第30話 正義の天秤ゲーム・その4 「遂に、あの忌まわしい魔女の呪いが解けたんだね!」
アネットの放ったコインの軌跡を左下に見ながら、私は上階の廊下を全速力で走る。
出来るだけ身を低くして手すりから体を出さないようにはしているけれど、それで天井の振り子鎌が動く前に辿り着かなかったら意味がない。見つかるリスクが上がるのは覚悟の上。
ギギギギ、油が切れた機械のようなきしむ音が空気を振動させる。ゆっくり、けれども確実に、一方の皿が天井に向かって上がっていく。その先には半月型の振り子鎌が待ち構えている。
反対に、床へと下がったのがアネットの救うべき皿――その皿は左。
「お姉ちゃん!」
「イルザ!」
皿の縁に手をかけたアネットは、そのままよじ登ると檻の中のイルザに触れる。イルザは小さな手でアネットに応える。
アネットが正義のコインを投げ入れたのは左のイルザの皿、彼女は自分の手で妹を助けることを選んだ。
私たちが事前に決めた作戦と違ってもアネットとイルザの絆が完全に切れてしまうよりよっぽどいい。もしここで私との約束だからとアネットがあけぼのを選んでいたら、私は彼女を軽蔑してしまったかもしれない。
私の信じるアネットは私と同じ気持ちのはず、すぐにそう思えたから、私は迷うことなく右の廊下を走ることができた。
廊下を走る私の視界の端にあけぼのが乗る皿の縁が見える。見れば、私のいる廊下と同じ高さまで上がりつつある。頭上からジャラジャラと鎖を揺さぶる音。振り子鎌を動かす鋼鉄の仕掛けが本来の役目を果たそうと歯車を動かし始めたのだ。
その音が聞こえているはずなのに檻の中の灰色の塊は動かない。
あけぼののやつ、あいつ、どうしちゃったの!?
縛られてるのか、薬なのか、魔法なのか、とにかく彼から反応がない。もともとロシアンブルーに似た小さな猫だ、それが身動きひとつせずに檻の中で丸まっていてはまったく様子が分からない。せめて皮肉のひとつでも言ってくれれば無事だって安心するのに。
その時、ビュンと、風を切る音が聞こえたのは、振り子鎌が動き始めたからだ。
刃先を光らせる振り子鎌が、天秤の中央で半円を描くように揺れ始める。そのたびに歯車のかみ合う音が響き、振り子鎌をあけぼのの皿へと近づけさせる。
左右に5往復した時、半月型の振り子鎌の先が檻の縁に当たって火花を散らした。
「レナ! 急げ!」
1階でアネットが叫ぶ。
分かってる、これ以上はまずい! 皿までまだ2メートル以上あるけれどやるしかない!
鼓動が早くなって心臓の音が耳まで届く。
私は素早く手すりに足をかけると、一気に蹴り上げて自分の身を宙に投げた。下には固唾を呑んで見上げるアネットが見える。
届くか!? と思った瞬間、私の目の前に黒い鉄格子が現れたので、慌てて掴んで激突を回避した。
それと同時に、ガクンと、また天秤が動き始める。私の重さを感じ取った天秤が床面へと下がろうとする。刹那、私の頭上を振り子鎌が素通りした。
本当にギリギリ。少しでもタイミングが遅れてたら、私や檻は振り子鎌に切り刻まれていたに違いない。
選んだ皿の人質を助けるのと同時に天井へと上がった皿に飛び乗り、振り子鎌に接触する前に天秤の傾きを反転させてもうひとりの人質も助ける――「トリックスターの遊戯」で観た作戦のとおりだけどうまくいった。
「わたくしが気づかないとでも思っていたのですか?」
背後からの急な嫌らしい声、ふり返ると兎の男が皿の縁に爪先立ちしていた。
私は大きく身体をビクつかせて驚いたフリをする。
「レナ様が2階の回廊に隠れていたことはとっくにお見通しでしたよ。イム様と一緒にいるあれ、あまりにも出来が悪すぎます。子供だましにもなりません」
兎の男は見下したように手を振りながら語尾に嘲笑を含ませる。勝ち誇った余裕の態度、私を皿から排除すれば天秤の傾きはまた逆転する。振り子鎌であけぼのの檻を粉砕するにはそれだけでいい。
兎の仮面が私に近づく、突き落とそうと伸びてくる手、私は身を小さくして怯えたフリをする。
――そう、私は待ってたんだ、兎の男が目の前に来るこの瞬間を!
前屈みになったまま一気に兎の男の懐に突っ込む。私が後ずさると思っていたのか、兎の男は無様にふらつく。するり、と兎の男の手から人形がすべり落ちる。
「ソフィー!」
兎の男が情けない声を上げたが、私は気にせず手を伸ばす。
指の先が人形に触れようとした瞬間、人形は私に顔を向けると、歯を剥き出しにしてカクカクカクと口だけで笑った。
その不気味な笑顔に手を止めてしまった私に向けて兎の男が大きく腕を振りかざす。私の髪を引っ張り、別の手が人形を求める。
けれども、人形は兎の男の手に収まることなく目の前で真上に跳ねた。
「勇者さまー!」
1階でイムの声が響く。そうか、彼女が右腕をロープに変化させて人形を弾いてくれたんだ。
人形は翡翠色の瞳を真っ直ぐ私に向けたまま空中で回転する。その動きをまるでスローモーションのように見ながら、私と兎の男は同時に手を伸ばす。
天秤の傾きを変えようとする私を兎の男が邪魔してくることは「トリックスターの遊戯」で分かってた。だから、天秤の傾きを変えるだけじゃ駄目、振り子鎌を止めなくちゃいけない。兎の男に振り子鎌を止めさせるには相応の対価が必要――つまりあの人形だ。
人形を取って交渉する、あれだけ大事そうにしているのだから、こちらに人形があれば兎の男も言うことを聞いてくれるはず。お願い、届いて!
けれども、私の手の上を兎の男の手が通りすぎる。私の手は届かない。イムがせっかく作ってくれたチャンスなのに。
私に覆い被さった兎の男が人形を握った――と思ったその時、人形から光が弾けスパークした。
「…………!」
飛び散る光の粒子に目の前が真っ白になる。光の濁流に声すら出ない。
それは兎の男も同じ。私を押しつぶすように倒れこんできた兎の男のせいで、私たちはもつれ合いながら天秤の皿から転落した。
着地と同時に激しい痛みが全身を走る。すぐ近くで何かがパリンと割れたような音がする。
ギーギーギー! 天秤を動かしていた歯車が悲鳴にも似た軋轢音を響かせた後、ガシャリと鳴って静かになった。
視界が戻ってきた私はすぐに天秤に目を遣る。天秤は水平を保ちながら動かなくなっていた。
「――なんということだ。ついに、ついに、この時が来たのですね」
その声にふり返ると、黒タキシードに身を包んだ兎の男――違う、兎の仮面が半分に割れて金髪碧眼の顔が半分だけ見える男性が立っていた。
半顔だけでも分かる、通った鼻筋や優しげな眼差し、いつも笑みを絶やさない口元に端正な横顔。それは、
「カール王太子!」
思わず口に出すと、彼はゆっくりと私の方に顔を向ける。その動きに刺激されて、残りの仮面もこぼれ落ちて床の上で砕ける。間違いない、聖ブリリアント王国の王位継承順位第一位で、主人公ソフィーと結ばれる運命にあるカール王太子だ。
もう何が何だか分からない。自分の婚約者を決めるために自分でデスゲームを主催したってこと!?
「ああ、ああ、ああっ!」
私の疑問などお構いなしに、カール王太子は天井と私を何度も見返して声を張り上げていく。
ひとり驚いているカール王太子の視線の先を追うと、そこには天井画をバックに空中に浮かぶ少女がじっと私を見ていた。
私は思わず息を飲んだ。
あの人形と同じ琥珀色の髪、翡翠色の丸い瞳を持つ彼女は、間違いなく、フォーチュネの主人公、ソフィーだった。
「ああ。遂に、遂に、あの忌まわしい魔女の呪いが解けたんだね!」
カール王太子は恍惚とした表情でソフィーを見上げるが、ソフィーは無表情のまま私を見続けている。ゲームの彼女はいつもニコニコと笑っていたけれど、表情がないだけでこんなに違って見えることが怖くなった。けれども、その感情とは別にある疑問がわき上がる。
私はカール王太子とソフィーを何度も見比べる。
カール王太子とソフィーが一緒なら、どうしてデスゲームなんかで婚約者を決める必要があったんだろう。しかも、次々に候補者を【奈落】に落としてきて。さっぱり意味が分からない。
「そうか、やはりお前だったのか」
くるり、身体を半回転させてカール王子が向き直る。その碧い目は明らかに怒りで満ちている。それが向けられている先は私!?
「何をしらばっくれている」
カール王太子は憎しみを込めて叫んだ。
「この忌まわしき魔女が!」
魔女ってなに!? 理解が追いつかない。助けて、あけぼの! 私は心の中で彼の名を叫んだ。
ここまでお読みくださり本当にありがとうございます。
正義の天秤ゲーム・その4をお届けしました。
アネットはイルザを、玲奈はあけぼのを選びました。
今回のゲームはトロッコ問題ですが、「AとB、どちらを犠牲にして残りを助けるか?」について、AかBのどちらかを選ぶのではなく、それ以外のCやDという答えを見つけられるかがこの問題の答えなのだと思います。
玲奈が見つけたその答えは「兎の男の人形を奪うこと」だったのですが……。
次回は8月19日(土)の夜の予定です。
楽しみにお待ちいただければ幸いです。
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