時刻、午後4時45分・見知らぬ通りと暖かい家の老婆
街灯もまばらな暗い夜道。
住宅の塀に背を預け、両手を吐く息であっためている男がいた。浮浪者のようであったが、よく見れば手の中には紙袋があり、中は明滅していた。
それは輝く蒸気であり、浮浪者はそれを吸い込んでいたのだった。
普段から人気のない通りを、この浮浪者の存在がよりこの世から隔たりのあるもののように感じさせた。
少なくとも、その路地に足を踏み入れた男、ショーンにとっては……
無人の夜の路地のその光景はまさしく非日常への招待状であり、異界へと続く扉であった。
ショーンは足早に塀にもたれる浮浪者に気付かれないように路地を通り抜けようとした。
ここを通らなければならないのだ。迂回している時間はない。
足を速めれば、手の中の光を吸い込んでいる浮浪者の注意を引くと思い、やや遅めの足取りで歩く。
と、何かに見られているような。いや、目に何か映ったと思い塀に目をやる。
塀には目があった。目が合った。
ふざけているわけでなく、人間の目が壁についていたのだ。夜に紛れ本来この世にあるべきでないものが侵入してしまった。
鼓動と焦りが競うようにショーンの内から出てきた。
初冬の身を切り裂くような寒さの風が、かじかんだ指を震えさせる。
何か声を出さずにはいられなかった。
咳払いをして、「えーと確かに、こっちだったな」などと一人言いながら通り抜ける、ホームレスが反応して何か喋りださないかが心配だった。
運良く通りを抜けると景色が変わった。
そこは夜の牧草地でチラホラと歩く人間もいて、何故か皆、頭部が光り輝いていた。歩き方もおかしい、まるで普段から歩いていないようなぎこちなさで、星空の下を散歩している。
地面に生えた草の中には疎らにニョキと伸びたカタツムリの触覚のようなものがあり、それは蛍光灯のように光を放っていた。この人間たちの頭よりは明るくは無く、落ち着いた光だった。
まるで初めてみた光景、場所なのにショーンは懐かしく感じていた。そうだ、ここで自分は生まれたのだ。
いつの間にかそう思っていた。
歩き続けて、夜の牧草地を抜けた。
そう思った時には夜の街に戻ってきていた。ショーンは先ほどの光る蒸気を吸うホームレスがいる通りを抜けたばかりの場所に立っていたのだ。
夜更け過ぎだったが通行人は居て、彼らも先ほど同様、普通ではなかった。
行き交う人の帽子が全て生き物の頭部なのだ。殆どが動物だが、人間のものもあってそれは一際不気味に見えた。またそこを行く人々の服は時折雲だったり、オーロラであったりした。
「なぜ皆してこんなものを被っているのか……」
独り言のように言ったが、その実誰かが答えてくれることを期待して声に出した。
一人の豚の頭部を頭に被った人間が足を止めて、ショーンを見たが、一瞬だけ思案したような顔をしてすぐにまた歩き出していった。
目眩がして、瞬きを連続でした時……
全てが元通りになった。
ショーンは自分が壊れたのではないと知った。
時折、あの別の世界が重なって見えたからだ。この認識がショーンをショーンたらしめ、より重なった世界での生き方を助けるだろう。
ショーンはこれから先自分の見ている世界は増えるだろうな!と思った。そして自分が死す、その時には幾つになっているだろうか。そう思うととても嬉しくなった。
彼は急いで、目的に家にまで行き、勢いよく扉をノックした。
暖かいランプの光。
家の中は魂まで出ていって暖炉の前で寝てしまいそうなほどに暖かい。小さなカーペットの横で根すべる老いた猫が、ショーンを見て「私は敵ではないよ」という具合に目をゆっくりと閉じては少し開けるのを繰り返した。
ショーンも同様に猫の方を見てから、目を瞑って見せて「俺も君の敵になる気はないよ」と気持ちを返した。
扉を閉めると、猫がやや状態を起こして、こちらへ向かおうと迷うそぶりを見せて、結局やってきて口の端をショーンの足に擦り付けて優しく鳴いた。
猫を撫でていると、階段から家主が現れた。
「私にやられたことをやり返しているのかい?」
誇張されたキャラクターのような顔の老婆が出てきていった。
「そんなわけありません」
「ほう、なら届け物と要件を言いなよ」
否定すると意地悪な顔で老婆が返す。
ショーンは自分の要件を知らなかったので、ポケットから安っぽい鍵を出して、それを老婆に渡して、あとは黙りこくるしかなかった。
老婆はショーンを見て、途端に不安そうになって——
「おぉ、おぉ、大丈夫さね。気にすんじゃないよ、さっきのことは。今の私は余裕がないからね。なんせ呼吸困難で病院さ。ずいぶんしみったれた最後になるかもしれない、最後にあんたの顔が見たかったなぁ」
「じゃあ病院に行くべきだったかな」
「いいや、入れてくれないんじゃない? 別にいいよ、それに私は恥ずかしがり屋だから、旅立つところは見て欲しくないものね」
「そっか、悪いけど、気が楽になったかも」
「悪くないよ、あんたの良いようにしな。来週のあんたが少しだけ感謝するようにね。あと人助けをする時は何も気にせず、躊躇せずにね」
「ああ、わかったよ。グラニー」
老婆は暖かい笑顔になって消えた。
気がつくと、初冬の真昼の公園だった。最初日差しは爽やかな程度にはあって、すぐに曇りに変わった。
ボロアパートに帰宅し、荷物を置いたショーンはベッドに高跳びの選手のように飛び込んで目を瞑った。
「今日は見知らぬお婆さんの魂に招待された、少し疲れたけど話せてよかったかもしれない」
ーでも、やっぱりちょっと疲れたな。
一人そう言ってショーンは眠りについた。