三年半前、時刻3時24分。 「カルト・カントリー・ハイダウェイ」
ショーンが24歳の頃だった。
ちょうどデビュー作の「黄昏のマリーサント号」から立て続けに次の作品がヒットして経済的にも同世代と比べて余裕が出来始めた頃の11月。
ショーンはアメリカ西部の州、ネヴァダにいた。
というのも彼の亡くなった父の昔ながらの友人の娘の結婚式があるというのでラスベガスに招待されたのだが、普段なら断るところ懐に余裕があったショーンは招待を受けてアメリカを満喫することにした。結婚式に招待されるほどの関係でもなかったので、もしかしたら亡き父を招待しようとして、亡くなったことに気づいてからその勢いで自分に出したのかもしれないとショーンは想像した。聞くのも憚られたので実際のところはわからないのだが。
ベガスではギャンブルはやらなかった。というのもおかしな世界に迷い込みそうな気配をカジノから感じて、それを回避したかったからであった。カジノで妙な行動をとるのは彼からしてもいささか気が引けたのだ。
式はベガスのホテルではなく、そこから離れた山の麓にある場所を貸しきって行われた。知り合いも少なく、数人の人とちょっとした会話をして終わった。
そのまま特に大したこともやらずに、イギリスに帰る日が近づいてきていた。ショーンはせっかくアメリカまで来たのだから、せめてもう少し何かしたいと思った。
そこで車を借りて知らない街へ繰り出してみることにしたのだ。
出発前。
ホテルのロビーで結婚式で知り合ったスーザンという女性を見かけて話しかけた。彼女はずいぶん旅行なれしているようだったので、これから行ってみる場所について聞いてみようと思ったのだ。
ーああー……、一人で、見て回ろうと思うのね……、あのー水を刺すようで悪いけど。この国では本当に気をつけてね? 一人旅も、正直おすすめしないかな、あ、いえ! もちろんいいのだけどね。私もよく一人旅するし、でも気をつけて。
彼女は酷く歯切れ悪くそう言っただけだった。
スーザンがわざと縁起でもないことを言ったようには思えなかった。ショーンは彼女がショーンの知らないアメリカの事情でも知っているのでは? と思って不安になった。治安が悪いのか、それともショーンが預かり知らぬ犯罪手口に引っかかりそうだとか……。結局、不安を抱きながらもすでに彼の足は車に向かって行き、その勢いのまま出発してしまうのだが。
***
携帯で地図を確認しながら、ただ当てもなく走っていた。
時刻は11時を回っていた。
太陽は高く、空は青く澄み切っていてどこまでも繋がっているように広かった。いつまでも車で走っていても、仕方ない。彼はどこかで車を停めようと思った。
ショーンはやることもないし、ただ色々な街や景色を見てまわりたいだけなのだから、夜になったらバーにでも行ってそこで客や店の人間におすすめのモーテルでも聞くか、もしくは先に携帯でレビューの悪くない場所を探して泊まれば良いと思っていた。
携帯で商店が多少集まっている区画を見つけて、そこへ向かった。
交差点の近くにファストフード店が2つ。聞いたことのあるやつと、まるで聞いたことのないような名前の店。両方ともバーガー屋だった。停車した場所の目の前には日に焼けた看板のフィッシュ&チップスの店に、熱帯魚や水槽などを売っているような店に、酒屋。
適当にぶらぶらと歩いていると、労働者だと一目でわかる作業着を着た男たちとすれ違った。一人は目が座っていて舐めつくような視線でショーンを見てきた。若干の不快感を覚えつつ、あたりを見回して昼飯はどこで食べようか。とショーンは考えていた。
向かいにはメキシカンのレストランもある。
先ほど通り過ぎていった妙な視線の男の後ろ姿を見ると、その男から半透明な残像が出てきて、誰かをナイフでなん度も刺しているように動いて、数秒してそれが消えた。
「何の世界と重なったんだ? あいつが実際にこの世界でやっていることじゃなけりゃいいが……」
目を細めてみようとすると、70mほど向こうで信号を待っていた、その男が突然振り返り、ショーンを見てきた。遠すぎて、睨んでいるのか、互いに目が合っているのかもわからないが、顔の向きを変えて目を逸らしておいた。
不気味なやつだ。それとも俺が気にしすぎか? がショーンがこの時思ったことだった。
結局ショーンはメキシカンで昼食をとることにした。
レストランではラテン系の妙齢のウェイトレスとオーナーらしき老人二人だけが見えた。キッチンの中にはもっといるだろうが、客は少なく静かな店だった。中の空気はひんやりとしていて冷凍庫の扉を開けっぱなしにしているんじゃないかと心の中で想像した。
初めてアメリカで食べる本格的なタコスを食べ、予想外に満足していると客が入ってきた。
愛想の良さそうな中年と格好つけた20歳くらいの青年だった。中年の方は白髪に黒髭。貼り付けたような笑みを浮かべて店主に挨拶していた。どうやら知り合いらしい、地元民だろう。
格好つけた青年はポケットに手を突っ込み、パンツはパジャマのパンツのようで足は軍用ぽいブーツ、上半身はボロいジャケットを重ねて来たような出立だった。髪型は10代が好むような格好つけたアニメか、ゲームの主人公のようだった。色は病的にまで白く、ポーカーフェイスだった。嫌に格好つけたオタクの引きこもりのようなやつだ……、というのがショーンの感想だったが、その時はさして気にも留めなかった。
昼飯の後は退屈だった。特にやることもなく、小さなスーパーマーケットに入って飲み物と雑誌を購入して車の中や、車が嫌になったらカフェを探してテラス席で雑誌をペラペラとめくって過ごした。気が乗ればPCを取り出して執筆もしたが、電源が心許ないので長時間書かないようにした。
夜になって、それなりのレビューのバーに向かおうとしたが、ちょうど近くにモーテルがあったのでそこの部屋をとって車もそこに置いて歩いていった。目当てのバーは1ブロックほどの距離だったので6分ほどでついた。
店に入りカウンターに座り、ジントニックを注文した。あまり美味くなかったが、次はウィスキーでも頼めばいいと思ったところで、せっかくアメリカなのだからとバーボンでおすすめはあるか、とバーテンに聞くといくつかお勧めされて、そのどれかにしようとした時、「これはバーボンではないですけど、これもうまいよ」と言ってクラウン・ロイヤルのノーザン・ハーヴェスト・ライを指差した。
昔父の友人が好きだと言っていたウィスキーだった。
ショーンはそれを飲んだことが無かったので、それに決めた。ノーザン・ハーヴェスト・ライはライ・ウィスキー特有の苦味があって、加えて石油臭さのようなものも感じたが、これがウィスキーで言うオイリーさ。と言うものなのだろうかショーンはよくわからなかったが。もう一口、もう一口と飲んでいくと、それを含めても相当に美味いウィスキーだと認めることになった。気に入ったショーンがもう一杯注文すると……
——店内が騒がしくなった。
赤毛のショートカットの女が他の客、主に中年から初老の地元民、おそらくは常連たちに威勢よく喋っていた。
ーもう! まじで、私は金が必要なの! みんないい? 今から紙に書いてもらった計算を左手でお手玉しながらするからね!? よかったら小銭でもなんでもいいからチップを頂戴よ!
堂々とした女だった。歳のころは24歳のショーンと同じくらいに見えた。動きやすそうな格好で軍用のジャケットに軍用のパンツにブーツ。ジャケットを脱ぐと紺のTシャツで真っ白な腕があらわになった。左腕の内側に見たことのないようなタトゥーが入っている。歯並びの悪い歯が並ぶ口がついている木のタトゥーだった。手の甲にも悪魔が醜悪な歯並びの口で舌なめずりしているタトゥー。一度見たら焼きつくようなデザインだった。
女は嫌そうにするおジジたちにハッパをかけては金が必要なんだ、と偉そうに訴えてはジャグリングしてはどうでもいい適当な計算を披露する。常連客も苦笑いでタジタジだった。店主は特に止める訳でもない、まぁ若い女がなんか頑張って何かしようとしてるだけだろう。大したことじゃない、と言う感じなのかもしれなかった。
ーねぇ、あんたもさ。金ないわけ? 私さ、必要だって言ってるでしょ?
そして、ついに赤毛の女はこっちにまでやってきた。