ベンジャミン・カレンデュラの後悔
ひとつ、柱時計の鐘が鳴った。
ブレンダは冷ややかな眼差しで情けない表情を浮かべて座り込んだ父親を見下ろしている。
「ここにいてもどうせ役に立たないから城へ送り返してやりましょうか」
「いいのではないかしら? きっとお城ではいなくなったエルザの影響が大きすぎて阿鼻叫喚渦巻く地獄と化しているでしょう。王族とお父様自身に誠心誠意尻拭いをしていただくのがいいわ」
「あーあ。エルザお姉さまの苦しみを理解させるためにも、頭皮から毛根が滅んでしまえばいいのに」
「いいわね、滅ぼしてみる? そういう飲み物があるわよ?」
ブレンダの手には瓶が握られていて、ドス黒い液体が揺れていた。
「一滴でだんだんと毛根が弱り、二滴で頭髪が全て抜けて、三滴で毛根が死滅するわ……永遠にね。しかも頭髪にしか効かないのよ。だから誰から見ても立派なハゲ頭にしか見えない優れモノ」
「素晴らしいですわ、ブレンダお姉さま! それを使えば間違いなく国を、いいえ世界すら掌握できるでしょう!」
「ふふ、ありがとう。クレアにほめられるとうれしいわ」
「なあ、それって飲み物というよりも毒か違法薬物じゃないか?」
おほほほほほ!
おほほほほほ!
戦慄する誰かの、声にならない魂の叫びは令嬢達の高笑いに飲み込まれた。
「ブレンダ、それからクレア。悔しいと思う気持ちはわかりますが、お父様の唯一の美点がこの金髪なのです。美点が失われてしまえば、残るのはキモいだけのおじさん。あなた達も精神的にきついでしょうし、武士の情けというものですわ。頭髪だけは残して差し上げなさい」
「仕方ありませんね、天使のようなシェリー姉様がそういうのなら諦めますわ」
「シェリーお姉さまの慈悲深さは女神のようです!」
マックスの視線はブレンダの手の中で揺れる黒い液体に釘付けだった。……たった一滴で、だんだんと毛根が弱ると言っていなかったか?
「どうしました、マックス義兄様?」
視線に気がついたブレンダの口角が三日月のように上がる。黒い、あまりにも禍々しすぎる!
「ご興味がおありのようですわね」
「興味というか、まだ誰にも使っていないよな?」
「…………ええ、使っておりませんわ」
なんだその沈黙は! 最近急に生え際が寂しくなってきたんだ、まさかそれって!
「よければ試してみます?」
「いえ、けっこうです」
ブレンダから視線を逸らした。下手に深入りすると絶対に盛られる。
そうだ、気のせいだ。気のせいということにしておこう。
「では、父様を城に投棄しましょう」
「のわっ!」
ブレンダが指を鳴らすと天井から人が降ってきた……しかもマックスの隣に。
「ふふ、ダメよ。いくら反応が面白いからってマックス義兄様をからかっては」
「からかう以前に不審者だろうが!」
「いいえ、私が招き入れた時点で不審者ではありません」
自信たっぷりに言い切られるとそれが正しい気がしてくる。という謎の現象により、一瞬黙り込んだマックスの隙をついてブレンダは指示を出した。
「さっきのように真綿で簀巻きにして良さげな場所に転がしてきて」
「ちょっと待て、真綿で簀巻きが二回目ってことか!」
「さあ? 数えたことがありませんから」
まさかのノーカウントだった。マックスは深々と息を吐き、頭を抱える。
「王城の警備は何をしているんだ⁉︎」
「彼らはちゃんと仕事をしていますからご心配なく」
ブレンダは口元に蠱惑的な笑みを浮かべる。さすが社交界の華となるだろうと言われている娘だ。吐き出す台詞は問題ありまくりだが、つぼみであっても華があるとマックスは感嘆した。ただ可憐な花というよりは、むしろ棘と毒のありそうな悪の華なのが残念だよな……そのブレンダは黒い微笑みを浮かべたまま、父親のかたわらに膝をついた。
「ねえ、父様。あなたは先ほど、どうしてこんなことになったと、おっしゃっていましたわね。答えはわかりましたでしょう? つまりそういうところ全部ですわ」
「……」
「ドレスや皇国語の件は、なぜ言わなかったかとあとから責められそうなのであえて言っておきますが、エルザ姉様や私達を責めるのは筋違いというものです。根本が解決していないのに付け焼き刃で手当てしても別の傷が増えるだけですもの。それならば波風を立てないように、エルザ姉様の傷口がこれ以上は広がらないよう手当てすることに専念いたしますわ」
ブレンダの脳裏に父親がエルザ宛に送りつけてきた装飾品が浮かんだ。ネックレスとイヤリングに高価なピンクダイヤモンドが使われていて、金具もまた希少なピンクゴールドだった。値段は高いし公爵令嬢が装飾品として身につけるには申し分ない逸品だ。ただしドレスもピンクで装飾品もピンク、つまり全身ピンク……さすがにこれはないと、律儀に身につけようとするエルザを止めて無難なダイヤモンドとシルバーの金具のものを身に着けさせた。もしあれを身に着けた姉が会場に姿を現したら、さすがに誰もが嘲笑するだろう。今の状況を考えると、あの勘は正しかったのだとブレンダは確信した。
「もし私達がエルザ姉様の計画を事前に知っていたとしても、呼吸するように搾取するような人達に教えるわけがないじゃないですか。全力で邪魔をされるのはわかりきっているのですから」
「……」
「それにそもそもの話、私達が教えてあげなくてはならない義理もないのですけれどね。なにを自分達に都合よく期待していたのか疑問ですわ」
「どういうことだ?」
言葉も出ない父親に代わって、マックスは尋ねた。ブレンダは無言のまま立ち上がって、シェリーの隣に並ぶ。そして二人はいつかエルザが見せたような清々しい微笑みを浮かべてみせた。
「私達は悪役令嬢と呼ばれているのです。悪役だとわかりきっているのに、いまさら善人ぶった行いを求められましても、ねえ? それこそ虫が良すぎるというものですわ!」
国が、それこそ国民全員が私達を悪役と呼んだのだ。父はそれを静観するだけで止めなかった。
自分達に非がないとは絶対に言わせない。
「かっこいいですわ、シェリーお姉さま、ブレンダお姉さま! 私、一生懸命お勉強して立派な悪役……公爵令嬢となります!」
これぞまさに目指すべき悪役令嬢の姿! 至高の領域に達した姉達の姿をクレアは記憶に焼き付ける。瞳を輝かせた妹に、にっこりと微笑んでからブレンダは父を見下ろした。
「私の態度がご不満でしたら除籍していただいてかまいません。エルザお姉様と同じように国籍法に基づいて他国へ申請いたします。エルザ姉様もいますし、ユーザ・ロ・バルディアス皇国もいいですわね!」
「ベルジェット家との婚約はどうするの?」
「ルークはむしろ私の身分が下がることを喜んでくれるわ。父様からの締め付けが、なかなかキツイそうなの」
政治資金欲しさに娘の婚約先へ圧力をかけるなんて何やってくれているのよ!
口にしないだけで、ブレンダも常々、父には迷惑をかけられていた。そういえば皇国には支店があったわね。いっそ自分達が家督を継いだときにそちらを本店にしてしまおうかしら? 皇国のほうが税の優遇措置もあるそうだし、貴族と平民の婚姻も許されている。実のところ、この国に留まり続ける理由はブレンダにもなかった。
「でしたら私も行きます!」
「クレア、あなたは除籍されてもこの国にいて大丈夫よ。万が一を考えてエルザ姉様が話をつけているの。リシュリュー侯爵家の養女となって、成人と同時にセオドア様と結婚式だそうよ。リシュリュー侯爵家だけでなく、セオドア様がクレアを熱望しているそうだから、万が一もないわ」
「うれしいです、エルザお姉さまには感謝しないと!」
「シェリー姉様は……問題ありませんわね」
シェリーは信頼をこめた眼差しで夫の顔を眩しそうに見上げる。
マックスはすでに覚悟を決めていた。
妻と子供と、頭髪を守れるのは自分だけだと!
「怪我はさせるな。それから簀巻きの姿を見られないようにしろよ?」
「ふふ、ということだからよろしくね?」
「御意に」
不審者がベンジャミンを担いで軽やかな身のこなしで去っていく。自分の代わりに指示を出したマックスに、ブレンダは口角を上げた。
「いいのですか、あの者はいわゆる悪の手先ですわよ?」
「義理の父とはいえ、シェリーが悪役令嬢と呼ばれていたのときの対応には思うところがあったからね。あのときの義父と同じように知らなかったふりをすればいいだけさ」
「あらあら。見た目には分かりませんが、けっこうご立腹でしたのね!」
義兄の淡々とした表情の裏に、そこはかとない怒りを感じてブレンダは目を丸くする。
当然だろうと、マックスは唇を歪めた。
「大切な人間が傷つけられて怒りを覚えるのに、善人も悪役も関係ないからな」
一瞬ブレンダはキョトンとした、だが次の瞬間にはふきだすように小さく笑う。
「そうですわね、私もまだまだですわ。引き続き精進いたします」
「精進するなら報告連絡相談を徹底してくれ。私はこれ以上義理の妹を失いたくない」
目を見開いて絶句したブレンダが、ゆっくりとシェリーを振り向いた。
「想定以上ですわ。マックスお義兄様って、実は懐の深い男前でしたのね」
「ふふーん、いいでしょう! 私のものなんだから、あげないわよ!」
シェリーがドヤ顔でマックスを抱きしめる。
普段は大人な姉の少々子供っぽい言動にブレンダが一瞬目を丸くして、苦笑いを浮かべた。
「ご心配なさらず。ルークに仕込みます」
「ああシェリー、なんて君はかわいいんだ……私の癒し、君が私の正義だ! 異議は認めないよ!」
抱きしめられたマックスは幸せすぎて表情がだらしない。もちろん、しっかりと彼女を抱きしめ返す。それを見て、まだまだ甘えたい盛りのクレアが両手を広げた。
「いいな、シェリーお姉様! 私もぎゅっとしてください!」
「もちろんよ、おいでなさい」
そのとき、扉が開いた。扉の先には赤子を抱いた乳母の姿がある。
「シェリー様、目が覚めたようですわ」
「あら、ようやく私たちのかわいい天使が目覚めたわね!」
乳母の腕の中で抱かれているのは生まれたばかりの愛らしい男の子だった。慎重な手つきで受け取ったシェリーは柔らかさと温もりに、ふわりと微笑んだ。今のシェリーは学生時代の険しい表情が嘘のようで、誰の目からも慈愛に満ちた聖母のように見えるだろう。
「本当、男の子なのにきれいな顔をしていますわね!」
「うふふ、そうでしょう。それに、どことなくエルザに似てるわ」
たしかに、どちらかというと中性的な顔つきはエルザとよく似ている。
「……お父さまは何かおっしゃっておられましたか?」
「一度顔を見にきたがチラッとだけ見て帰っていったよ。大丈夫だ、ありがとう」
さまざまな可能性を思い浮かべたクレアが心配そうな表情でのぞき込んだ。そんな彼女の頭を隣に立つマックスがなでる。ただシェリーは、子供の顔を見ながらキッパリと言い放った。
「でも、この子の髪が生えそろったら絶対に会わせないわ」
沈黙が落ちる。
「まさか、そうなのか?」
「ええ、ほんの少しだけ生え始めたのよ。まだうぶ毛でわかりにくいけれど間違いないわ」
陽光に照らされると天使の羽みたいにふわっと広がって――――。まだ可能性の域を越えていないが、シェリーには理屈ではなく同じものだという確信があった。
「エルザのときみたいに、下手に執着されると迷惑だから会わせたくないわ。愚かでワガママな他国の王女殿下との婚約を勝手に決めてきて、しかも押し付けられそうだもの!」
身分が必ず人を幸せにしてくれるわけではない。父自身が男爵令嬢だったお母様と周囲の反対を押し切ってまで結婚したというのに、どうしてわかってくれないのか。シェリーの言葉にマックスは深く息を吐いた。おそらく一時は燃え上がった熱が冷めてみると、こんなつもりではなかったと思うことがあったということだろう。とはいえ選んだのは彼自身、自業自得で全く同情する要素はないが……。逡巡し、顔をあげたマックスの視線の先には覚悟を決めたようなブレンダとクレアの顔があった。
「仕方がない、お義父様には引退して領地にこもっていただくことにしよう。君達は、それでかまわないかい?」
「もちろん!」
「もちろんですわ!」
今回の件で、カレンデュラ家は厳しく調べられることになるだろう。当然、捜査の手は宰相であるベンジャミンの周囲に及ぶ。マックスには自分が担当だったら絶対にそうするという確信があった。
そして娘達の言葉から勘案するに、義父の周囲はずいぶんときな臭い状況になっているようだ。問題が発覚する前に辞職させるか、問題を公にして裁きを受けるか選ばせよう。おそらく自分かわいさにベンジャミンは前者を選ぶに違いない。裁きを受けて自分の行いを省みることができないというのなら、領地に閉じ込めてしまうしかないだろう。
「ごめんなさいね、マックス。あなたにまた苦労をかけてしまうわ」
「いいんだ、だってシェリーの名誉とカレンデュラ家を守ると約束したじゃないか」
泣きそうな顔で笑うシェリーを抱き寄せながら、シェリーに寄り添うクレアの頭をなでる。そしてなんとなく居心地の悪そうなブレンダに、微笑みを浮かべながら声をかけた。
「ブレンダも、嫌じゃなければこちらにおいで」
「私はいいわよ、そういうキャラではないの」
「マックスお義兄さま、ブレンダお姉さまはツンデレなのです! これがかわいらしいのですわ!」
「なっ、クレアッ生意気よ!」
「だってルーク様がおっしゃっていましたもの。お姉さまはルーク様の前でだけ甘えるそうです、それがものすごくかわいいのですって! 婚約者の証言ですもの間違いありませんわ!」
「ルークったら……もう!」
「うふふ、ブレンダお姉さまのお顔が真っ赤です!」
カレンデュラ家の一室に笑い声が満ちた。深く息を吐くとマックスは妻と義理の妹達を見回す。
「こうしてみると、ずいぶんと寂しくなってしまったね」
「たとえ離れたとしてもエルザは私たちの家族ですわ」
力なくつぶやいたマックスにシェリーは寄り添った。
「エルザお姉さまは幸せになれるかしら?」
「もちろんだとも、あの子は才能と可能性に満ちた素晴らしい女性だ。女性の躍進めざましい皇国ならば、もっと輝ける」
「私、エルザ姉様の旅行鞄にデザイン帳を忍ばせたの。ベルジェット商会のデザイナーがどうしても描きたいといった姉様をイメージした最新作よ! デザインというものはいつか古くなってしまうけれど、繰り返すものでもある。きっと未来のどこかで姉様の支えになってくれるはずだわ」
「私も入れましたわ! 本を読むエルザお姉さまには栞がいいと思ったのです! かさばらないし、しかも手作りの特注品ですわ!」
「君達は、いつの間に……」
抜け目ない義妹達の言葉にマックスは目を丸くする。
それからいつでもどこでも麗しい自慢の妻に視線を向けた。
「もしかして、君も?」
「ええ、ですが何を入れたかは内緒ですわ!」
「ずるいわ、姉様!」
「淑女は秘密を持つものなのよ、覚えておきなさい」
「シェリー、秘密主義の君も素敵だ! ときめきが止まらないよ!」
「マックス義兄様、もはやシェリー姉様絡みだったらなんでも素敵じゃないの」
「だからなんだ、何も問題はないだろう! シェリーは天使で女神で聖母だ!」
腕に抱かれた男の子が、そうだそうだと同意するように泣き声を上げた。窓の外には夕闇が迫っている。一騒動があったカレンデュラ家にも、つかの間の平和な家族団欒の時間が訪れた。
だがそこにベンジャミン・カレンデュラの席はない。
その後、ベンジャミン・カレンデュラは一身上の都合で宰相の座を退き、さらに数ヶ月後にはマックス・カレンデュラが当主の座を引き継いだ。引退後のベンジャミンはそのまま領地に幽閉させられ、二度と家族団欒の席に招かれることはなかったという。ベンジャミンは命尽きるそのときまで、こう思っていた。
私は家族を愛していたのに、どうしてこんなことになったのか――――。
お楽しみいただけるとうれしいです!