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エルザ・カレンデュラの真実


 レナルド・マストリーク様の用意してきたエルザの申請書類の控えを精査し、マックスは深々と息を吐いた。


「エルザの提出書類は完璧です。書き間違いもなければ、添付書類に不備も不足もありません。正直なところ、同じものが提出されれば我が国でも問題なしとして受理するでしょう」

「そこまでか」

「不備のひとつでもあれば、無効として執行停止を求めることもできますが……これはさすがに無理です」


 呆然とした父の声にエルザは内心でほくそ笑んだ。でしょうね、だって私が審査する側だったのですもの。どんな書き方だと心象がよくて、どんな書類を添付すれば有効かなんて嫌というほど知っている。このときばかりは第二王子殿下の仕事を肩代わりしてよかったと思ったわ!

 暗い表情をした二人とは反対に、マストリーク様は終始笑顔を浮かべている。


「そうでしょう、なにせ彼女は事前に提出様式の不備すら指摘したのですから」

「ああ、そうでしたわね」

「は、おまえそんなことまでしたのか⁉︎」

「あらマックスお義兄様、被っていた猫がハゲてましてよ?」

「ハゲっていうな!」


 脊髄反射並みの速さで言い返したマックスに、エルザはニヤリと笑った。国籍ごと家名を失った今の私にとって、彼らはもう父でも義兄でもないが……。まあ家を出るまではこの呼び方のままでいいかな、わざとらしく言い換えるのも嫌味っぽいし、正直なところ面倒だ。我に返ったマックスに父は呆れた視線を注ぐ。それをさらりと流したマストリーク様は苦笑いを浮かべた。


「驚かれるのも無理はないと思いますよ? 各国の状況により修正や付記は可能とされていますが、もとは四ヶ国共通の様式です。多数の人の目に触れているわけで、今更、不備などないと思いますよね。その道の専門家でさえ見逃していた言い回しの齟齬に、うら若いご令嬢が気づいた。それも修正が必要な箇所に付箋をつけて、流麗な皇国語で綴られた理由書まで添付して送ってきたのですよ!」

「エルザ、そんなことまで」


 しましたかしら、そんなことまで――――しましたわね。いつもの書類の決裁のつもりで、いつものように修正箇所へ付箋を付けて、ここが間違っていますよ、と。理由書をつけたのは、添付しないと担当部署に呼び出されて説明を求められるのが面倒だからだ。それを無意識に作っていたということは癖になっているらしい。


「ちなみに素晴らしい出来栄えの理由書は、皇国の決裁書類に参考資料の一部として添付されております」


 エルザは父と義兄の呆れたような眼差しから、そっと視線を逸らした。

 

「まさかこれから提出しようという人物に指摘をされるとは思わなかったようで法務部は慌てておりましたが、良い機会だからと全体を見直したそうです。結果的に簡素化できて効率が上がったとのことでした。お礼を言っておいてほしいと言われてきておりますので、この場をお借りしてお伝えしますね」

「ソレハヨカッタデスネ、ワザワザアリガトウゴザイマス」


 父と義兄の視線が痛い。偶然だからね、意図的じゃないよ? 

 

「ちなみに貴国の様式を調べたら修正が済んでいたので参考にいたしました。あれもあなたの仕事ですか?」

「違います、あれはマックスお義兄様がやりました!」

「今更誤魔化してもムダだ、司法局に指摘したのはエルザだろう。人のせいにするんじゃない!」


 黙っていてくれてもいいのに。むしろ面倒なことになりそうだから手柄ぐらい譲られてくれてもいいのよ?


「とまあ、このような理由から申請前なのにエルザ嬢はえらく注目されていまして、調べてみたらラングレア王国の正真正銘の公爵令嬢ではありませんか! 王族との関係も深く、公務も肩代わりされていらっしゃるご様子。それならこの指摘も納得と、申請書が届出されるのを皆で心待ちにしていたわけです」

「いつ届出があったのですか?」

「一年前です」

「は⁉︎」


 父が固まった。そんな前から、そう思っているのだろう。私は父に視線を合わせる。


「他国に素晴らしい格言がありますでしょう? 一度あることは、()()()もあると」

「……!」

「一度目のときに、私は他国の来賓がいる前で第二王子殿下から婚約を破棄されました。にも関わらず、第二王子殿下は罰せられることはありませんでしたでしょう。ですから二度目もありえると思っておりましたの」


 大勢の前でやらかしたのに罰せられなかった。国はこの結果が人に与える影響を甘く見ていたのだ。やらかしたのが王族の一員である第二王子殿下だったから罰せられることはなかったのに、自分も大丈夫だろうと思い切り勘違いする愚か者(オスカー)もいるのだ。そういう危うさを持つ人間の婚約者となった時点で、エルザの未来は決まったようなものだった。


「前回の式典と同等の規模といえば、まさに本日。式典の計画が発表された時点で大使館に申請書を提出いたしました。ただし受理するには条件をつけたうえで、です」

「条件をつけたのか?」

「はい。本日婚約破棄されなければ、申請書自体を廃棄してほしいと」

「……!」

「保険のつもりでした。残される家族のためにも、使わずに済めばいいとも思っておりましたもの」


 婚約破棄されなければ、半年後にはオスカーと挙式の予定だった。結婚すれば別の法律に縛られることになって、国籍法の適用外となる。今日がエルザにとって予測可能な最後のチャンスだったのだ。父は言葉を失い、義兄は項垂れた。


「エルザ嬢が婚約破棄されるか否かは、皇国でも予測は分かれました。まさかやらないだろうという良識派が九割を占めており、残り一割がエルザ嬢を受け入れる準備をいたしました。本日お持ちした書状も準備したものの一部です」

「あなたはどちらだったのですか?」


 マックスお義兄様の問いに、マストリーク様は皮肉げに口元を歪めた。


「この国ではエルザ嬢に対する評価が低すぎます。国民すらも大衆小説に出てくる悪役令嬢になぞらえて揶揄していたことが良い例といえるでしょう。彼女の働きに対して正当な評価をされていない、ですから必ずやると確信していました」


 エルザの評価が低すぎると言われたあたりで、二人は揃って顔色を悪くした。

 他国からもそう見えていたという事実は決して軽くはない。


「我が国の皇帝陛下は貴賤の隔てなく能力の高い人物を求めています。先の申請書の不備を指摘したエルザ嬢の有能さにはたいそう心を揺さぶられたそうで、公的な場での宣言をもって婚約破棄されたものとみなし、申請書に自ら署名捺印し申請を受理いたしました。そのうえ最短で事務処理が終わるようにと、エルザ嬢の国籍が皇国に移ることを自ら王族の皆様へと説明にあがっております」

「なっ!」

「とはいえ、エルザ嬢ほど優秀な人物を失ってしまうのですから、多少影響はあるはず。ですので助け合えるように貴国にとって有利な条件を付加した協定を結ぶことを提案しております。ただし、今後一切エルザ嬢への干渉を断つという条件つきですが」


 悪役令嬢が、一国の皇帝を動かした。これについては、正直なところエルザも驚いている。父はもう虫の息で、義兄も顔面蒼白だった。おそらく現在進行形で皇帝陛下と秘密裏に面談しているだろう王族も、似たような状況ではないだろうか。

 皇国が譲歩した条約を携えてまで歓迎するほどの人物を悪役令嬢と呼び、二度の婚約破棄を許して逃げられた――――。ラングレア王国の頭上に無能という二文字が踊る。他国からは陰でバカにされるでしょうし、甘く見られてしまえば今後さまざまな場面で苦労するでしょうね。

 

「ああ、それからエルザ嬢の懸念を払拭するために、今回の件ではカレンデュラ家に非はなく、ご家族の不当な人事異動やカレンデュラ家とその周囲に不利益を与えないことも条件に加えましたのでご心配なく」


 協定が結ばれたら、それはそのままエルザとカレンデュラ家への保障となる。

 つまり新たな協定とは、実のところは余計なことをするなという皇国からの牽制なのだ。


「それは……、我が家にとってはありがたいが……」

「皇帝陛下曰く、エルザ嬢への手土産だそうですよ。不備を指摘してもらったご褒美だそうです」

「ふふ、それでしたらたしかに受け取りましたとお伝えくださいな」

「エルザ嬢ご自身でお伝えいただいたらどうでしょう? 身分にはこだわりのない気さくな方ですし、今のあなたにはその権利がある」

「そうでしたわね、ありがとうございます」


 私はもうユーザ・ロ・バルディアス皇国の国民だもの、きっと機会はあるだろう。


「どうしてそこまで……」


 父の口から、ポツリとつぶやくような声がこぼれて落ちた。一人の令嬢のために、国が丸ごと動いたようなものだ。表情をあらためたマストリーク様の瞳がエルザをまっすぐに見据える。


「当然でしょう。エルザ嬢には、それだけの価値があるからです」


 ハッと胸を衝かれて、とっさにエルザは瞳を伏せた。そうしなければ、今にも泣いてしまいそうだったからだ。エルザは今まで多くのものを望んだわけではなかった。それこそ物語の悪役令嬢のように、ただ認めてほしいそれだけだった。そんなエルザの様子を眺めていたマックスは深々と息を吐いて、最終的には首を垂れた。


「承知しました。これ以上、お引き止めはいたしません。エルザをよろしくお願いします」

「承りました。ではこちらの書類にサインを」

「義父上、私が代理として署名しますがよろしいですね」


 それはエルザの除籍証明書だった。これに当主の署名がされれば、その瞬間からエルザはカレンデュラ家とは一切関わりがなくなる。無言を肯定とみなしたマックスは内容を精査したあと、ためらうことなく署名した。


「これでもうエルザが皇国に行くのは避けられない。とはいえ、公爵令嬢が平民になってどうやって生活するんだ?」

「国籍法には国を移った後の生活の保障が明記されています。職の斡旋と生活する場所の提供、基盤を整えるための知識。護衛としても配置されているシシルが知識については教示します。職と住居については……実はもう決まっているのですよ」

「えっ、そうなのですか?」

「はい。エルザ嬢の多彩な知識と経験を評価して、皇室直轄補佐室で事務補佐官として勤めていただきたいと考えております」


 国は変わっても、やることは変わらないらしい。ほっとした気持ちと少しだけ残念な気持ちが半々だった。表情に出ていたのか、マストリーク様はくすりと笑う。


「それから住居は官舎も用意できますが……それよりも城から近い場所に手頃な物件がありましてね。家の近くには大きな商店街があって、時間のあるときは買い物や食事ができるでしょう」

「よろしいのですか?」

「かまいませんよ、あなたは平民です。もう自由なのですから」


 自由、そう自由か! そのぶん責任も伴うけれど、今の私は自分で未来を選ぶことができる。エルザは、ふわっと口元をほころばせた。満足そうな笑顔にレナルドは一瞬目を見開いて、ほんの少しだけ目元を赤らめる。


「だが食事はどうするのだ、おまえに食事など作れぬだろう。それに侍女のように洗濯や掃除などできまい。まったく、甘やかして育てたからそんな夢みたいなことを言い出すのだ! 今からでも遅くはない、断りなさい。生粋の公爵令嬢が平民に紛れて暮らせるわけがないではないではないか!」

「……!」

「おまえには失望した! たかだか二回婚約破棄されたぐらいで貴族令嬢が国を捨て逃げるなど許されないぞ!」

「っ義父上、親であったとしてもそれは言い過ぎですよ!」


 激昂する父には、信頼する娘婿の声すら届かないようだった。エルザは言い返すことも忘れて、ただ呆然と言葉を失う。たかだか二回、されどその二回でどれだけ私が傷ついたとも知らずに……! 怒りよりも理解されない悲しみが勝った。ただ堪えるように、ぐっと手を握る。

 すると私の目の前に大きな背中が立ち塞がった。父から私を守るように、自ら壁となって視界を遮った背には黒い生地に皇国の紋章が淡く染め抜かれていた。空間の全てを掌握するようなレナルド様の迫力に静まり返った部屋を彼の冷ややかな声が満たした。


「あなたはエルザ嬢を道具か何かと勘違いされているのではないですか?」

「ぶ、無礼な!」

「礼を失したというのなら、エルザ嬢はすでに皇国の人間です。そんな彼女の選択を否定するということは皇国を侮辱したのと同じこと。いいでしょう、ご不満であれば国籍法の規定に基づき国際裁判で戦いましょうか⁉︎」


 エルザはどんな場面でもしたたかに逃げ切ってきた父が、うろたえるのを初めて見た。それほどにレナルド様の迫力には鬼気迫るものがあったのだ。


「そ、そういうつもりはなく……」

「先ほど、あなたはたった二回と言いました。ですがエルザ嬢は人間なのです。たった二回でも耐え難いものはある」


 どうやらマストリーク様は私以上に私のことを理解しているらしい。きっと私はこの人には勝てないだろう……。エルザはそれが悔しくもあり、うれしくもあった。深く息を吐いたエルザは心を落ち着かせてから顔を上げると彼の隣に並んだ。


「ありがとうございます、もう大丈夫です」

「ここは空気が悪い。用は済んでいますので速やかに皇国へ帰りましょう」

「いえ、もし差し支えなければもう少し父と話を。そして最後に家族であった方々に挨拶だけはさせてください」

「それは……。わかりました、あなたが望むのならば」

「感謝申し上げますわ」


 レナルドの迫力に負けた父は完全に黙り込んでいる。まるで叱られた子供みたいだとエルザは苦笑いを浮かべた。


「お父様、ご心配をいただいてありがとうございます。ですがそれは無用なものですわ」

「は、どういうことだ?」

「私、実はそれなりに料理が作れますのよ。洗濯もできますし、お掃除は一番得意ですわ!」

「そんなバカな……一体どこで学んだというのだ!」

「レオニス侯爵家の領地です。片隅に一軒家を借りて、カレンデュラ公爵家から帯同した侍女と護衛に仕事を教えてもらいましたの。二年もあれば結構モノになりますのね!」

「聞いていないぞ、なぜそんな()()()()()ことをしたのだ!」

「そうですわね、まずひとつめの理由は領館に私の部屋が用意されていなかったからです」

「は、なんだって?」

「領館の使用人にはオスカー様がすでに手を回されていて、フローラ様との真実の愛を邪魔する悪役令嬢などと使用人の皆様に呼ばれていましたわ。一応、これでも公爵令嬢のつもりでしたけれど、侯爵家の使用人教育は独特でしたわね。とはいえ、さすがに泊まる場所は必要でしたので最初のころは宿に泊まっていました。ですが、それよりも家を借りてしまったほうが自由もききますし、安上がりだということに気が付きましたの」

「部屋がないだと、婚約者にそんなことをしていたのか?」

「一応、手紙でご報告しましたわよ? お返事はありませんでしたから、おそらくお父様の処分予定の書簡を入れる箱にまぎれているのかもしれませんわね。ちなみに領館にはフローラ様の部屋が用意されておりまして、オスカー様の隣でしたわ。つまり扉一枚隔てた先にある奥様のお部屋ということです。さすがに結婚前から愛人がいるのは侯爵家との契約に差し障るとも思われましたために、取り急ぎ報告いたしました」

「……」

「二つめは、そうしなければ領民に話を聞いてもらえなかったのです。そのくらい領地が荒れていたのですわ」


 エルザの脳裏に荒廃していたころの領地の景色がよみがえる。さすがに華美で贅沢な服を着ていくわけにはいかないからと手持ちでも一番質素な服を着て行ったがそれすら贅沢品であることを知って呆然としたものだ。


「そ、それは。どうしておまえが、そんなことまで……」


 それだけ言って父は言葉を失った。

 さまざまな思いを抱いて誰もが口をつぐむ中、エルザの淡々とした声だけが響く。


「領地が荒れたのは当代のレオニス侯爵が贅沢三昧するために税率を上げたことが原因でした。手っ取り早く税を下げることを進言しましたが侯爵閣下に却下されましてね。婚約者ごときが生意気であるとお叱りを受けました。そこで別の手を使うことにしたのです」


 まずは領民の収入を増やそう、それも侯爵家にはバレないように――――。


「そんなことを、おまえが?」

「はい。しかも幸か不幸か、最後までバレることはありませんでしたわね! 悪役令嬢らしく、婚約者の領地を好き勝手したと婚約破棄される未来も想定しておりましたが、皆様、よほど領地経営に興味がなかったのでしょう」

「なっ、そんな不名誉な理由で婚約破棄だと⁉︎ エルザ、おまえは何を言っているのだ!」

「ふふ、冗談ですわ。とはいえ道のりは容易ではありませんでした。秘密裏に画策するために、まずは土地と人の情報が必要でしたから」


 真っ先に着手するのは税とは別に食糧にもなる農作物を育てること、そして農業以外に収入となる工芸品や特産品といった地場産業を発展させることだ。同時に誰が信用できて、誰が秘密を守れるかを()()()にかける。そのために各種必要と思われる情報を募ったのだが、あまりにもレオニス侯爵家が好き放題したせいで領民には貴族に対する不信感が根深かった。


「なんとか話を聞かせて欲しいと頼み込んだ結果、彼らの提示した条件が領民と同じ場所で暮らすことでした」


 土を耕し、水を汲み。同じ領民であれば情報を渡してもいいと言われたので言葉どおりにしたまでだ。


「どうせ続かないだろうと思われていたようですが、これが意外と面白かったのですよ! 土壌がわかれば育ちやすい植物も予測がつきます。そのうちいくつかを育てて、領民の評判が良かったものを一年かけて普及させました。これが初手ですわね。それから細々と養蚕が行われていたので、公爵家からの資金援助の一部をつぎ込んで生産規模を広げて改良もさせました。まだ道半ばですが、二年もあれば初期投資分は回収できるでしょう」

「養蚕……では最近、無名だが品質の良さが貴族の間で評判になっているという絹糸は!」

「レオニス産ですわね。産地を明かさない代わりに安く出荷しましたの。安かろうが、無名だろうが、絹糸は絹糸です。見る人が見れば素晴らしいものだとわかります。しかも資金は公爵家の援助によるものですから権利は私にあります。持参金とは別の個人資産扱いにすれば直接私が管理できますので、オスカー様やレオニス侯爵には手が出せません。初期投資が回収できたあたりで公表しようと思っていました」


 誰もが呆然として言葉を失った。すでに公爵令嬢という枠を超えている。レナルドは呆気に取られ、でもエルザ嬢らしいとも思いなおした。先ほどまでの不機嫌が嘘のように、いつの間にか自分は笑い声を立てている。やり方は強引だけれど、現実と真摯に向き合う彼女の姿勢がとても好きだな、と思った。


「侯爵家が潰れたとしても資金援助をしてきたという実績もあるので、領地ごと養蚕業も公爵家に引き取ることができるでしょう。どこまで発展させるかはお父様とお義兄様の腕の見せ所ですわね。それから領民は家事に慣れない私にも良くしてくださる、とても優しい方ばかりでしたの。侯爵家に酷い目に遭わされておりますから、統治される際は穏便にお願いしますね」


 エルザが王都と往復しながら住み着いて半年ほど経った頃だろうか。どうやら王都から情報をいろいろと仕入れてきた者がいたようで、ある日近所に住むおばさんから『あんた、王都でも悪役令嬢と呼ばれていたらしいじゃないか。まさか悪事がバレてこの領地に追放されて来たんじゃないだろうね?』と言われたときは、物語を読みすぎだと思わず大声で笑ってしまった。侍女が何事かと飛び出してきたくらいだから相当声が響いたのだろう。近所の人達がぞろぞろと顔を出したので、侍女と共に追放されてきたのではないことはちゃんと説明しておいた。でもなんだか面白くなって、『悪役令嬢のように冤罪で王子様に婚約破棄されたのはたしかですわ!』と答えたら、近所の人から可哀想という目で見られるようになって、そこから私に親切になったように思う。このときばかりは婚約破棄も悪くないかもと思ったが、これは内緒だ。

 とにかくレオニス侯爵家の領地と養蚕業については引き継いだ。あとは優秀な人たちだからエルザの残した資料だけでなんとかしてくれるだろう。満足気にエルザが微笑んだのを確認して、隣に立つマストリーク様は懐中時計を取り出した。


「カレンデュラ公爵に言い残したことはございませんか?」

「ありませんわ!」

「それでは一刻のちに出立いたします。エルザ嬢、心残りがないように最後の挨拶を」


 音もなく、扉が開いた。

 そこにはお世話になった執事長、侍従長や女中頭が沈痛な面持ちで控えている。

 そしてその前にずらりと顔を揃えたのはエルザが悪役令嬢と呼ばれても守りたかった人が……姉と妹二人が涙を滲ませ立ち尽くしていた。


お楽しみいただけるとうれしいです。

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