王太子妃選抜試験の参加証?何かの間違いです。だって私、ただの一般市民なので!
ヴィルは、開店当初からこの店に足繁く通い詰めてくれる、数少ない常連客のひとりだった。
彼が姿を見せるのは、決まって木曜日の、光のやわらかい長閑な昼下がり。だから私は、その曜日のその時刻だけは、必ず店にいるようにしていた。配達が立て込んでいれば、如何に早く届け先を回れるか試行錯誤したし、国外へ買付に出ていても、木曜日には被らないようにスケジュールを調整したりして。
無理はするな、と一度ならず窘められたことはあったけれど。それでも大丈夫だと言い張ったのは、ひとえに彼と過ごすひとときが、私にとってかけがえのない癒しだったからだ。
その時々に合わせたお茶を飲みながら、彼の差し入れてくれたお菓子をつまんだり、或いは仕入れたばかりの一風変わった商品を見せたりして、他愛のない話に興じる――そして、ちょっとしたことにも、ふと笑いが溢れる――、そんなのんびりとして、どこか満ち足りた時間が。私はとってもとっても、大好きだった。木曜の開店と同時に、というより――彼が店を出て行った、その瞬間にはもう。次の木曜日が待ち遠しくてたまらなくなるくらいには。
だから、カウンターの前に木製のスツールを置いたのは、殆ど彼の為だった。商品を買おうと買うまいと、そんなことは気にせずに、いつでもふらりと立ち寄ってくれたらな、というちょっとした願いを込めて。
あの日もヴィルはいつも通り、木曜日の昼下がりに店へやって来た。赤い薔薇の、小さな花束を携えて。
「道端で、小さな女の子が売っていたんだ」
そう言いながら差し出された花束と、ふわりと浮かべられたやわらかな微笑みに、私は思わず胸をときめかせてしまった。誰かから、しかも男の人から花束を貰った経験なんて、それまでに一度もなかったから。
「ありがとう、ヴィル。とても嬉しいわ」
「喜んでもらえて、安心したよ。……ああ、それと。今日はもうひとつ、君に渡したいものがあるんだ」
「あら、まだ何かあるの?」
驚いて目を見開くと、彼はどこか楽しげに笑みを深め、上着の内ポケットに手を入れた。取り出されたのは、小さな箱でも包みでもなく――飾り気のない、いっそ無骨ともいえるデザインの、銀で造られた古い指輪で。宝石の類は一切嵌め込まれていない、ただ薔薇の模様が彫り込まれただけのそれを見て、私はたまらず、爛々と目を輝かせた。
「もしかして、それは……!」
その指輪は、いつだったかヴィルが語ってくれた“魔法の指輪”によく似ていた。銀であることも、精緻な薔薇の彫り込みがされていることも。更に、よくよく見てみると、内側に王冠の刻印が捺されているところまで。燻んだ色合いを滲ませているのもまた、言い伝え通りの“代々受け継がれてきた秘密の代物”という感じがして、矯めつ眇めつするほど心が弾む。
古いもの、曰く付きのもの、珍しいもの、ひと癖もふた癖もある奇天烈なもの――それらに惹かれてやまない私の好みを、彼はよく理解している、と思ったものだ。あの時の私は、ただただ純粋に。
「これを常に身につけていると、指輪に宿る魔法が、いつか願い事を叶えてくれるそうだよ」
ヴィルはいつも、やさしかった。まるで童話の中から出てきた王子様のように。やさしくて、穏やかで、誠実で――。
だからうっかりすっかり、信じ込んでしまった。彼ほどの紳士はいない、とまで思っていたのだから、どうして疑うことなどできようか。
知る由もなかった。微塵も。まさかその翌週に、王城からやって来た屈強な兵士に両脇を固められ、無理矢理引き摺られるようにして店から連れ出されることになるとは、一体誰が想像できる?
本当に、一片も考えすらしていなかった。あの指輪を持っていたという、ただそれだけで、こんなことになってしまうだなんて――。
「――不正では?」
王宮の一室。豪奢な壁に張り出された紙を凝視しながら、私は思いっきり頭を抱えた。それはもう、わざとらしいくらい大袈裟に。でも、私は至って真面目だ。大真面目に頭を抱えている。
だって、おかしいのだ。どこからどう見ても、どう考えても。こんな有り得ないことが起こって良いのだろうか。いや、良くない。
「心外だな。試験はちゃんと公平に行われているよ」
背後から聞こえてきた声など無視して、私はもう一度、紙に綴られた文字を上から順に辿ってゆく。ひと文字ひと文字、穴が空きそうなほど食い入って。
けれど悲しいかな、幾らそうしても、書かれている文字はさっきまでとひとつも変わらない。名前の並びも、その横に記された数字も。それが現実だと、否応なく突きつけてくる。
「う、嘘よ……だって、そんな……裏で操作されていないと、こんなこと……。いや、もしかしてこれは……夢? それとも、幻?」
「夢でも幻でもなく、ただの事実だよ、リゼット。寧ろ小細工をしているのは、君の方だろう?」
嗚呼、神様――私には振り向かなくとも分かります。きっと今、彼の顔には満面の笑みが浮かんでいるだろうことが。ぱっと晴れやかで、眩いくらいにきらきらと輝く、そう、私が大好きだったあの、この世のものとはとても思えないほどの美しい笑みが。気配というか、オーラというか。いっそ神々しい後光と言っても過言ではない何かが、ひしひしと伝わってくるせいで。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。私はただ“魔法の指輪”を受け取っただけだというのに。何百年も前から存在するという、願いを叶えてくれる“魔法の指輪”。――それがまさか、“王太子妃選抜試験”の参加証だったなんて。あまりにも罠すぎる。
王太子妃選抜試験? 参加証?
何かの間違いだ。だって私は、しがない雑貨店を営む、ただの一般市民でしかないのだから。
この国には昔から、王太子妃を選ぶ際に試験を行うという決まりがある。もちろん参加をするのは、上流階級の選ばれし者――つまりは貴族の令嬢たちばかりだ。まかり間違っても、孤児院出身の一般市民が受けるような試験ではない。
ではそんな場所に、どうして私は居るのか。本当に不思議でならない。だが現に、私は王宮の一室に居る。本当に、本当に不思議な話だ。まかり間違っても、孤児院育ちの平民が受けるような試験ではないはずなのに。何度でも言うけれど、一般市民が受けていい試験ではないのだ。何せ、王太子妃を選ぶための試験なのだから。
私だって、屈強な兵士たちに引き摺られ、無理矢理馬車に押し込まれなければ、こんな所へは来なかった。今でも彼等の、同情の滲んだ顔を鮮明に思い出すことができる。憐れむのなら、見逃してくれたって良かったじゃない。
「見たくないのなら、破いても燃やしても、君の好きなようにしてくれて構わない」
あまりにも爽やかな、一滴の曇りも感じさせない朗らかな声に、私は目眩を覚える。彼は一体、何を考えているのだろう。爵位のない家の、いや、そもそも家族とよべるもののない女に試験を受けさせること自体、どうかしているというのに。
――指輪は、父から受け取りましたの。
――わたくしのもとへは、使者が届けにきましたわ。
試験が始まる前に、それとなく探りを入れてみたのだけれど。彼本人から指輪を受け取ったという令嬢は、何故か誰ひとりとしていなかった。その上、“魔法の指輪”について知っている人すらも、誰ひとりとして。
「……私を騙したの?」
壊れたブリキの玩具のように、ぎこちない動きで恐る恐る振り返る。そこにはやはり、穏やかに綻んだ、直視するのなんてあまりにおこがましすぎるほどの眩い笑みがあった。
その笑みも、艶やかなブロンドの髪も、澄んだ青空のような瞳も、更には口元にあるふたつのほくろまで、何もかもに見覚えがありすぎる。
当たり前だ。毎週欠かさず見ていたのだから。左から見ようが右から見ようが、たとえ上からだろうが下からだろうが、どこからどう見ても、その顔はヴィルその人のものでしかない。
ヴィル――ヴィルベルト・フォン・アイゼンハイム。この国の未来を担う、たったひとりの王太子。
まさかそんな高貴な人物が、市街地の外れにあるしがない雑貨店に来るだなんて、誰が想像できようか。
そもそも貴族でもない限り王族の尊顔など見る機会は殆どないし、肖像画すら市井には広まっていない。それ故に、名前は知っているけれど顔までは知らない、という市民も――特に貧民街には――多く存在する。
私も例に漏れず、その内のひとりだった。――奇天烈なもの以外に興味関心がなかった、というのは、まあ、否定はしないけれど。
「騙す? 人聞きが悪いなあ。僕は嘘を言った覚えはないけれど」
確かに嘘は言っていなかった――気が、する。“ヴィル”も偽名ではなく愛称であるそうだし、私も私で、彼に身分を尋ねることはしなかった。言動のひとつひとつに、洗練された気品が漂っているなと感じてはいたけれど。でも、貴族なのだろうと思う程度で、それに対し疑問を抱くことはなかった。
だって、夢にも思わないじゃない。王太子が自ら――しかも毎週欠かさず――店にやって来るだなんて。まだ貴族の子息だと考える方がよほど自然だ。
「でも、そう……指輪。魔法の指輪。あれは嘘だったのでしょう?」
反撃の要素を見つけて指摘すると、ヴィルはひょいと器用に片眉を跳ね上げ、それからくすくすと笑った。組んだ足に頬杖をつき、彼は悪戯っぽく首を傾ける。
「それも本当だよ。その指輪には、大昔に存在した魔法使いが、特別な魔法を施していてね」
「特別な、魔法……?」
「そう。僕たち王家の人間は、この国を創った英雄王の血を受け継いでいるだろう? その血を、そして彼の築き上げたこの国を絶やさない為に、その指輪は造られたんだ。王の伴侶となる資質を備えた女性を見極める導き手としてね」
そう言って、彼は椅子からゆっくりと腰を上げた。動きに合わせて微かに揺れたブロンドが、窓から差し込む陽光に照らされて、きらりと、小さな光の粒を弾く。
「願いを叶えてくれるのではなかったの?」
「ある意味で“願いを叶えてくれる”代物だよ、それは。王太子妃――未来の王妃の座に就きたい人間は、たくさんいるからね」
にやりとした笑みを口元に滲ませながら、ヴィルが悠然とした歩みで近付いてくる。一歩、また一歩と。少しずつ詰まりゆく距離についどぎまぎしてしまい、私は慌てて背中を向けた。今はまだ、近くで彼の顔を、見たくない。気を少しでも緩めた瞬間に、あの蒼穹のような美しい瞳に、忽ち吸い込まれてしまいそうになるから。ヴィルが、ただの“ヴィル”だった時と同じ様に。
「見てごらん、リゼット」
けれど、そんな私の心情などよそに、彼はぴとりと寄り添うようにして足を止めた。背中じゅうに、布越しでも分かるほど、ヴィルの気配が――ぬくもりが――ひしひしと伝わってくる。それだけならまだしも、肩越しに伸びてきた腕がすっと視界の端を掠め、私は思わずぎょっとしてしまった。
心臓が、うるさくてたまらない。こんなにも激しく脈打っているのは、どうしてだろう。恥ずかしいからだろうか。怖いからだろうか。それとも――。
いや、きっと怖いからに違いない。そうだ、それ以外にない。他に何があるというのだろう。
「指輪が認めた通りの結果が、此処に記してある」
そう言いながら、彼は伸ばした指先で、壁に貼り付けられた紙の上部を、そこに綴られた文字を、ひとつひとつ丁寧になぞる。その指には、私に渡したのと同じデザインの指輪が嵌められていた。薔薇の模様の彫り込まれた、年代物のシルバーリング。
「流石はひとりで店を切り盛りしているだけあって、経済学・財政学は群を抜いているね」
おかしい。筆記試験だった経済学・財政学は、どちらも答案用紙にデタラメばかり書いたはずなのだけれど。
「……何かの間違いじゃないかしら」
「君がわざとミスをしたのは知っているよ」
「えっ」
「宮廷にいる能吏たちの中から、選りすぐりを揃えたんだ。試験官も馬鹿ではない」
つまりそれは、彼等は全てを知っている、ということだった。店を営んでいることも、そして恐らくは、毎年提出している納税書類や帳簿の内容も――。
なんとなくだけれど、今私が蒼白になっていることなど、彼にはお見通しであるような気がした。顔を見られずとも、多分息遣いだけで。
「国外にも買付に行っているから、外国語も堪能で、交渉術にも優れている」
やっぱりそれも、おかしいと思う。外国語や交渉は実技試験だったけれど、私はどれも苦手を演じた。指定された幾つもの言語は、確かにどれも知っていたし、話せもしたが――いや、そうか。そうだ。検問所だ。私が出入国した記録くらい、役人たちに指示を出せばすぐに調べられる。もちろん、持ち込んだり輸入した物の記録も。
そもそも私は、真後ろにいる王太子本人に、直接色々話を語ってきてしまった。何処の国に行ったのか。そこでどんな素晴らしい品々に出会ったのか。それを買い取るのに苦労したことも、掘り出し物の知識を共有し合う友人たちが各国にいることも。どれもこれも、大事な思い出話として――。
もしかしたら彼は、初めから分かっていたのではないだろうか。試験に落ちたいが為に、私が意図的に小細工をすることを。だから予め書類を調べさせていたのではないだろうか。――でも、どうして? そこまでする必要が、一体何処にある?
「さ、作法試験は、でも、最下位よ……?」
「作法は身体が覚えるものだからね。これに関しては、社交経験の豊かな貴族の令嬢たちの方がどうしても優位になってしまう。ただ、あくまで覚えるものだから、今から学んでも遅くはない。君ほどの才能があれば、どうにでもなるよ」
そんなものだろうか。そうは思わないけれど。特に最後の一言は。
「歴史学も地理学も、申し分ない。元々、興味のある分野だったのだろう? 君は、新しい世界を知ることに、いつも目を輝かせていたから」
呆然としながら、私はただただ、指輪の嵌められた白い指を見つめる。
わけが分からない。どうして此処にいるのか、何故試験を受けさせられたのか。彼が私なんかに指輪を渡した理由も、そして、わざわざ書類を検めさせたのだろうことも、何もかも。ひとつも理解できない。
「どうして……」
ぽつりと、掠れた声で小さく独り言をこぼしながら、私は肩越しにヴィルへと目を向ける。青い瞳も、向けられる眼差しも、いつもと同じ様に穏やかで、とてもやさしい。こんな状況であるにもかかわらず。
「……指輪に、認められたから?」
「えっ?」
「資質があると指輪が認めたから……だからこうしているの? 資質が……ただ、それだけで……」
私は何を言っているのだろう。そう思うのに、言葉をとめることはできなかった。言えば言うほど胸が締め付けられて、息が詰まりそうだというのに。無性に泣きたくて泣きたくてたまらなかった。その衝動のまま、子どものように声をあげて泣くことができたら、どんなに楽だろう。
彼にとって、私と過ごしてきた時間とは、一体何だったのだろう。指輪も試験も資質も関係のない、ただお茶を飲みながらのんびりと語らい、笑いあったあの時間は。私は――私にとっては、かけがえのない大事な時間だったけれど。もしかしてヴィルにとっては、違うものだったのだろうか。
「どうしてか、気になる?」
こくりと頷くと、彼はゆっくりとひとつ瞬いた。どこか遠くへ思いを馳せるような、懐かしさに浸っているような、やわらかな面持ちをして。
「――僕は今でも憶えているよ。子どもたちに絵本を読み聞かせている時の、誰より楽しそうな、君の無邪気な姿を」
そう言いながら、するりと寄せた指先で私の髪を掬い上げると、彼はその毛先に、そっと、静かに口付けた。瞳は真っ直ぐに私を見つめたまま。唇の端を、僅かに持ち上げて。
「ねえ、リゼット。全てを知りたいのなら――その指輪を、受け入れてくれるかい?」




