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704号室、事故物件につき

作者: 鈴木真心

 東京のある不動産管理会社に勤めていた頃、社内で有名な事故物件があった。それは大阪にあるという。


『704号室、事故物件につき』


 社内ホワイトボードには常にそう書かれたメモ紙が貼ってあり、入社したてのわたしは、不謹慎にも一体何があったのだろうと密かに興味を持っていた。

 さて、事故物件というのは、大抵がその物件条件に対して割安となっているものが多い。人の口に戸板は掛けられぬとはよく言ったもので、どんなに隠しても噂は広まるものだ。よって曰く付き物件とは、そうでもしなければ、なかなか入居者は見つからない。中には敢えて、そういった物件を好んで借りる猛者もいるが、やはり稀なことである。しかしながら、その理由を記載することも説明することも義務付けられてはいない。するかしないかは、各不動産によってまちまちであり、良心に寄るところが大きい。事故物件自体はそう珍しいものでなく、事件事故、または自殺の数だけ存在している。にも関わらず、わざわざホワイトボードに常に貼られたメモ紙の物件は、だからこそ興味を引いた。

 ある日、東京から大阪に転勤するというサラリーマンが、その事故物件を借りることになった。うちの会社はわりと良心的で、大家の意向もあり、割安な価格の理由もきちんと説明したという。


「それでも借りるんですか」


 呆れも含んでいただろう言葉に、担当の先輩は苦笑を見せた。


「そう言うんだよ。世の中は金持ちばかりじゃないからな。まあ、中にはそういうマニアもいるけどね」


 先輩が見せてくれた写真の限りでは、築浅で小綺麗なマンション、部屋も広くオートロック、カメラ付きインターホンも付いており、駅からは徒歩五分圏内。実際、建ててから五年と経っていないらしい。確かに、その価格ならば破格と言って違いない。そういうものかと妙に納得して、具体的にどういった事故物件なのかを聞きそびれてしまった。

 一ヶ月ほどした頃だったろうか。昼頃、電話番をしていたなら、軽快に電子音が鳴った。


「はい、こちら○○不動産でございます」

「もしもし、あの、先月▲▲マンション704号室を借りた松前ですが、担当の方いらっしゃいますか?」

「少々お待ちください」


 ちょうど担当の先輩がいたので電話を代わり、事故物件のことなどすっかり忘れていたわたしは昼飯を再開した。

 しばらくして電話を切った先輩が、はあ、と大袈裟に溜め息をき肩を落とす。


「クレームですか?」

「いや……」


 僅か視線を泳がせてから、先輩は小さく息を吐いた。困ったとか呆れたとかの類いではなく、自分を落ち着かせるようなものだと感じた。


「覚えてるか?あの、例の704号室」

「ああ……はい」


 例のメモがホワイトボードから消えたことで、すっかり忘れていた。わたしの反応などさして気にしない様子で、先輩が話を続ける。


「それで、まあ、借りたのは松前さんて言うんだけど。あ、これは覚えておけよ」

「はい」


 電話を取ることが多いと言え、大抵のお客様は自分の担当や賃貸アパート、またはマンション名を言ってくれる。わざわざ「覚えておけ」と釘を刺されたことに内心首を傾げつつ、そういうものだと曖昧に納得した。


「でさ、松前さんね、今日有休取ったらしいんだけど」

「はい」

「部屋の掃除をさ、徹底的にしたらしくて、そのね……まあ、クローゼットの奥からさ、その……大量の髪の毛が出てきたらしい」

「……は?」


 一瞬意味がわからず、先輩に向かって不躾な疑問符が口から漏れた。


「髪の毛、です……か?」


 次の瞬間浮かんだのは松前さんが女性を連れ込んだ可能性だが、それにしても、クローゼットの奥に大量の髪の毛など隠していくものだろうか。そんな意味不明な行動は、普通の感覚ならばしない。


「とにかく、今取り敢えずメールで写真送ってもらってるとこ……ああ、来た来た」


 電子音につられて先輩のパソコン画面を覗き込む。カーソルを合わせてクリックした途端、写し出されたそれに思わず目を剥いた。押し込まれていただろうダンボールが無造作にフローリングに置かれ、その奥からはまるで、這い出してきた何物かのようにうねる、まさに大量の髪の毛。画面越しに見てもかさついた乾いた質感が伝わるのに、どこか、生々しい。こんなのはもう髪の毛とは言えない。思わず口元を押さえ、喉までせり上がってきたものを何とか嚥下えんかする。


「……取り敢えず、現地の奴を向かわせるか」


 絞り出したような先輩の声も、やはり、乾いていた。

 それから何度か松前さんからは似たような電話があった。取ったのはわたしでなかったけれど、聞く限りでは、インターホンが夜中に鳴って起きてみたが誰もいなかった、突然テレビが点いたり消えたりした、また髪の毛が出てきたなどだ。そのたびに現地の社員が謝罪や清掃に向かっていた。ここに来てようやくわたしは、先輩が「覚えておけ」と言った真意を理解していた。両手で足りないほどの呼び出しに流石におかしいと思ったのか、何度か転居を勧めたという。しかし松前さんは、転居するほどではないと首を振った。


「現地の奴の話だと、精神的には参ってるみたいなんだけどなあ……」


 先輩がそれ以上を言わなかったのは、やはり、金銭の問題が絡んでくるのだろうと予測し、曖昧な相槌を返すのみに留めた。

 それからさらに一週間後、夜の七時にその電話はあった。


「はい、こちら○○不動産でございます」


 たまたま残業していたわたしがそれを取り、お決まりの言葉を口にする。しかし、受話器を耳に当て言葉を待つも、相手は何も言わない。どうしたのかと首を傾げたなら、震える声が鼓膜を打った。


「……あ、の……」


 すぐにピンときたわたしは帰り支度を始めていた先輩を急いで手招きする。察した先輩もまた、ジャケットを椅子に投げ捨てすぐに受話器に耳を寄せた。


「松前さん、松前さんですね?どうされました?」


 しかし返答はなく、微かに震えた吐息が受話器越しに伝わってくるのみで、現場にいないわたしにさえその緊張が移ったかのように体が硬くなる。


「松前さ」

「血が」

「血?血って血液ですか?」

「血が、玄関マットに──ひっ」


 ガタンッと何かのぶつかる音と、それから訪れた静寂。


「ま、松、前さ」

「松前さん?松前さん、聞こえますか!?」


 明らかな動揺を見せたわたしから受話器を引ったくった先輩が、ひたすらにその向こうへと呼び掛けを繰り返す。しかし、それ以降松前さんからの返答はなかった。




 ──あれから数ヶ月、件の704号室はまた空き部屋となっていた。あの電話の後、先輩はすぐ大阪支店に連絡を取り人を向かわせた。大家さんと共にそこを訪れたスタッフは現状を見て即警察を呼んだらしいが、ほんの僅か目を離した隙に玄関マットに撒き散らされた大量の血は、跡形もなく消えてしまったらしい。


「そんなこと……あるんですか」


 震える唇から何とか絞り出した言葉に、先輩は答えなかった。

 何も証拠がない以上、警察はすぐ引き上げてしまい、スタッフは皆途方に暮れた。松前さんの行方は知れない。ご家族が捜索願いを出したということは耳にしたが、それ以降の進展は皆無と言ってよかった。

 しばらくして、件の物件のハウスクリーニングが終了したとの話を耳にした。どうやら、室内写真もホームページ掲載用に撮り直したらしい。わたしはweb担当ではなかったが、気になったので先輩に見せて貰うつもりで尋ねた。


「そういえば、例の物件、新しい写真どうでしたか?」

「ああ、まだ俺も……何か、見る気分じゃなくてさ」


 あんなことがあったばかりだ、先輩の気持ちは理解出来るように思えた。同時に、所詮、他人事だと認識してしまっていた自分の不謹慎な好奇心に、少しばかりげんなりもした。「これ」とPCを操作した先輩がファイルを開ける。


「やっぱり……綺麗ですよね」


 写真自体は前に撮ったものより明るさが強調され、開放的な雰囲気さえ感じられた。何かあっただなんて、これを見て誰が思うだろうか。少なくとも、何も知らなければわたしは思わないに違いない。


「うん、悪くな……」


 次々スクリーンに映し出されるそれらを見定めていた先輩の手が止まった。何事かと首を傾げながら、先輩の視線を辿る。


「な、に……これ……」


 クローゼット内のスペースを見せたかったのだろう、扉は半分開けられていた。そして、何もないはずのそこに居たもの・・・・は──カチッ。


「っ!」

「……これはやめよう」


 その声は確かに強張っていた。一瞬にして消去されたファイルの結末に、わたしはただ、ほんの僅か、骨を軋ませるように頷くしかなかった。

 結局、何がどうなったのかを知る者はなく、会社のホワイトボードにはまた『704号室、事故物件につき』のメモが貼られている。しかし、わたしは知っている。正確に言うならば、知っていることがある。あの時、松前さんとの最後の電話で先輩はこう呟いたのだ。



「……誰だ?」



 思い過ごしだと思っていた。果たして先輩は何の声を聞いたのだろうか。今はもう、思い過ごしだとは思わないし、知りたいとも思わない。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 詳しく書いてあって楽しく読めました [気になる点] 怖すぎる [一言] 本当にあったことなのですか..?
[一言] ちょうど引っ越すためにマンション探してて、これ読んでビビりました(笑)
[良い点] 現実味があり、おもしろい。 [一言] 不動産業小説だね。
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