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時刻19:34。「ジャグル・グル」

 


 とある扉はノブを回しただけでは開かない。


 とある言葉は声にしただけでは聞こえない。


 とある地は歩いているだけでは辿り着かない。


 人間の本能は時として、それを知っている。


 人も自己を自己として。自身を1個人と認識していた記憶、アイデンティティを無くした時に、自と他というものが、どれだけ脆弱で脆い崖の淵の上にいたのか、と感じる羽目になる。そして安定した境界があることに私は感謝する。


 腹一杯のショーンが夕食を抜いて、代わりに書いた日記。



 ***




 闇の中、風が吹いていた。


 卵型の宝石が額の真ん中に埋め込まれている男がいた。


 男はひどく虚な顔、濁った目をしていた。雰囲気は修行僧か、または修練の途中で人の理から外れてしまったもののようだった。闇に包まれて、地に足がついているようには見えない。


 周りからは英雄と呼ばれていて、またそのように扱われていた。


 目の前にそんな人間離れした男がいて、自分と対面に浮遊するように座っていて、真っ直ぐにこちらを見ていた。


「──何見てるんだ、この野郎」


 思わず、ショーンは口にした。鼻腔と、口の端が曲がっていたかもしれない。ショーンは鼻の奥がむずむずしていた。左の鼻腔が詰まっているような気がした。


 男の左手には黄色い薔薇の造花が柔らかに握られていた。それを見るや、ショーンは己を呪い、そして沸騰してしまうような怒りを覚えた。


 この偽物野郎め。そんな言葉が浮かび上がってきた。


 この男の、今は目を瞑り、達観し、悟りきったかのような仮面の下に、──猿が見える。


 犬でも獣でもいい。随分盛りがついていながらも、よそ行きのこの仮面を被った男はショーンの脳裏では、嫌がる女を組み伏せては、ニヤけヅラで舐め回している猿だった。


 我慢のならない男が目の前にいる。たった今現れた男が憎い。


 しかし自分は、こんな男は知らない。どうでもいい、関係ない。そのはずだ。


 なのに、自分はどうしてしまったのだろう。ショーンは思った。



 ー我は獅子である。


 額に卵形の宝石を持つ男が言った。


「……何を言っているんだ、気でも触れているのか?」


 ー我を愚弄するか?


「──獅子ならば俺と喋るな、いい加減にしろ……。この人外の超能力者の神秘主義者のフェイク野郎」


 ーお前は、世界の秘密を知った。


「──そんなもの知らん。それよりも殺してやろうか、今すぐにだ。ゴングを鳴らしやがれ」


 ー天使のリングは見つかったらしいな。そして生命の樹には根があること。


「──逃げるなよ、弱っちい獅子め。本当は猿なんだろうが」


 ー物質界が根となり、精神世界が幹となる。その逆もまた然り。悪は武器となるが、順位を下げる、善は鎧となるが、難易度は上がり、損しやすい。しかし精神世界での順位は上がっていく。


「──黙ってろ、殺すぞ。卵の宝石に脳みそを破壊されているのか?」


 ー物質界で悪行を働けば、精神界での位は下がり、しかし悪に対処できなければ、位をあげることもできぬ。


「──うるさい、要は何にエネルギーを使うかだ。資源は今世だけ、どれだけ金持ちになろうが、頭が良かろうが。何も持ち越せないのなら何かにつかわなくてはいけない」


 ーその通り、しかし境界が曖昧な世界では何一つとして為すこと叶わないだろう。



 幾重にも掛け合わされる、意味のない言葉の応酬はショーンを限界まで苛立たせていた。




 @@@




 一体何が起きていたのかを知ったのは明け方だった。


 明け方の港町にいた。


 電柱にリードを繋がれて、キャンキャンと吠える子犬がショーンに目を覚ますようにいうのだが、ショーンは気が付かない。夢遊病患者の如く彼はトレードマークのハートのクイーンのカードをセロハンテープで左頬に貼り付けて、ご満悦だった。


 (ショーン!起きろ! 起きろって!)


 犬が吠え立てるが、ショーンは手鏡の中の自分にしか興味がなかった。


 そこで、今度は犬が吠える対象を変えた。


 (やい! ショーン! しっかりしろ! お前の意識と体が、この犬と入れ替わっていることに気がつけ! 気づいてくれ! 思った以上にここはやばいんだ! 永遠にぐるぐるしているんだって!)


 最初、ショーンはショーンだった。しかし、次にショーンの意識は犬に宿った。次には犬の持つリードに移動し、犬の意識はショーンに入り、と頭がこんがらがるように目まぐるしく意識が変わったのだが……


 この犬こそがショーンであるのに、ショーンは様々なものに吠えたてては自身が目覚めてくれることを祈る、「何者か」になっていた。


 犬となったショーンは焦る。


 またショーンの意識がどこかへと映ったのではないか。


 自分は間違って、違うものに吠えているのでは? 


 だから目覚めないのでは? 


 ショーンは、誰だ?



 @@



 真っ暗な部屋。


 ベッドの上で胡座をかいて腿の上にノートPCを置いて、何やらずっと書き込んでいる男がいた。よく見ればその男のPC画面に書かれている言葉は──


 そのまま、↑の文章そのままだった。


 ここにきて、今これを認識している私がショーンであること。


 その可能性に気がついたが、次の瞬間には私は──


 この男を眺めている誰かから、男自身になってしまっていることに気づき、何かの助けになるかもしれない。その一心でタイピングを始めて今、これを書いている。これを読んでいる誰かが、願わくば私と同じ目に遭わないように、書き記している。


 タイピングしている音に水の音。小川の清流の音や、雨の音、雷、ポッサムの鳴き声。犬の鳴き声。様々な音色が混じり始めていた。


 何かがシフトするぞ、男が書き込み始めていた。誰か知らないが、慣性を殺すことなく、私はベッドの下にいて、かわりの誰かが、タイピングする男になっていた。


 *


 音が聞こえる。


 鳥の鳴き声に、謎なドラム。ジャングルの奥地だった。


 探検家のような老人がジャングルを歩いていた。大きなカイゼル髭に石柱のような顎ひげ。チキンレッグだが、決して鍛えていないわけではない。


「──333!」


 聞き耳を立てて、皆にも注意を促すようなジェスチャーをしてから、男はスリー!スリー!スリー!と3回言った。


 平穏がもたらす不安は侵食する真昼の闇であり、悪とはつまり、善悪の光と闇でいう闇ではなく──闇を作り出す仕切りであるが、この男にとってはこれからやって来る混沌こそが、己と現世を繋ぐハーネスだった。混沌が安定をもたらしてくれる。ただ直感的にそう信じてコンフォートゾーンを抜け出した。


「方向性さえあってれば。それだけあっていればいいんだ……」


 ぼそぼそと呟く男は今自分がいる場所に、なぜ人がいないのかを知ろうとしない。外部からの刺激と内からの発見が男の土台だったからだ。


 そして、「知ろうとしない」は「見ようとしない」だった。


 それは影を産み出す仕切りとなる。


 ジャングルが暗くなる。


 悪が男に追いつこうとしていた。



 @@@



 ジャングルを脱出しようとして、道なき道を突っ切るように歩いていた。


 もうどの位前からだろう。何かが自分を後をつけていているのをショーンは知っていた。己の前にも男がいて、そいつもショーンがつけていることを知っているような気がした。


 見ないようにすればするほど、自分がナタを振り回してでも、この追跡者を逆に襲うべきだという考えが湧いてきた。黒い影が潜んでいるのだ。それが自分の背後、伸びた影から食べ始めてしまうのではないか。不安でたまらなかった。考えないようにすれば暴力的なカードが手札に現れ、見たくないものを見ようとすれば、落ち着かない。と知っているわ、そんなもん!と怒鳴ってやりたくなるようなことを告げるだけのゴミのようなカードが手札に入る。


 いつの間にか、手にマチェットを持っていた。


 そこでふと冷静になった。こんな時の原則を自分は知っていると思った。


「ショーン、堪えるんだ。ネガティブな感情も長くは続かない、こんな時はただ眺めて、時間を数えろ。20数えてから感情をみるんだ。その後は今に集中していく、方向性だけ確認しつつだ。ここが正念場だぞ」


 嫌な感情をもってしまったら仕方ない。受け止めながら、それを見ないことはしないようにしてみた。すると、黒い影の幻影が心から去った。手元にはもうマチェットは無くなっていて、手札には冷静に全体を見渡すための目が配られていた。


 ジャングルの中。たまたま見つけた滝の裏に洒落た内装のカフェを見つけて、立ち寄ることにした。普段見かけたこともないし、前を進んでいた何者かも、いつの間にか見失った。もしかたしらココで休憩しているのかもしれない。

 

 目的地は近い、そのような感覚が来ていた。


 入ってすぐに店内の照明具合が気に入った。


 センスのいい店内には3人の老婆しかいなかった。それ以外は、その老婆よりも二十歳は年下であろうウェイトレスが4人もいて、カウンターの奥でお喋りをしていた。


 座ると、洒落た見た目の椅子はひどく座り心地が悪く落ち着かない。ここで、でて来る料理も見た目だけ良くて味が最悪なのでは、と連想して不安になった。


 ブレクファストクラブ・トースティ・ジャングルという訳のわからないメニューをみて、注文する。注文して数分経つとコーヒーと共に、汗をハンカチで吹きながら妙齢のウェイトレスが、「あと8分でジャングル・トースティお持ちいたしますねー」と緊張した面持ちでいった。


 なぜ、わざわざ時間まで言ってきたのか。

 普段は3、4分で出来るものが何かしらの理由で遅れるので、まだですか、と文句を言われる前に一応告げたのかもしれない。


 別にショーンとしては客にそう告げたことで少し気が楽になったので、それでよしとしてカウンターに戻って行った。客の男は間違いなく、ジャングルで自分が追っていた男だった。こいつの目的が何かは知らないが、自分はこのジャングルから出なくてはならない。電柱に括り付けられた犬を助けるためにも、諦めるわけにはいかなかった。


 妙齢のウェイトレスたちは「男手があると助かるわ!」と言っては重たいものを運ばせようとするのが追跡においてはもっとも厄介で邪魔な出来事だった。そろそろ何を頼まれても面と向かって断り、怒り剥き出しにして見せる必要があるのかもしれないと思いはじめていた。


「俺はお前の自由に使えるリソースじゃない」


ショーンは女にそう言うと、女は挑発的な顔に変わり、それ以上怒れるのか見せてごらん? というような態度に変わった。


 無視して、話しかけるな。とだけ告げて、一才の協力をしなくなると、他のウェイトレスたちが追従し、その女は一人ぼっちになって泣き喚いた。


 許して欲しいと言うので、お前の給料で俺の時給を3倍にしろと言うと、必死に女はうなづいた。


 その後もショーンは妙齢のぼっちなウェイトレスを無視したが、少なくとも女はしおらしくなった。


 泣いた女の気分転換と模様替えのために観葉植物を何度か移動させられていると──


 客の男が席を立ったので代わりに座った。


「マキアート1つ」


 ーかしこまりました。


 先ほどまでウェイターに指示を出しては、観葉植物を撫でていた別のウェイトレスが注文をとりにきて、ブレックファストメニューも見せてきたが、腹は一杯で何も食べたくはなかった。そもそもこの店は本当に全てが、見た目だけであり、料理もまるでおいしくなかった。


 見た目だけ良い人間というのは、それだけで他者にも益にになる。恋愛相手だったらいいだろうし、子供や親でも悪いよりは気分がいいだろう。少なくとも絶望的な人間性でなければ。しかし、見ただけの食べ物というのはどうにも頂けない。なんの味もしない、食べ物。残しはしないほどでも、2度と頼まないような料理はたんなるの怠惰の産物だろう。


《こんなくだらない、それっぽいことを言っている場合じゃないぞ。ショーン》


 どこからか、声が聞こえた気がする。

 

 早く、ここを出て追いかけなければ。


 焦りと言いようのない苛立ちに襲われながらマキアートを飲んだ。


 携帯を取り出して、メールをチェックする。


《新着。ショーン・ベッカー。現在1214位》


 うんざりした。


 一体何の順位なのか。一気にマキアートを飲み干して、たいして旨くもないジャングル・トースティをありがとう、と旨くもないの部分は言わずに礼を言って出ていく。


 店をでると大雨が降ってきて、アスファルトの道路を急足で駆けていくと、電柱にリードを繋がれ、濡れながら飼い主を吠え立てている犬を見た。


 あれが自分だ! あの犬が自分なのだ! 強烈な思いが湧いてきた時に、今の自分はここにいること。戻るべき体、そして世界を思い出した。


 現在の自分の順位は1214から1000にまで上昇している。


「だめだ、まだここから抜け出すための順位が足りない!」


「せめて100位にはならないと……」


 犬をまずは解放する。そして、横の飼い主の誰かの頬を軽く叩いて目を覚まさせる。


「998、999、1000!」


 >>1000までパワーが溜まりました!


 不思議な声が聞こえた。


「うぉぉぉぉー!! うわぁぁぁー!!」


 雄叫びを上げながら、気を解放すると、自宅のトイレにいた。



 *



「ここ数年で一番きつい世界だったかもしれない、精神がゴリっゴリに削られた……、2度と迷い込みませんように」


 ショーンは用を足しながら、真剣に願った。




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