前
「あなたを愛することはない」
「先生。……いえ、師匠ですね。師匠!」
「ん?!」
彼は突然師匠と呼ばれて面食らった。
彼女は大真面目に質問した。
「愛することはない、との御言葉からわたくし推測いたしました。愛することはない、と否定できるからには、師匠、師匠は愛するということがどういうことか、知っておられるのでしょう」
「うん?」
「師匠!愛するとは、なんでしょうか。教えろください」
おかしなことになった。
彼と彼女は、本日政略結婚した男女である。初めて顔を合わせたのはつい数時間前という男女である。そして今は夜、寝室でのことである。
彼のほうは、先生でも師匠でもなく、領主であった。彼女のほうは、昨日まで貴族の娘で生徒でも弟子でもなく、今日から領主夫人であった。
「あなたは、何を言っているんだ?」
「何、と言われましても。師匠に質問しただけですが。わたくしの知らないことを知っている、それすなわち師匠」
「私は弟子などとらな……いや違うな、なんでもない。とにかく、私が言いたいのは、三年後に離縁するまで、あなたとは白い結婚を貫くということだ」
「師匠」
真剣な視線同士がぶつかった。
「師匠。わたくし、本で読みました。男性は……いえ女性も、愛がなくても性交はできると」
「ゴフッ」
「愛することはない、というのと、白い結婚はイコールではないようなのです。ですから」
「あなたは何を言って……いや、いったいどんな本を読んでそんな結論に至ったのだ」
「師匠も興味がおありですか?題名はたしか『没落令嬢は暁に堕とされる 〜鬼畜閣下の淫らな「聞いた私が間違っていた」」
声がかぶった、あげくの、しばしの静寂。
「…………」
「…………」
「とにかく、三年後には離縁する」
「でしたら師匠。なおさら、わたくしは愛するということを知らねばなりません。実家に戻されたらわたくし、きっとまたどこかに嫁がされますから。知らないまま再嫁して、うまくいくとは思えませんわ」
「……なる……ほど……?」
「師匠は、御存知なのでしょう?愛することとは、なんでしょうか。聞かせてくださいませ」
「愛するとはつまり……いや待て、そもそも!あなたはなぜ、えーと、そういうことを知らないのだ」
「師匠。むしろ、なぜわたくしが愛を知っていると思うのですか?」
「なぜって」
「わたくしはどなたかと交際したこともありませんし、じつは妾の子です。庶子なのです。母のことはもう薄っすらとしか思い出せません。わたくし、家の駒として育てられて、愛とは縁遠いのです。本邸の父と奥様と異母兄はわたくしを疎んでいて」
「察した。それ以上は言わなくていい。あー……私も、上から押しつけられた結婚とはいえ、釣書くらいは把握しておくべきだったな。悪かった」
「師匠が気になさるほどのことではございませんわ。たぶん、よくある話ですから。わたくしが読んだ本の中にもありましたもの。題名はたしか『虐げられた聖女は追放先でもふもふたちと幸せスローライフを送ります! 〜今さら戻ってこいと言わ「あなたの読書に偏りがあることはわかった」」
コホン、という咳払いはどちらのものだったか。
「わたくし、教えていただけないのでしたら、師匠を見て知ることといたしますわ。職人の世界では、技術など見て盗めと申すそうですし」
「うん?」
「師匠には、愛人のかたといつも通りにイチャついていただければ。わたくし、お邪魔でないように遠くからオペラグラスで観察しますから、それで愛するということを学べると思うのです」
「どこからツッコんでいいかわからないのだが」
「?」
「首を傾げないでくれ。どうやら、あなたもこちらの釣書を見ていなかったようだな」
「妾の子に釣書を見せてくれるような、そんなマトモな家ではありませんでしたわ?」
「それもそうか、すまん。あー、まず誤解しているようだから言っておくが、私に愛人はいない」
「まぁ!わたくし、愛することはない、とおっしゃる方は、てっきり、みな身分違いの愛人がいるものだと思っておりました。だってわたくし、読みましたのよ。題名はたしか『お飾り妻は気づかない 〜殿下の真実の愛のお相手はもしかして「現実にそういう人物がいないとは言い切れないが、それは偏見だ」」
「そうですか?」
「物語の読みすぎだ」
「そうかもしれません」
「それから。遠くからオペラグラスで観察するのは覗きだ。劇場や野鳥観察で使うならとやかく言わないが、日常使いするのは犯罪です」
「はい」
「最後に。私に、そういったことを見られて喜ぶ趣味はない。見せつける趣味もない」
「……なる……ほど……?」
「…………」
「ほんとにわかってるのか不安だ、って顔をしないでいただけますか師匠。ちゃんと内容は理解しておりますわ」
「だと良いが」
「大丈夫ですわ。ところで師匠。差し支えなければお聞きしたいのですけれど」
「なんだ?」
「愛人のかたがいらっしゃらないのなら、なぜ、わたくしを愛することはない、なのですか?」
「…………」
「…………」
急に訪れた重い沈黙には痛みがある。
彼は答えようとして声にならず、目を背けた。
彼女は心ないことをしたと気がつき、目を落とした。
「あの、わたくし……ごめんなさい。出過ぎたことを申したようです」
「明日、話そう。今日はもう遅い。さすがに疲れただろう。私も疲れた。自室に戻るよ」
「それは、……はい」
「おやすみ」
「おやすみなさいませ」
パタン。暗闇で扉が閉じた音がした。