プロローグ
僕の身近には心を病む若者が多くいました。彼らの叫びを文章にしなければいけないとずっと思い続けてきました。この作品はフィクションで、特定の個人を書いたものではありませんが、彼らの経験した地獄や叫びを小説という形で描いたつもりです。彼らを救うのはなんなのか、長編を書くのは初めてなので至らない文章ですが、読んでいただくと幸いです。
――――本日も、いつものように馬鹿話。
腐れ縁というヤツだろうか?学年が一年上がり、高校二年になっても、そいつらとは同じクラスだった。
あたかも先生が気を利かして同じクラスにしたのではと思ったくらいの偶然だ。
楽しい高校生活を送っているかって?冗談じゃない!
新年度が始まり、一ヶ月、つまりもう五月になるが、結局一年前と変わらず、俺たちは同じ馬鹿話を何度も反芻しているだけの虚しい高校生活を送っている。
だけど、『今が最も人生でいい時』だと、教師たちは繰り返し繰り返しほざくだけ。
このクソ面白くもない勉強だけの日々の何が人生で最もいい時なのか?
そもそもなんでこんな勉強だらけの学校に入れられたのか。
今でも後悔している。
あの時、あのクソ親父をもっと説得していれば…でも後悔先に立たずである。
周りは休み時間も予習か復習をしているだけの、勉強が趣味みたいなおかしな連中ばかりである。
女の子も正直、全然可愛くない。みんな参考書に毒されて、メガネをかけて、オシャレという言葉の一つも知らない。
髪を染めているような女の子なんて一人もいない。
勉強が彼氏のようなガリ勉女ばかりである。
確かにうちはかなりの有名な進学校。
正直俺がここに入れたのも奇跡だと未だに思っている。しかし同時に、なんでここにいるんだろうと思っているのも事実だった。
合格した時は嬉しくて、誇らしかった。有名進学校の生徒になった自分がカッコよく感じた。しかし問題はその後だ。
とにかく毎日が勉強だらけで面白くない。
アルバイトすら禁止されている程の勉強漬けの学校だった。
授業も最低だ。予備校のような授業ばかり。
「ここは試験に出る」とか「出ない」とか、そればっかり。
学校の先生も、教えていて楽しいのだろうか。
ここはある意味宗教団体の修行場のようなものだった。
「勉強」という修行を乗り越えれば、「大学」という天竺に行ける。大学に行けば、それこそ人生で一番楽しい「青春時代」が待っている。
大学神話…未だにこんなものがあるんだ…。苦労して今を乗り越え、良い大学に入れば、良い会社に入れて、幸せな結婚が出来て、幸せな人生が待っている…。
バブルがはじけて何十年になる…?まだこんな神話を信じている大人がいるなんて信じられないね。そう思っていた。
バカバカしい…。
俺たちはそんなくだらない日常から逃れていた。
この進学校内では、俺たちはいわゆる「落ちこぼれ」の状態になっていた。とはいえ「不良」とまではいかなかった。
不良になれるならまだマシというもの。
なぜなら不良ってカッコいいイメージがあるから。
でも俺たちは全てにおいて中途半端で、ケンカする勇気も万引きする勇気もなかった。
夢もない、恋もない、自由もない、希望もない、目の前にあるのは…
「勉強」だけだった。
俺たちは小心者で、中途半端で、行き場のない、自分が何を人生の目的にしているのかもさっぱりわからない意味不明の三人組だった。
そしてこの三人には生まれてこのかた彼女など出来たためしがない。
今日も俺は、落ちこぼれの連中と馬鹿話をしていた。
馬鹿は俺を含めて合計三名。
近藤守はスケベ代表。暇があればどんな女ででも妄想恋愛が可能だ。やや長髪で、ルックスは悪くはなかったが、格好がだらしなく、先生によく注意されていた。
恋愛マニュアルとか官能小説とかそんな本ばかり読んでいるわりに、女の子に話しかけているところはほとんどみたことがない。
つまり、自分はカッコイイんだという妄想で終わっているだけの男だった。
この世に女がいなかったら、こいつに話題は全くないだろうって程、常に女の話ばかりしていた。まあ健全な男子と言えばそれまでだが、こいつの場合あまりに健全すぎる。
前田進は筋金入りの病的な電車・地図オタクで、特に電車の話をし始めたらもう人の話など聞かなくなるから、空気が読めないと言われ、過去に何度もイジメを受けた経験がある。
みんながサッカーの話をしているときにも、割り込んでいきなり電車の話をするようなやつだから、今となっては誰からも相手にされていない。
しかし電車の時刻表を丸暗記している程のすさまじい能力の持ち主だった。
そして俺、名前は田中健。この名前をネットで検索したら恐らく相当数の田中健が出てくるだろう。同じ田中健には悪いが平凡な名前である。
俺の特徴を言うと、無趣味、将来の夢も特にないという実につまらない人間である。
味の無いせんべいの様な無個性な男であり、それ自身が俺の個性だった。
だから「どこの大学の何学部を目指す?」と言われても困る。
別にこの先勉強もしたくないし、ましてや仕事などしたくもないからだ。
俺の無個性さはどう表せばいいのだろう…。
例えば、お笑い番組を見て笑ったためしはほとんどない。なぜ今この芸人のこのギャクが流行っているのかさえわからない。だけど日本人である以上、みんなに合わせて笑わなければいけないような気がして、無理に笑っているような人間である。
要は「冷めた人間」「ニヒリスト」…それが俺。
異性に全く興味がないのかと言われると嘘になるが、恋愛小説も恋愛ドラマも映画も全てが作り物の世界に過ぎないと、最初から思っていて、ミリオンセラーになる恋愛ソングなどバカバカしくて聴いていられなかった。
もし俺に今彼女が出来たとしても、彼女はつまらなすぎて、三日で別の男に浮気してしまうだろう。俺はそのくらいつまらない人間。
俺はいつからこんな俺になったのだろうか?
幼稚園の頃の写真を見ているといっつもニコニコ笑っているのに、年齢を重ねるごとにアルバムから俺の笑顔の写真は無くなっていくのだ。これはどうしてなのか…。
なにはともあれ…
こんな馬鹿三人組、それが俺たち。
俺たちはお互い何の共通点もない。ひとつだけあるとしたら、通常の輪から外れてしまい、さまよっている変な男子生徒ということだろう。
残りの二人には言えないが、実は、それでも『この連中』の中ではまだ、俺が一番まともだとも同時に思っていた。
もし目の前に女の子がいて、三人しか地球上に男がいないと言ったら、たぶん俺を選ぶだろうと思っていた。何とも低レベルな発想だろうけどね。
俺は進学校に奇跡的に入れたのは良いものの、こいつら同様、この学校の勉強のスピードに全くついていけず、気づいたらずるずると二年生になっていたのだった。
桜が咲こうとどうでもいい。桜が散ろうとどうでもいい。俺たちは、ただくだらない日常を、くだらない会話で現実逃避しながら乗り切っていた。
そんなある日、俺はこいつらと、普段行くはずもない図書館で意味なく、ダラダラと過ごしていた。
なぜ図書館にいったのか?高校生活が暇すぎて、普段行くはずもない場所に逃避する程に、俺たちの会話のネタがなくなっていたからかもしれない。
近藤は高校の図書館になどあるはずもない「官能小説」を探していたし、前田は電車の時刻表を見ながらニヤニヤしていた。ニヤニヤの意味がわからない分、気持ち悪いったらありゃしない。
俺はヘッドフォンで、八十年代に自由を求めて、歌い続けて、二十代後半の若さで亡くなった某カリスマロッカーの音楽を聴きながら、なぜか何気にムンクの絵画集を見ていた。
ムンクについては特に興味もないし、見ていたことに深い意味もない。たまたま目についたから開いてみただけだ。
全体的にメランコリックで重い印象の絵が多くあるように感じる。
ほっぺに両手をあてて恐怖に怯えているような表情の絵、「叫び」が代表作のムンクだが、俺がその時なんとなく気になった絵は…
女の子が裸で不安そうな姿でベッドに座っている「思春期」という題名の絵だった。
この絵をみた途端、何やら得体のしれない、ひっかかる気持ちを感じた。
これから何かが、それも、あまりいいことではない出来事が起こるような…そんな感覚を覚えてしまった。それがなぜかはよくわからない…。
そんなことを考えているとき、近藤が突然俺と前田を手招きした。
私語厳禁の図書室で、コソコソ声で近藤が言った一言は相変わらずの女好き言動だった。
「おい、ガリ勉女だらけのうちの高校に…あんなアイドルみたいな可愛い女の子いたか?」
前田と俺は『コイツあいかわらず女のことしか考えてないな』と思い、ため息をつくが、前田はその彼女を見るなり目と口を丸くした。
「いねええええよ!…ってか超ヤバイ…マジ新幹線レベルに可愛い!」
二人の反応が凄かったので、俺もどんな可愛い子かと思い、二人の視線の先に多少期待を寄せ、見てみる。
その女の子を見て、俺は「…………」と反応するしかなかった。
「田中、やべえよ、マジ、この学校創立以来じゃねえか?アイドルだよ、あれ!」
二人は長い黒髪の、色白の美少女に、それ以上言葉も出ない。
俺はどう言っていいのかわからなくなるが、事実を伝えるのは友人への当然の義務だと思い、ため息をついて現実を伝える。
「俺の妹じゃねえか…」
当然二人は硬直する。
「おいおい、田中、どっかの萌えアニメじゃあるまいし…それとも俺の妄想癖が感染したのか…?」
俺の発言が冗談だと思わずにはいられない近藤がつぶやく。
俺は現実を伝えるしかない。
「事実です」
「似てねえし…」
「それでも事実です」
二人はだったら証拠を見せろというので、その場で妹、彩に話しかける。
「あれ、兄さん、めずらしい!そういえば学校で会うのも初めてだね。だいたい図書館なんて兄さんの一番嫌いな場所でしょう?」
「ほっとけ、俺が図書館にいたら悪いか」
「へえ〜、とうとう兄さんも勉学に目覚めたかあ。お父さんとお母さんにようやく親孝行できるねえ」
「俺は、お前と違って何の期待もされてねえよ」
「何ですぐそうやっていじけるのよお…」
さわやかに小声で笑う彩。
「俺が図書館に来たのは単なるひまつぶしだよ…」
馬鹿二人組みは口をあんぐりと開けていた。
この事実を受け入れるのに時間がかかっているかのようだった。
そんな二人に妹、彩が気づく。
「あの二人は兄さんのお友達?」
俺は奴らに再度目線をやると、いかにも『紹介してくれ!』と言った感じで顔を赤くして『うんうん』と頷いていた。
「しょうがねえな、紹介してやるよ、近藤助平と前田電車男」
「おい!」二人はリハーサルもなしに見事にハモったツッコミを俺に入れる。
「は、はじめまして…田中彩です」
「こ、近藤守…困った人がいたら守るようにと、医者の父がつけた名前だよ。あ、うち近藤内科医院っていう老舗のクリニックなんだ。俺も後をつごうと思っているし…。も、もし体調が悪くなったらいつでもうちに来てくれ!」
お前、『医者』なんか絶対にならねえって言ってなかったか?
だいたいそこまで聞いてねえのに、短時間で多くをアピールしようとする近藤。
続いて二人目の馬鹿、前田が自己紹介をする。
「ま、前田進…で、電車は好きですか?僕はね、電車の時刻表を全て暗記しているくらい電車が好きでさあ…あ、一番好きなのは寝台列車、あんな贅沢なものはないよ、ビールを飲みながら夜景をみて、あ、あ、あ、もちろん僕はビールでなくてコーラかジンジャエールだけど、飲みながら移りゆく小さい窓からの夜景を見て、人生のことを考える…これって最高でね…そんでね…そんでね…」
「スト――――ップ!」
前田は電車の話になると、最低二十分は止まらないので無理やり止める。
彩は多少作り笑顔で困った顔で苦笑いしながら「よ、よろしくお願いします」と言った。
学校からの帰り道、近藤の馬鹿がほざく。
「水くせえなあ!ああいうアイドルみたいな妹がいるって言うことは真っ先に僕に報告してくれないとおお、お兄様!」
「おめえに『お兄様』と言われる筋合いが見つからないのだが…」
「か、彼女、電車とか興味あるかな…?」
「…ねえよ、間違っても俺の妹の前で『東京駅の車掌のマネ』だけは披露するなよ」
その後はすっかり馬鹿な友人共から羨ましがられる生活が続いた。
おそらく近藤の奴が他の連中に言いふらしたのだろう。彩のファンは口コミで日々増えているようで、すでに多くの男子が彩に近寄っていた。
しかし彩自身は全く恋愛に興味がないかの如く、休み時間も勉強ばかりをしていた。
言っておくがこの物語は可愛い妹を持った男の、羨ましい日常を描くような話ではない。
先程から登場させてやっている馬鹿友人二人と俺の、アホな日常を描くコメディでもない。
これから始まるのは、この妹がきっかけで、「理想の家庭」とさえ周囲から思われている田中家があっけなく崩壊していくという、苦悩に満ちた地獄のような日々の物語である。
これから俺が語る話は「血みどろ」の物語と言っても大げさではないため、血に弱い人はこれ以上読むことをオススメしない。
俺の日常は確かに今まで話したように、くだらなく、自由のない、最低な日々の繰り返しだった。
しかし、
「くだらない日常…」
そう言っていられる日々ってなんて平和なんだろうということを、俺はこれから嫌というほど思い知らされることとなるのである……。