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一文無し

変わらぬ毎日を無気力に生きるのと全てを捨てて死ぬのってどっちが幸せなんでしょうね

都市部から遠く離れた工業地帯、豊はいつも通りの帰路についていた。

疲れたとか早く帰りたいとか考えるほどの気力はとうの昔に消え失せ、ただプログラム通りに動くロボットのように我が家へ真っすぐ向かっていた。疲れからか最近目がかすみ、街灯や通り過ぎる車のヘッドライトがイルミネーションのように瞬いて見えていた。しかし今日の帰路は一段と酷い。目の前のものを確認するのがやっとで後は光を確認できるほどしか豊の目は見えていなかった。疲れ切った豊とはいえ、これはまずいと思い一瞬立ち止まったが、今日やることと言えば人通りのない帰り道をいつも通り歩くだけ。豊は考えるのも面倒に感じ、すぐまた歩き出した。しかし今日に限ってはいつも通りの帰路とはいかなかった。道中通る川に架かるT橋。いつもなら何を思うでもなく通り過ぎるだけの小さな橋。しかしどうしたんだろう、豊はT橋で立ち止まり、すぐ下の川を覗いてみた。豊は自分自身の行動に驚いた。なぜ自分はなんてこともない川を覗いているのだろう。覗いたところで何になるというのだろう。ただでさえ目がほとんど見えていない豊には、覗いたところで川がサラサラと流れる音が鮮明に聞こえるだけ。なのに豊にはこの小さな川がとても魅力的に見えた。曇り空で月が出ていない夜、川は映すものを探すかのようにユラユラ蠢き、誰か来るのをずっと待っていたかのようだった。川に入ろう、その考えが豊を支配するのにさほど時間はかからなかった。自分でもわからない。なぜ自分は川に入りたいのか、ただそんな疑問よりも魅力的に蠢くこの川と早く一体になりたいという欲求が豊を突き動かす。持っていた鞄を下ろし橋の欄干に手をかけた時、ふと足元が気になった。なぜ自分は川に入ろうというのに靴を履いているのか。なぜ靴だけに異様に意識が向き、服を着たまま川に入ることには抵抗を感じなかったのか、夜中に川に入ろうという酔狂な真似をしておいて律儀に靴を脱ぐというのはどういう了見なのか。とにかく豊は靴と靴下を脱いで並べ、今度こそともう一度、欄干に手をかけ川を覗いてみた。するとどういうことだろう、ついさっきまでほとんど見えていなかった目が川を覗いた刹那、嘘のようにはっきり見えるようになった。豊は慌てて周囲を見渡すが、周りは先ほどのようにほとんど見えない。もう一度川を覗くとやはりはっきり見える。この事実を確認した豊にはもう、川に入らないという選択肢は完全に消えていた。もう一度欄干に手をかけ、次に足をかけついに豊は川に飛び込んだ。川に飛び込んだ直後、意識がまだはっきりしていた豊はどれくらいの時間入っていようか考えていた。3日か1週間か1ヶ月か。普通の人間から見たらまともに見えない時間だが、豊は気を失うその時までそんなことを大真面目に考えていた。

気を失った豊が次に目を覚ましたのは薄暗い川岸だった。はてここはどこだろう、そんなことを考える前に豊のいつからかはっきり見えるようになった目に変な景色が浮かんできた。そこには二組に分かれて川に向かって列ができており、その列が向かう先にはそれぞれ木船と船頭らしき人間が誰かに操られているかのようにその場に無情に突っ立ち、順番が来た人間が船頭らしき人間に金を渡す。すると金を渡した人間が雑に木船に乗り込む。木船に乗り込んでいる人間はみな無表情だったが、どこか晴れやかな雰囲気をまとっていた。一方、金を払えなかった人間もいるようで、そんな人たちはみな一様に船頭に縋り付いていたが、船頭が豊のいる方向に指をさすと諦めてこちらに向かってきた。こっちに何があるというのだろう、豊はそんなことを考えて振り返ると豊の背後に大きな川が不気味に流れていた。すぐに自分はここから流されてきたと豊は悟ったが、すぐに1つの疑問が浮かんできた。はて自分の入った川はこんなに大きかったかしら、下流に流されたとしてもこんな場所に流れ着くものなのだろうか、と。すると船賃を払えずにこちらに向かってきた人間が次々と豊の背後の川に飛び込んでいった。飛び込んでゆく人間の横顔は木船に乗り込むことができた人間たちのように一様に無表情だったが、どこかすべてを諦めたような雰囲気を感じさせられた。さて自分はどうしよう、一通り観察した豊に当然のように浮かんできた考えである。普通に考えれば自分は背後の川から流れついてここに来たのだし、船賃を払えなかった人間のように飛び込んで帰ればそれで済む話だ。しかし、豊はこの川には飛び込みたくなかった。なぜと聞かれたらあの帰路の途中の川に飛び込んだ時のように答えることはできない。豊の体は自然と船頭の方へ並ぶ列へと向かっていた。料金がいくらかわからなかったが、木船の乗船料金などたかが知れているだろうと深くは考えず、ぼーっとしていると順番は案外すぐ来た。船頭の背後の木船には満員電車のように所せましと無表情の人間が詰まっており、普通ならとても乗りたいと思えない船だったが、それがむしろ豊にはひどく魅力的に見えた。船頭が豊を一瞥すると不愛想に手を出す。船賃を求めているのだろう。おいくらでしょう、豊が聞くと船頭はボソボソと同じ言葉を繰り返す。やっとのことで聞き取った船賃は6文だった。現代社会において文なんてお金は当然ながら使われていない。しかし豊はやはりそんなものかとしか思わず、いつも財布を入れているズボンのポケットに手を入れる。しかしそこに財布はなかった。しまった今日に限って鞄に財布を入れていたんだ、しかもその鞄は豊が川に飛び込む前に橋に置いて来てしまっている。こちらが6文払えないと見ると、船頭はぶっきらぼうに豊がさっきまでいた方向を指さす。いつもの無気力な豊なら黙って指示に従っただろう。しかし、豊は気が狂ったように船頭に縋り付いた。お願いします乗せてくださいお願いします…と。繰り返し繰り返し同じような文句で懇願するが船頭には何も響いていないようだった。どんなに豊が頼んでも銅像のように豊が元居た場所の方を指さすだけで、そこに何の感情も無いようだった。これ以上やっても醜い姿を晒すだけと悟った豊は諦めて元居た場所へ引き返すことにした。途中、船頭の方を振り返ると満杯となった木船が出発するところだった。なぜあんな木船に乗るためにあのような柄にもない頼み方をしてしまったのか、豊は自分でも分かりかねたが乗客に対して羨望の眼差しを向けずにはいられなかった。例の不気味な川に戻ってきた豊だったが、どうしても飛び込む気になれない。しかしお金が無く船も行ってしまった豊には、この川に飛び込む以外の選択肢は残っていなかった。豊は大きなため息を一つつくと、諦めたように川へと飛び込んでいった。

豊は最初に飛び込んだ川の中で目を覚ました。なぜ自分は川の中にいるんだという疑問が頭の中を渦巻いたが、まず助かることだけを考えて必死に泳いだ。何とか川岸にたどり着き、橋へと戻ると置いておいた鞄の中身がほとんどぶちまけられており、中に入れておいた財布が盗まれていた。幸い無事だった携帯で時間を確認すると、飛び込んでから15分ほどしか経っていなかった。あれだけ色々なことが起こったのに15分しか経っていないというのは変な気もするが、びしょ濡れで疲れ果てた挙句財布まで盗まれた豊には帰ること以外考えられず、そのまま家へと向かい、到着するや否や服をすべて脱ぎ捨て、泥のように眠った。翌日、豊は昨日の出来事を考えながら職場へと向かっていた。あそこで財布を忘れずに船賃を払えていたらどうなっていただろう。この無気力に過ごすだけのつまらない人生を変えられたのか、あるいは終えることができたのか。元を正せばなぜ急に帰る途中に川に飛び込みたくなったのか。そんなことを考えながらいつも通りT橋を通る。下を流れる川は誰かを待つかのように穏やかに朝日を広げていた。

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