幕間 エルザの休息
他者目線になります。
「……寝てしまいましたね」
「怒涛のような一日を過ごしたのだから、仕方ないよ」
馬車の揺れに負けたようで、ついにエルザの瞼が閉じた。あどけない寝顔、規則正しい寝息が聞こえる。窓の外では赤く燃えるような夕焼けの空が広がっていた。シシルは馬車に常備されている毛布をエルザの体にそっとかける。警戒心の欠片も見せず無防備な姿をさらしている彼女に、レナルドは笑みをこぼした。
「この状況で寝られるのは豪胆と賞賛すべきかな。移送中に相手が昼寝したのははじめてだよ」
「そうですね、知り合ったばかりの人間の前ですから。私も人生ではじめて温かいとか優しいとか言われました。賢者なのか、愚者なのか、さてどちらでしょうね?」
シシルは纏う気配を一変させる。エルザに語ったとおり、シシルもまた国籍法により皇国の民となった。だが事情はだいぶ異なる。
「凄腕の暗殺者として第一線で活躍していた君をそう評する人間はまずいないだろう」
「ええ、皇国にスカウトされていなければ私は彼女を殺す側だったかもしれませんからね」
知らないということは、幸いなことでもある。シシルの顔を見たエルザの挙動が変わらなかったことに、彼女は心底安堵していた。
「間違いなく、この娘は悪役令嬢とやらではありません。悪役と称するには裏というものを知らな過ぎる」
「それなら三女のほうが有望かな?」
「何人か忍ばせていましたからね。よく手懐けていましたが、あれは我々とは別種の猫です。一括りにはできませんよ」
あんなの、シシルにしたら子供の遊びのようなものだ。
「それにしても言わなくてよかったのですか? あなたの婚約者の席はエルザのために空けてあるのでしょう?」
「迷ったのだけれどね、弱っている彼女につけ込むみたいじゃないか」
「ですが、婚約破棄されたことをエルザは気にしていませんよ?」
貴族らしい取りすました微笑みではなく、あれほど清々しい素の表情を見たのははじめてじゃないだろうか。彼女はキッパリとオスカーのことを嫌いと断言していたが、あれはもはや嫌いを超えて無関心の域に達していた。どこで何しようが、それこそ他所に女ができようが気にならない。そこまで吹っ切らせたのは侯爵家の管理不足とオスカーの自業自得だろう。
「泥を被るというから慈悲深いのかと思っていましたが、捨てると決めたあとの切り捨て方は見事です。王子妃にふさわしい、いいえ、王妃にもなれる器だったのに。王国はもったいないことをしましたね」
「ふふん、後悔してももう遅いな」
「それよりも、彼女の特異な経歴はあのお方の興味を引きそうではないですか?」
「渡さないよ」
被せるように答えて、レナルドは微笑んだ。
エルザの寝顔を眺めてから、もう一度繰り返す。
「エルザ嬢は渡せない」
「ですが、そちらの方が面倒なことになりそうな予感がしますよ」
「そのために手続きは全て終わらせてきた。彼女だって自由に過ごす時間が欲しいだろう」
「どうせその間に外堀を埋める気なのでしょう? 遅かれ早かれだと思いますけどね」
「それでも、できれば彼女の意志を尊重したい」
「優しいのか、こわいのか。わからない人ですねー、あなたは」
聞かされてはいたが彼女への執着には、ちょっと引く。逃げたと思ったら実は捕まっていたなんて、なんだかエルザがかわいそうだわ。助けてあげられなくてごめんなさい、とシシルは心中で軽く手を合わせた。
「幸せになる手伝いをすると約束したのだから、ちゃんと守らないとね」
夕焼けに染まり、けぶるような睫毛が影を落とした彼女の横顔はため息が出るほどに美しい。
レナルドは彼女の手に巻かれた自身のハンカチを幸せそうな顔で眺めていた。
――――
場所は変わって、ラングレア王国。
エルザが国を出て、八日目のことだ。
「今回もつつがなく献策が終わりました、皆の者、大儀でした」
王国には王族や上位貴族の女性を中心とする一風変わった伝統があった。
レディ・カンファ。中興の祖であるガウフ王の妻で賢妃エイレーネが夫の治世を助けるためにはじめたとされる、王族や上位貴族の女性達だけで構成された小さな議会である。そこで話し合われた内容は提言書としてその場で王へと提出され、実行可能なものは速やかに政策へと反映される。
この取組みは政治が男性のものとする意識の根強かった時代に革新的であるとして他国が好意的に評価していた。レディ・カンファこそ、ラングレア王国を先進的な国であると認知させるに至った王国の誉れ。だからこそ、途絶えることなく脈々と王家に受け継がれているのだ。
議場をあとにした王妃殿下が聖母と評される慈愛に満ちた微笑みを人々に向けると、その声に従って、王太子妃アウローネを筆頭とした付き従う事務官や女官がうやうやしく首を垂れた。賢妃エイレーネに憧れる王妃パトレアは献策という行為がことのほか好きだった。目立つし、程度に差はあっても誰もが称賛してくれる。
このレディ・カンファは歴代の王の治世で開催された回数にバラツキがあり、王の治世が安定するにしたがって減る傾向にあった。だがここ最近のパトレアは半年に一度、必ずなんらかの策を献上していた。正直なところパッとしないものもあったけれど、ときに目を見張るほど的を射た素晴らしいものもあるとして、パトレアの開催するレディ・カンファは一定の評価を得ていた。
「今回の案は評判が良さそうですね、上位貴族からの反発もさほどではなさそうです」
「ええ、そうね。今回の実績で議会の評価がまた上がるでしょう」
王太子妃であるアウローネの言葉にパトレアは鷹揚にうなずいた。事務官や女官達は尊敬をこめた眼差しで二人を見つめる。二人共に賢女と呼ばれるにふさわしく、常に冷静で堂々としていた。彼女達は自分達の仕える女主人は聡明なだけでなく人格者なのだと欠片も疑ってはいなかったのだ。
「それでは、次回の素案を検討しておきましょう」
「パトレア様、少しはおやすみになられたほうがいいのではありませんか?」
「アウローネ、あなたは優しいのね。ありがとう、でも大丈夫よ? こうしている間にも国民には新たな問題がおきているの、だからゆっくりはしていられないわ」
「さすがですわ」
アウローネの称賛を微笑みで受け流して、いつものように献策用の素案が記されているノートを開く。これはレディ・カンファの伝統と共に、代々の王妃へと受け継がれてきた由緒正しいものだ。
「あら、やだ白紙じゃないの」
だが開いたページには、まだ何も書かれていなかった。
「あらあらアウローネったら、あなた忙しくて書き忘れていたのね。これはあなたの仕事なのだから、しっかりしてもらわないと……」
パトレアが振り向くと、そこには顔を青ざめさせたアウローネがいた。
「どうしたの? 顔色が悪いわ、あなたこそ体調がよくないのではないの?」
「あ、申し訳ありません……」
「いいのよ! 今日の議会で疲れがたまっているでしょうし、今のうちにゆっくり休んできなさいね」
「ありがとうございます」
アウローネは労わるような王妃殿下の眼差しに送り出されて侍女と共に部屋をあとにした。焦りを見せないよう優雅な足取りで部屋に飛び込むと侍女を下がらせて部屋の鍵をかけた。
「……やられた! 悪役令嬢ごときが、生意気に!」
エルザ・カレンデュラの仕業だ。アウローネに催促されないからって、わざと白紙のままにしていたのね。アウローネは冷静さと優美さを兼ね備えたと評される王太子妃の仮面をかなぐり捨てて、憎しみのこもった顔でギリッと唇を噛んだ。忌々しいことに、あの女はどんな無茶振りと思うようなことでも涼しい顔でこなしてしまう。
『姉は悪役令嬢などではありません』
あの女との因果のはじまりは、あの女の姉の婚約破棄からだった。元祖悪役令嬢、シェリー・カレンデュラ。金髪縦ロールに猫のような吊り目という容姿の特徴が物語の悪役令嬢そのもので、態度も偉そうだし、取り巻きを引き連れていつもお高く止まっていた。気が強く可愛げがないということで婚約者に嫌われて、最終的には悪評を理由に婚約を破棄されるような女。ちょっとでも男に甘えて擦り寄っておけばよかったのに、本当馬鹿よね!
そんな誰もが自分の姉を非難するという四面楚歌な状況にも関わらず、あの女は姉をかばったのだ。人前で、しかも堂々と臆することはなかった。あのときの強く澄んだ眼差し……本当に気に入らないわ!
「さてどうしようかしら……」
過ぎたことは仕方がないと思考を切り替える。現状、あのノートに記載できる権限を持つのは王妃パトレアか、王太子妃であるアウローネのみ。第二王子の婚約者であったけれどエルザには資格がなかった。なぜならパトレア様が触れることすら嫌がるからだ。その気持ちはわかる、アウローネだっていやだもの。
だが一方でアウローネは存在価値を示すために、なんとしてでもあのページを埋めなくてはならなかった。今までは王太子妃の権限を使ってエルザを呼び出しては献策させて、ページをうめていたというのに……。どういうわけかエルザの提出する政策は、国民だけでなく王や上位貴族からも評価が高いのだ。
「本当に腹の立つ女よね。客車の一件だって、そつなく収めてしまうし」
小型軽量化され、車軸の改良により移動音を極限まで抑えた音の静かな客車はアウローネの発案だった。庶民からの馬車の音がうるさいという苦情がいくつかあって、それを解消するために専門家に依頼して設計してもらったものだ。仕上がりを試したときは画期的だと思った、それがまさか人を傷つけるとは思わなくて……。だからどうしたらいいのかわからず、当時王子の婚約者になり立てのエルザに対応を任せた。アウローネとしては丸投げするつもりはなくて、ただ彼女も巻き込みたかっただけだ。それが手を出しかねているうちにエルザ一人で後始末をつけてしまった。それどころか問題点を解消した改良型の客車の案まで提出してきたのだ。
『これではどちらが王太子妃であるかわからないわね』
困ったような顔で呟いたパトレア様の言葉に、かっと頭に血が昇った。悪役令嬢のくせに、生意気なのよ! だから悪役にふさわしく罪を負わせて、改良型の客車の功績を取り上げたのだ。アウローネは仄暗い眼差しをして虚空を睨んだ。
「私が王太子妃になれたのは、計画立案できる能力を認められたからよ。この地位を守るためには、あのノートを埋めなくてはならない」
夫とは侯爵令嬢時代に出会い、彼の治世を支えるからと説得してようやく結婚にこぎつけたのだ。献策できないといえば、この地位だけでなく愛も失うことになる。
ところが肝心のエルザが国籍法を利用して他国へ逃げてしまった。オスカー・レオニスに婚約破棄されたのを見たときは胸がすく思いだったけれど、間をおかずしてやってきたユーザ・ロ・バルディアス皇国皇帝陛下が自ら国籍法に基づきエルザが皇国民となると告げたのだ!
なんてこと、婚約を破棄された腹いせに国を捨てるなんて。公爵令嬢のくせに、そんないい加減なことは許されないでしょう! なのに法律上では何の問題もないという。それだけでなく、皇帝陛下はまるで釘を刺すかのように我々へこう伝えたのだ。
『この国での身分や地位が彼女の足枷とならぬように、こうして私自ら説明にやってきたのですよ』
どうやらあの女は皇帝陛下にも気に入られているらしい。
悔しい、私ばかりに辛い仕事を押し付けて幸せになるなんて許せない!
「そうだわ、エルザを呼び戻しましょう!」
国籍法ではたしか、不服申し立てができるはずだ。難癖をつけてでも申請書を無効にすることができればエルザはエルザ・カレンデュラのまま。さまざまな傷のついたあの女を適当な理由をつけて侍女にでも召し上げれば、いくらでも使役できる。私は賢いの、そうよ賢妃は一人で十分だわ!
ところが司法局に申し立てるよう指示を出すと、すげなく断られた。不服申し立てができる期間が過ぎているというのが主な理由だった。それだけでなくエルザ・カレンデュラに関する一切の干渉を断つという条件を守る代わりに締結した条約があるから、申し立てた瞬間に、こちらが条約違反となるとまで言われたのだ。最悪の場合、戦争となるかもしれないというシナリオが脳裏に浮かんで、アウローネは青ざめた。だが刻一刻と時間は過ぎて、一週間、二週間と経つと、パトレア様から矢のように案を催促されるようになった。仕方なしに素案を提出するも、さまざまな理由をつけて却下してくる。
「こんな使い古したような案を提示するなんて。あなた、私のことを馬鹿にしているの?」
「申し訳ありません!」
冷ややかな眼差しでそう言われてしまえば、もう一刻の猶予もなかった。