エルザ・カレンデュラの抵抗
真綿から解放されたベンジャミン・カレンデュラは苦々しい表情でエルザを睨みつけた。ここから先の話は聞かせるわけにはいかないとクレアは自室に下がらせている。テーブルを挟んで向かい合わせに座ると、私の席の隣には私と手を繋いだままブレンダが座った。ブレンダは敵とみなせば容赦ないが、懐に入れた人間にはとことん優しい。クレアの貸してくれた本にも、そんな個性を持った悪役令嬢が登場していたわね。少女が憧れるわけだと、エルザの心がふわっと温かくなった。
「それで、相手の何が不満なのだ。腐っても王族だぞ!」
「腐っているという認識をお持ちだということが問題なのですわ」
なんで相手が問題児だとわかっていて私に押し付けようとするのかしら。
「だが、もはやこの国でおまえの婚約者になれる身分の人間は王弟殿下以外にはいないのだ!」
「私は身分差を気にしたことはありませんわよ?」
「何を言っている! おまえは王子妃教育も受けた公爵家の人間なのだぞ!」
「ですが王子殿下や侯爵令息には悪役令嬢と呼ばれて婚約破棄までされましたわ」
彼らの矜持の前には高度な教育など、なんの役にも立たなかった。
「王弟殿下は離婚歴をお持ちです。婚姻して飽きたら離婚されるおつもりなのでしょう。そうなれば私に残された選択肢はお父様以上の年齢で王妃殿下を亡くされた先王か、修道院ですわね。そんな生き方を私に選ばせたいのでしょうか?」
「そもそも、おまえが第二王子殿下に婚約を破棄されたのが悪いのだろう!?」
「……お父様、ひとつ確認させていただきたいのですが私はお父様の子供ですわよね?」
「そうだ、それが不満なのか! 亡くなった母親もおまえの不甲斐ない状況を知って悲しんでいるだろうよ!」
そうだろうか? 私達の母親は二年前に病気で亡くなったけれど、最後までエルザの意思を尊重してくれた。無理に婚約者を定めずとも、エルザの望むように生きてもいいのだとそう言い残して亡くなった。
「相手の浮気は私の落ち度であるとお父様はお考えなのですね」
「それは……」
「では血の繋がった自分の娘に、自分と同じ歳頃で離婚歴のある男性を薦めるのは実の父親がすることですか?」
「っ、だがそれで丸く収まるのだ!」
そう、この人は父親であるまえに宰相だった。国を一番に考えたときに、現在の王家だけでは実務能力に不安がある。だから若くて知識や経験もあるエルザが王家の近くで公務を支えるという未来が望ましかった。その考えだけで、無理を通そうとした結果がこれだ。能力は認めてもらえたと思うけれど、こうなるとむしろ自分の使い勝手の良さがうらめしい。
娘であるまえに公爵令嬢、父であるまえに宰相――――。今のエルザには、どちらが正しい答えなのかがわからなかった。逡巡するエルザの手をブレンダが強く握る。
「どうしてエルザ姉様ばかりがこんな目に遭わされるのです! そもそも相手の男性達がおかしいとは思われないのですか?」
「不幸なことに、あの場には他国の人間がいた。この件についてどう処理したのかは王家の威信に関わる。騒動を起こしたレオニス侯爵家には早々に借金取りが押しかけていると聞く。あれではもう爵位返上は既定路線だ。取り潰さなくても潰れるだろう。きなくさい噂のあるアルセン伯爵家も遅かれ早かれ処分される。残るは唯一、あの場にいたおまえだけ。巻き込まれたとはいえ、貴族の頂点に立つカレンデュラ公爵家だけが無傷とはいかないのだ」
「つまりカレンデュラ公爵家のために私が泥をかぶれと」
父は口をつぐんだ。沈黙は肯定、ブレンダが青ざめて息を飲んだ。
「父様、正気ですか?」
「もはや、これしか手はないのだ。それともブレンダ、おまえが身代わりに王弟殿下へ嫁ぐか?」
「……!」
「ブレンダ、その問いに答える必要はありません。まったく大人げない、それは明らかに八つ当たりですわよ?」
気まずそうな顔で視線を逸らした父親を冷ややかな眼差しで見つめたエルザは、ふっと目を瞑った。カレンデュラ公爵家当主であるベンジャミン・カレンデュラは現王の宰相、権勢は他家よりも頭ひとつは抜けている。名声と影響力は王家にとっても侮れない相手であった。家を継ぐ長女のシェリー・カレンデュラは司法に強い権限を有する婿を迎え、子宝にも恵まれていることから次代も安泰だろう。三女のブレンダ・カレンデュラはルーク・ベルジェットと婚約しており、彼は伯爵位を持つ大きな商会の跡取り息子。かの伯爵家は歴史は浅いものの商業の分野に強い影響力を持っている。ブレンダ自身も社交界へのデビューはこれからだが、学院での影響力を考えると社交界の誉れ、華となれるだろう。四女のクレア・カレンデュラは悪役令嬢と呼ばれながらも世間の評判は良く、婚約者であるセオドア・リシュリューは伯爵位を継ぐ予定で、彼の背後にはリシュリュー侯爵家がついている。政略を考えれば申し分ない相手だった。
かつて悪役令嬢と呼ばれた長女、現在進行形で悪役令嬢と呼ばれる次女、悪役令嬢の姉を持つ三女、そして悪役令嬢に憧れる四女。等しく悪役令嬢と呼ばれながらも、家になんの利益ももたらしていない娘はエルザだけなのだ。
ならばせめて国のために役立てよう。そういうことかと、王子妃教育を受けた知識と経験がそう結論付けた。
「わかりましたわ。私が泥を被りましょう」
「そんな、エルザ姉様!」
「そうか、それなら今すぐにでも……」
「いいえ、お父様のお手をわずらわせることはございません。自分の身は自分で処します」
「は?」
「私、他国へ参りますわ。二度とこの国へは戻りません」
「ば、バカな! そんなわがままが許されると思うのか!」
わがまま、ね。エルザはすっと手を挙げ、父の見苦しく開いた口を指先で封じた。私こそ男性のわがままに振り回されるのはうんざりなの……というか、いつまでも思いどおりになると思うなよ!
「許されますわよ、私はもう二十歳ですもの。国籍法が適用されますわ」
今から百年ほど前、さまざまな国の思惑が絡み合った結果、協定に参加する近隣四ヶ国の二十歳を過ぎた国民には等しく国籍法という法律が適用されることに決まった。法によれば、全国民にはひとつの権利が等しく与えられることになっている。
それは本人の希望により他国の国籍を取得できるというものだ。提出すべき証明書類は多数あるし、手続きも煩雑で書類審査は気の遠くなるほど厳しいが、代わりに申請書類が相手国に受理された時点で審査が終わるまでは相手国の法により人権と利益が保護される。つまり準国民として相手国には扱われるということだ。ただし、利点もあれば当然のように失うものもある。
「だが、それは家名を捨てることになるのだぞ!」
「ええ、公爵家放逐と平民への降格。立派な処分ではないですか」
「違う、処分するわけではない! 慈悲深い王家が憐れんで新たな婚約先を世話したという実績が必要なのだ!」
「憐れまれるほどの心の傷を負っていませんが、それは置いておきましょう。ではなぜ下位貴族ではダメなのです? 権限を削ぐほうが私への抑止力にもなるし好都合でしょう?」
「……」
「王家としては私の存在が忌々しい。けれど駒としては手元に置いておきたい、そういうことでしょうか」
ああ、面倒くさい。要は王家に嫌われたということだ。
「やはり一回目の婚約破棄のときに第二王子殿下がアレだと正直にお答えしたのがよくなかったのかしら?」
「婚約破棄に至った理由の説明は必要ですし、あの流れでは答えざるを得ませんでしたでしょう? どう考えてもエルザ姉様に罪はありませんわ。それに私もアレな人はちょっと……無理ですわ」
「第二王子殿下ったら否定なさりませんでしたものね。あの場で全力で否定なされば違う潮目もありましたものを」
「運命のお相手すら残りませんでしたものね」
オスカー様との婚約破棄の場で第二王子殿下が青ざめた理由はこれだ。間接的にではなく、直接エルザが手を下した仕返しは後にも先にもこれだけだった。ほんとうに女性をバカにしているわよね。婚約者の予算を運命のお相手への贈り物に使い込んだというならわかるが、まさかアレ関係で注ぎ込んでいるとは思わなかった。ちなみに運命のお相手は、アレだということと、使い込みの罰に巻き添えとなることを恐れて逃げた。
正直なところ、エルザとしては釈明の際に聞かれたから答えただけで不可抗力だったし、このときのせいだとは思いたくないが、やはり王家との間には禍根を残したらしい。
「だが貴族としての義務が……!」
「一応言っておきますが、私は義務を果たしましてよ? 冤罪で婚約破棄してきたのは相手側です」
エルザは指を二本立てる。言ってわからないのなら、わかりやすく視覚に訴えるしかない。進歩しないオスカーの教育で唯一、エルザが学んだことだ。
「一度目は王家の要請に従って、第二王子殿下と婚約いたしました。殿下の指示で書類の決裁と領地の視察、公務に係る諸々の仕事を肩代わりいたしましたわ。運命のお相手に……まあ実際はご自身のためにより多くの時間を割いていたようですけれども、王家の命に従い、仕事をしない殿下に代わって殿下のすべき業務を代行いたしました」
指を一本折った。
「次に資金援助のための名目で結ばれたオスカー様と婚約しました。オスカー様に代わって館の差配だけでなく領地の内政と金銭問題を解決して参りました。妻ではない婚約者であるにも関わらず、です。もちろん貴族の婚約は義務と政略、愛なきものと承知しております。さて愛情の有無に関わらず義務を遂行した私に瑕疵はありましたでしょうか?」
残ったもう一本の指を折る。父の目の前には指の立っていない拳だけが残された。
「ですから三度目はありませんわ」
「……」
公爵令嬢という身分は私に時間と能力を無駄に使わせるばかりで、名誉も守られず、ささやかな幸せすら与えてはくれなかった。それでも父親は、なお食い下がる。
「だが今回は婚約期間も設けず結婚できるのだぞ! おまえは将来、結婚したいと夢を語っていたではないか!」
「将来、素敵な男性と結婚したい、ですわ。いくら身分が高くとも私を食い散らかして捨てるような男性を望んだことは一切ございません」
父は覚えていたのか、母の隣で夢見るように娘が語った言葉を。興味なさそうな顔をして、隣で書類を眺めていただけだったのに……。困ったものだと眉を顰めた私の背後で、ノックの音がした。侍従が客人の訪問を告げる。
「時間切れですわね」
「は、何を」
扉を開けた先にいたのは、近隣国のひとつであるユーザ・ロ・バルディアス皇国の式典服を身につけた男性だった。そして彼の背後には帯剣した兵士が数名控えている。皇国は強大な軍事力を持つ大国であり、我が国――――ラングレア王国よりも経済、文化、その他あらゆる面で優っている。つまり、我が国としては争いたくない相手ということだ。式典服をまとった男性は胸に手を当てると軽く腰を折った。
「ユーザ・ロ・バルディアス皇国の皇室付主席事務補佐官、レナルド・マストリークと申します」
「ラングレア王国宰相ベンジャミン・カレンデュラです」
状況に応じて表情を作り、速やかに態勢を立て直したところはさすが宰相というところか。相手の視線が自分にそそがれるのと時を同じくしてエルザも礼の姿勢をとった。エルザに倣い、ブレンダも同様に首を垂れる。
「ユーザ・ロ・バルディアス皇国、マストリーク公爵家長子レナルド・マストリーク様にご挨拶申し上げます。エルザ・カレンデュラにございます」
「ブレンダ・カレンデュラにございます」
レナルド・マストリーク様は、ふっと口元をほころばせる。
「ラングレア王国のカレンデュラは、いかなる場所に咲こうとも麗しいですね」
他国の人間が、娘達をあからさまに褒め称える。手放しの賞賛を贈るレナルドにはどんな思惑があるのか。ベンジャミンは苦々しい表情を浮かべながら口を開いた。
「して、事前の約束もなく押しかけてきた無礼はどのように申し開きされるか?」
「もちろん、理由はございますよ?」
ベンジャミンの眼前に恭しく書状を掲げた。
「国籍法第八条に基づき、エルザ・カレンデュラ嬢をユーザ・ロ・バルディアス皇国の国民として認めます」
国璽の押された公文書だった。一見して本物とわかったせいか、ベンジャミンは顔色を失う。マストリーク様はさらに畳み掛けた。
「また告知したこの時から国籍法第十五条第二項の人身の保護が適用されます。シシル、エルザ嬢の保護をお願いします」
「承知しました」
応じたのは黒い髪に黒い瞳、浅黒い肌をした明らかにユーザ・ロ・バルディアス皇国の特徴を持っていない女性だった。シシル様は手を差し出してニコっと笑う。
「はじめまして、シシルと申します。私も国籍法によって皇国民となることを選んだ仲間です。仲良くしてくださいね」
「エルザです、こちらこそよろしくお願いします」
柔らかな微笑みにエルザの頬がゆるんだ。微笑み返して差し出された手を握り返す。この女性となら仲良くなれそうだ。エルザを取り巻く状況が明らかになるにつれて、父の顔面が蒼白になっていく。
「待ちなさい、私は何も聞いていないぞ!」
「国籍法は成人と同時に適用されます。つまり保護者の同意は必要ありません」
「っ、マックスを呼べ!」
「ここにいますよ、義父上」
父の後ろからマックスお義兄様が顔を出した。そしてにこやかに微笑んでマストリーク様へ手を差し出す。
「ご挨拶が遅くなって申し訳ありません。マックス・カレンデュラです」
「ユーザ・ロ・バルディアス皇国のレナルド・マストリークと申します。こちらこそ連絡もなくお伺いした身です、お騒がせいたしまして申し訳ありません」
表面上はお互い微笑みながらも水面化ではすでに腹の探り合いが始まっているのだろう。一気に緊張感が高まった。
「続きは別室でお伺いいたしましょう、当家の者がご案内いたします」
「承知しました。ではエルザ嬢、あなたの手をお借りしても?」
マストリーク様の手はエルザをエスコートするために差し出されたものだった。エルザは目を丸くしたけれど、それでも彼の手を取る。鳥の羽のように軽やかに自らの腕にとまったエルザの手を引きながら、マストリーク様は満足げに微笑んだ。
「やはりあなたは素晴らしい女性だ」
「光栄なことですわ」
届出が受理された以上、エルザはユーザ・ロ・バルディアス皇国の国民である。どこまで理解できているかと、覚悟を問われたのだと判断したのだがどうやら当たりらしい。
本来ならエスコートは婚約者の役目だ。だが父は一瞬ギョッとした顔をしたけれど何も言わない。そうだろう、いくら婚約破棄の書類を取り交わしたのではないとはいえ、オスカーが国内外に向けてあれだけ大々的に婚約を破棄したのだ。そのうえレオニス侯爵家は今回の婚約破棄騒動の余波で傾きかけている。いくら資金援助を目的とした婚約であっても、借金を肩代わりするほどの義理もないから見放して公爵家側から婚約を破棄することは必至だ。つまり遅かれ早かれ、婚約は破棄される。そして婚約がなくなってしまえばエルザをこの国に縛り付けるものは何もなかった。
「四年前の夜会以来ですね」
「そうですわね、あのときも大変お騒がせをいたしました」
「あのときも思ったが、ラングレア王国にはなかなかユニークな方が多いようだ」
会話中に突然、マストリーク様は皇国語に切り替えたけれどエルザは難なく応じる。皇国語はその名のとおりユーザ・ロ・バルディアス皇国の母国語で、さまざまな理由からラングレア王国では馴染みが薄い。けれどエルザは睡眠時間を削りながらも必死で皇国語を学んだという自信があった。
皇国語には切り替えたものの、マストリーク様は周囲にも聞こえているのを承知で、ギリギリ不敬にならない言葉をあえて選んで話しているようだ。なんというか、ずいぶんと肝の据わった人だなと思う。
「あのときも驚かされましたが皇国語を流暢に話されますね」
「皇国の方にそう言っていただけると、努力したかいがあったというものですわ」
ラングレア王国と周辺国には自国の言語とは別に外交や商談などで使われる公用語という言語があった。だが公用語はあくまでも仕事の便宜上必要とされる言語だという認識があって、状況によっては自国語よりも一段低く扱われる。より格式の高い式典や重要な会談などでは、あえて相手国の言語で話すほうがむしろ喜ばれた。とはいえ、一口に相手国の言葉といっても難易度には差があって、その中でも皇国語は独特の言い回しが多く数段難しいとされていたのだ。
現在のラングレア王国の王族はこの皇国語を不得手とされる方が多いため、夜会では挨拶の場にエルザが通訳として駆り出されていた。ちなみに、それは第二王子殿下と婚約解消した今でも続いている。
「国籍法では相手国の言語で日常会話を交わせることが条件に入っているが、あなたの熟練度は桁違いだ」
エルザは驚いた。正直なところ、こうして皇国語が話せることを褒められたことなど一度もなかったからだ。いつの間にかエルザが通訳することが当然とでもいうような空気になっていて、王族や高位貴族から感謝されたという記憶もない。その時点でおかしかったのだと、この期に及んでようやく気がついた。
「さあ、あなたの自由と尊厳を取り戻しましょう。私はその手伝いにまいりました」
導かれるように部屋へと入ると、一足先に入室したベンジャミンとマックスが書類を挟んで難しい顔をしている。生きていると不思議なことがあるものだ。家族であるのに、今の彼らはエルザにとっては敵だった。
「あなたを信じますわ」
流暢とされる皇国語で応じるとマストリーク様は照れたように笑った。その表情が優しくて、ほんの少しだけ胸が熱くなる。顔を上げたエルザの背後で扉が閉まった。
お楽しみいただけるとうれしいです。