捨て台詞を吐いてその場を去った。
「勝手にしろ!思い知るがいいさ!」
てくてく早足で歩く俺を近藤は追って来なかった。しかし近藤は最後に叫んだ。
「第三者だからこそ、助けれることだってあるんだぜ!」
少しだけ説得力を感じる言葉だった。
それから一週間程経った。
彩の状態はあの日の夜の件からもわかる通り、精神科に入院したことがまるで無意味だったかのように、相変わらず部屋に引きこもり、薬とアルコール漬けになっていた。
食事は部屋に配膳、薬の飲みすぎを防止するために、一応薬は本人から預かるという生活が続いていた。
しかし、自殺ネット仲間から貰ったと思われる薬物がまだまだ部屋の中にあるのではないかと思われた。なぜなら動きが時々挙動不振だったからだ。
結局、県外の専門病院(俺はあの時あえて『施設』と表現したが)への入院の話も、それ以降、俺からなかなか切り出すことができなかった。
拒否されるともうそれでおしまいだと思ったからである。あの夜も結局専門病院の話は尻切れトンボで終わってしまっていた。
彩は先回の入院以降、すっかり精神科病棟を毛嫌いしてしまい、自分はまったくもって正常であるという主張を曲げなかった。
彩は相変わらず自分のことを『私は、自殺したい…というだけで、脳には何の異常もない普通の女子高生だ』と言っていた。
『自殺したい』という時点で充分普通じゃないと思うのだが…。
彩の行動は悪い方向へと進むばかりだった。
薬、酒、タバコ、深夜の外出、注射器での採血行為、首吊りのまねごと…。
両親は「ひきこもり親の会」とも相談を繰り返し、親の会のみんなからは、とにかく彩の場合は単なる引きこもりじゃなくて、精神科からの専門的治療が必要だから、専門のリハビリ施設に早めに入院させたほうがいいとしか答えが返ってこなくなった。
つまり「親の会」の結論は、彩は「ひきこもり」というレベルを超えて、命の危険があるということだった。
両親いわく、親の会のメンバーは親身に話を聞いてくれたし、時には一緒に泣いてくれたりもしたらしいが、彩に関しては、結局結論はいつも一緒であったという。
彩の場合「早期専門的治療をするしかない」という意見に勝るものは、誰の口からも出されず、それ以上はいつ参加しても、うちの両親にとっては参考意見を聞くというよりも、単なる親同士の苦労話の傷の舐め合いに過ぎないものとなっていったらしい。
時を同じくして、彩と交際している近藤は日に日にやつれていっている気がした。
相当の疲労がたまっているかのようだった。だから言ったのに…やめとけって!
それからわずか二週間足らずで近藤はとうとう俺に泣きついた。
「田中…お前の言ってたこと…認めるよ…正直、辛い…。俺、彩ちゃんの病気をナメてた…。自分の『愛』の無力さを嫌というほど味わっている…。あれだけ燃えていた自分が、今となっては恥ずかしい…でも彩ちゃんのことを失いたくはない。なのに最近では携帯が怖い」
近藤によると、彩と付き合えば付き合うほど、近藤自身が逆に、いつ彩に見捨てられるかといった不安がつきまとうようになったのだという。
例えば、授業中や深夜寝ている時など、どう考えても即返信が難しい時がある。そんな時、毎回ではないが、すぐにメールを返信しなかったというだけで、『もういい、さよなら』と言われたり、また『お願い私を捨てないで、嫌いにならないで』とすがりついてきたかと思いきや、『わたしはあなたほどの最低な人間をみたことがない。もう会うことはないから、さようなら』と一方的に別れ話を持ってこられたり…それで落ち込んでいたかと思うと、次の日、早朝に『ねえ、海が観たい、海に行って花火しようよ』と言ったり…。元気になったかと思うと、また『死にたい』とか『今、注射器でペットボトルを血で満タンにした、あんたのせいだ!』とか激しく責められたり…。
近藤の苦労話は想定内のことであった。むしろこの程度の苦労かとさえ思った。
お前は付き合っているとはいえ、まだしょせん他人、逃げようと思えば逃げられる。
でも、家族はコイツから逃げることは絶対に出来ない…。
その後、彩の状態はますます悪くなり、精神科医はそれに合わせるかのように、ただ薬を増やすだけであった。
薬の一回分の量は手のひらの半分程を覆い尽くした。軽く十錠は超えていた。
薬のおかげで彩は、自殺行為はしなくなっていたものの、常に廃人のような青い顔になり、
その表情には何の希望もなく、また、目がうつろで、ろれつの回らない口調となり、人とのコミュニケーションも成り立たなくなっていった。
そして案の定、近藤の方も、そんな彩にどう接していいのか分からず、自分の方からは、彩にメールや電話をしなくなっていった。
「イイときは本当に可愛いと思えるんだ、でも悪いときは、まるで悪魔が乗り移ったかのように、脅迫されたり、重たい内容のメールが来て、その返事にとても神経を使うんだ…」
近藤はそんなことを言っていた。
彩は精神科薬でうつろになっているとはいえ、近藤からの電話やメールが少なくなっていることには直ぐ様気づいたようである。
その後近藤にはこんなメールが届いたという。
「わたしがウザイんでしょ…やっぱりわたしなんていなくなればいいんだね?」
近藤は「そんなことはない」といったメールをしたが、返信がなかったため、電話をしたらしいが、やはり彩は電話には出なかったという。
しかし、こういうやりとりも、時間が経つにつれ、ある意味で近藤に一種の「慣れ」を覚え始めさせていたという。
「またいつもの病気か…」
その程度にしか思ってなかったのであろう。
「死にたい」
「またリスカしたよ」
「また血を抜いたよ」
「オーバードーズしたよ」
「あんたのせいだ」
「全部私が悪いの」
「私を捨てないで」
「あんたとは別れる」
しかし、この手のメール攻撃に近藤自身が慣れてきた頃、彩は最悪の事件を引き起こすこととなる…。