エルザの反撃 一回戦
「なるほど。それで、こういう手紙が届いたわけか」
「そうだと思います」
想像していたよりは早かったわね。
エルザがユーザ・ロ・バルディアス皇国にきて、ちょうど一ヶ月が経ったときにそれは起きた。
首都アメルティにある官邸の一つにエルザの現在の職場である皇室直轄事務補佐室があった。異議申し立て期間が何事もなく過ぎて、無事に皇国民となったエルザは事務補佐官として同日に着任している。上司である主席事務補佐官はレナルド様、同じ部屋には同僚となる事務補佐官のシシルと他に二名が働いていた。
そんな私の手には、今しがたレナルド様に手渡されたとある文書が握られていた。
「今後一切エルザへの干渉を断つという意味がわかっていてやっているのなら、かなりの大物なのだけどね」
「アウローネ様は発言力と発想力には定評があるのですが、根気のいる作業が苦手なのです。法律などの裏付けをとるような地味な作業は私に丸投げしていましたから、この手紙がどれほどの波紋を呼ぶのか想像もつかないのでしょう。しかも最近は楽することばかり覚えて、お得意の発想力まで磨く努力も怠っておりましたもの。錆び付いてしまえば、こういう発想になるのも必然ですわ。追い詰められて、思わずやってしまったというところでしょうか」
「で、この嫌がらせにつながると」
もはや嫌がらせの範疇にはおさまりませんけれどね。
届いたのは、王太子妃の印が押された皇国への抗議文だった。厳密にいうと宛名はエルザになっているが、王国から私宛に届いた文書は問答無用で開封されるから部屋にいる全員が内容を知っている。エルザとしても王国から届く文書なんてろくなものではないし、国の助力を得て生活基盤を整えている真っ最中だ。さまざまなトラブルを事前に回避するため、国が関与することを当然と理解していた。
「皇帝陛下や上層部の皆様はなんとおっしゃってました?」
「判断は君に任せるそうだよ」
「期待に応えられるかどうかが心配になりますわね」
手渡された文書にはエルザが不法に持ち出したレディ・カンファ用の法案や制度の改正案などを返せと書いてあった。現在の身柄は皇国のものでも、王国にいた当時の知的財産は王国に帰属するものであると言いたいらしい。まともなことを言っているように思えるが、完全に裏付けをとってないな。あとで聞かされるだろう司法局の人間が真っ白に燃え尽きている姿が目に浮かぶ。
「通常の手順どおりに、公的ルートで抗議してください」
「国家間の問題になるが、いいのかい?」
「ええ、私はかまいません。なんでしたら名誉毀損で国際裁判に持ち込んでいただいてもかまいませんわ。間違いなく勝てます」
「その根拠は?」
「出国時に検閲で手荷物検査を受けていますからね。持ち出したというのならその際に見つかっているはずです。それにもっというなら、レディ・カンファ用の案を書くノートがあるのですが、私自ら書いたことはありませんの。書いたこともないものを返せというのは無理があります」
「ちょっと待って、でも君は第二王子の婚約者であったときに案をあげていたのだろう?」
「私の場合は、事前に王妃様とアウローネ様に伝えるようにと言われていました。精査したうえで、気に入ったものをお二人が記しています」
「そこまでか……」
私に直接書かせなかったのは、単純に私が触れるのが嫌だったからだろう。王妃様もアウローネ様も妙にこだわりが強かった。今回のことに限れば、自己顕示欲の塊のような人達で助かったわ。
「書いた記憶も記録もないのに、レディ・カンファ用の法案や制度の改正案などを国の知的財産だから返せと言われても、さっぱり意味がわかりませんわ!」
たしかに私の頭の中には案がいくつかあるけれどね。
それは私のものではあっても、王国のものでは決してない。
「なんでしたら王国側が証拠としてノートを提出していただいてもかまいませんわ。ノートには表向き私のものだとされていたイマイチな政策が王妃様やアウローネ様の文字で書かれているのですもの。それって、まるで私に責任を擦りつけたみたいではないですか!」
少なくとも、まともな判断ができる人ならやらないだろうし、あのノートを神の如く崇めている王妃様が許さないだろう。
「そうですわ、レナルド様。ひとつ私のお願いを聞いていただけませんか?」
「内容によるけれど、まずは聞こうか」
「私信だと問題があるでしょうから、公的ルートで抗議されるときに、私からの回答を添えていただくことはできますか?」
「公的文書に永年残ることになるけれど、それでもいい?」
「ええ、かまいません」
「ちなみになんて書くの?」
「一言でいうと自分で考えたら、です」
「本当、そのとおりなんだよね」
揉めるのもバカバカしいくらいの、どうしようもない言いがかりだった。だから皇帝陛下も好きにしていいとおっしゃったのだろう。だがこの際だからせいぜい利用させてもらおう。
「売られた喧嘩です、言い値で買いましょう! 私に手を出したら、どうなるか思い知ればいいのですわ!」
おほほほほほほ!
豪快に高笑う私の肩をシシルが軽く叩いた。
「落ち着いて、エルザ。完璧な悪役令嬢にしか見えない」
「あら、ごめんなさい。まさか手を出しちゃダメっていうのに手を出す人がいると思わなくて。笑いが止まらなくなってしまったのよ」
「相当たまっていたものがあったのねー、性格変わってない?」
「そうかしら、家族の前ではこんなものよ」
「――――私が家族だって?」
「レナルド様、動揺しすぎだから。それって気を許しているという使い方でいい、エルザ?」
「そうね、そういうことでいいわ」
私はシシルとレナルド様と視線を合わせて苦笑いを浮かべる。王国では気の許せる人は少なかった。気を許せば驚くほど無自覚になんでも奪っていくような人ばかりだったから。
「そんな辛い環境でも、よくがんばったね。はい、手を出して?」
「こうですか?」
「これはご褒美だよ」
レナルド様がエルザの手のひら小さな包み紙を置いた。花の模様の描かれたものが二粒。星の形をしたものが三粒。途端にエルザの顔が花開くようにほころんだ。これは大好きなチョコレートの包み紙ね! 皇国にきてわかったのだが、どうやら私はこの国で流行っているチョコレートというお菓子が好きらしい。
「ありがとうございます!」
「……こちらこそ」
「どいつもこいつもチョロすぎる」
顔をあげるとレナルド様が口元に手を添えて頬を赤らめていた。冷たく言い放ったシシルは心底呆れたような表情を隠さないし、なんでしょうね、この温度差は?
「あっ、僕も欲しいです!」
隣から、ひょっこりと手が出る。無邪気に手を差し出したのはファビアーノ・バドルディ様。同じ事務補佐官でバドルディ子爵家の末っ子。エルザより年齢はひとつ歳下で感情表現豊かでよく話す。茶の髪に黒い瞳、リスとかネズミとかを彷彿とさせるようなちょこまか動く小動物系だ。エルザからすると弟がいたらこんな感じかなと思う。彼はエルザの手に盛られたチョコレートの粒を見て瞳を輝かせた。
「それ期間限定のものですよね、なかなか手に入らないやつ! できれば食べたいと思っていたんですよ!」
「しょうがないな」
レナルド様は普通の丸いチョコレートを一粒、ファビアーノ様の手に乗せる。すると彼は残念そうな顔でエルザの手に乗ったチョコレートを眺めた。
「扱いが違いすぎませんか?」
「エルザのはご褒美だからいいんだ」
「ご褒美なら私にはないのですか?」
「あれ、シシルは甘いもの好きだっけ?」
「いいえ、苦手です」
興味ないとばかり切って捨てたシシルは、さっさと席に戻った。淡白というか、馴れ合いを好まないというのか。この手のやりとりはいつものことなので、レナルド様はちょっと苦笑いを浮かべただけで、机の上に置いてあった書類を手に取った。
「私はこの書類を提出してくる。エルザは抗議文に添える回答を書いたら、あがっていいよ。帰るなら家まで送るからここで待っていて」
「ありがたい申し出ですが、シシルも仕事が終わったそうなので一緒に帰りま……」
「あ、すみません。私は別の用事があったの忘れてました。レナルド様、エルザをお願いします」
すると突然シシルが書類を抱えて立ち上がった。おそろしく記憶力のいいシシルが忘れていたと? いやまさか、そんなことがあるわけ……。するとファビアーノ様がキラキラした眼差しでエルザを振り向いた。
「じゃあ僕がエルザさんを家まで送ります! 一度、エルザさんとお話ししたかったのですよ! 郷土料理の美味しい店があるのでお夕飯をご一緒しませんか?」
弟属性、小動物系かわいい。まだ早い時間だし、食事くらいいいかな……っと思ったエルザの脇を何かがすごい速さで通り過ぎる。何事かと振り向いてようやく視線で捉えると、それはいい笑顔をしたシシルだった。
「ひよっこが……死にたくなかったら私と一緒にきてください」
「は、へ?」
「いいですか、振り向いてはいけません。絶対後悔しますから。声も立てちゃダメです、舌噛みます」
「ひよっこって、歳下ですが一応僕のほうが経歴長いし身分も上でっ、キャーーーーーッ!」
ガタッ、バタン!
小動物系の男性は悲鳴も女子みたいでかわいいのか、と思ったのもつかの間。
気がついたら執務室の扉が閉まっていた。しかも荷物と一緒にシシルとファビアーノ様の姿まで消えている。
「あ、あれ?」
「逃したか」
「へ?」
今、身の毛もよだつようなおそろしい声が聞こえなかったかしら? 声のしたほうを振り向いたけれど、視線の先にはにこやかに微笑むレナルド様しか見えない。ゴシゴシと目をこすっても、やっぱり素敵な笑顔のレナルド様しかいなかった。
「どうしたの、エルザ?」
「いいえ。なんかこう幻聴か……幻覚が見えたような?」
「それは大変だ、疲れているのだね。早く帰って体を休めたほうがいい。待っていて、これを提出してくるから!」
綺麗な顔を心配そうに歪めてレナルド様が飛び出していき、五分と経たずに戻ってきた。息を切らしていることから、急いで戻ってきてくれたらしい。
「こんなに息を切らして、大丈夫ですか?」
「待たせたら悪いと思って、あわてて帰ってきたから」
「それにしても早すぎませんか?」
「余計な手間を省いたからね。いつものほうが時間かかりすぎるというだけだ」
そしてエルザの荷物を持つと労わるような眼差しで手を差し出す。どこをどう見ても、いつもと変わらず紳士的なレナルド様だ。うん、さっきのは気のせいだな。そういうことにしておこう。
エスコートされながら官邸を出て、煉瓦の敷き詰められた表通りを街灯に照らされながら並んでゆっくりと歩いた。柵で仕切られている歩道の車道寄りを歩くレナルド様の横を一定の速度で馬車が通り過ぎていく。馬車の移動音に耳をかたむければ、うるさくもないし、静かすぎるというわけでもない。散策する人間にとっては、賑やかさを演出するちょうどいい音量だ。
「アウローネ様の発案した移動音の静かな客車ですが、私は案自体が悪いわけではなかったと思っているのですよ」
そうつぶやいたのは、アウローネ様の手紙の件が頭のどこかに残っていたからだろう。もう終わったことだけれど馬車の音に引きずられたらしい。レナルド様はそっと私の手を引きながら、抑えた声が聞こえる距離まで体を寄せた。
「理由は?」
「対処する過程で順序を間違えたという可能性に気がついたからですわ」
香水だろうか、レナルド様の首筋からほのかに柑橘系のいい香りがする。好みの香りだと思ったエルザは、次の瞬間、ひっそりと頬を赤らめた。私のためではないのに、一瞬でも好みだと思ったなんて知られたら恥ずかしい。
「順序というのは、たとえばどういうもの?」
「言いかえるなら事前に別の準備が必要だったということです」
エルザは歩道と柵で区切られた車道を、そして表通り全体を指差した。
「ユーザ・ロ・バルディアス皇国ではこれが当たり前の光景ですが、ラングレア王国では車道と歩道の区別がないのが当たり前なのですよ」
「ああ、なるほど。客車を売り出す前に道路整備が先だったと」
「それから歩道には人が歩き、車道は馬車が通るという規則を徹底させるような教育も必要でした」
それらの状況が整っていれば、ある程度は馬車と人が接触するという不幸な事故が防げる。ラングレア王国は道路沿いに柵もなく馬車は道路の真ん中を駆け抜けて、人は馬車に轢かれないよう注意して両端を歩き、道を横切る。長い時間をかけてなんとなくそうなったのだが、よく今まで大きな事故も起こさずに棲み分けてきたものだとむしろ感心した。
「もちろん道路や規則が整備されたとしても事故を完全に防げるわけではありません。ですが、一方的に客車だけが悪いということにはなりませんもの。それだけでなく環境さえ整えれば客車に別の需要を持たせることも可能でした」
「どんなことを考えていたの?」
「免許制にして、講習を受けた人間だけが運転できるようにいたします。そのうえで乗り合い馬車や運転手付きの貸し馬車などの営業許可を与えるのです。免許制にするのですから事故を起こせばそれなりの罰則がありますが、音の静かさと乗り心地の良さで貴族の皆様が手放さなかったくらいですもの。一定の需要は見込めるでしょう」
エルザは深く息を吐いた。寒さで白く曇る吐息が夜の街に溶けていく。
「中興の祖、ガウフ王の妻で賢妃エイレーネが夫の治世を助けるために始めたとされるレディ・カンファ。献策のために案が記されたノートが代々王妃に受け継がれるのは、たとえば道路整備などの長期に渡るものや、今は役に立たなくとも、将来的に必要とされる案があるかもしれないと思われたからでしょう。中身を見せていただいたことはありませんが、きっとそこには道路整備の重要性が説かれているはずです。なぜそういう過去の案を活用しないのか疑問でした」
エルザですら道路整備を真っ先に献策したくらいだ。王妃や王子妃の位にあるような優秀な人達が重要性に気がつかないはずはない。
だが王妃パトレアは却下した。道路という、どこにでもある地味なものに多額の予算をかけるのはもったいないという理由からだ。このときエルザはひどく落胆したことを覚えている。エルザの提案した内容がノートに記されなかったというのは気にしていない。そこは書き手の価値観が働くところだから。だが王妃パトレアの判断基準が王国の未来に必要かよりも、誰もがあっと驚くような提案をしてレディ・カンファを開くことだけが目的になっているように思えたのだ。
「皇国だけでなく、周辺国でも車道と歩道を区別するなどの道路整備が進んでいます。客車を発売するまえに、道路整備が行われていたら? もしかすると客車の評価は変わっていたかもしれないのです。手順さえ間違えなければアウローネ様の案はもっと高い評価を得られたかもしれない。そう思うと悔しくてなりませんでした」
献策の目的は国を良くするためではないの?
エルザはアウローネ様を許せないと思う気持ちの一方で、名誉欲に取り憑かれた人間に、否応もなく翻弄された者同士としての共感も抱いていた。王妃様に仕えていた私達は本来、王妃様の権力で守るべきラングレア王国の臣のはずなのだ。物語のように、使い捨てるために生み出された悪役などでは決してない。
「もちろんアウローネ様が私にしたことは愚かで浅はかですし、許せません。かばうつもりは一切ありませんが、ここまであの方を追い詰めたのは王妃殿下でありレディ・カンファです。あの方だけを切り捨てるという結末だけで、納得いくわけがありませんわ」
たぎる怒りを抑えたためにエルザの声が震える。
耐えがたいのは彼らが私の期待を裏切ったこと――――レナルドの脳裏にエルザの澄んだ眼差しがよみがえった。彼女が国へ寄せた期待を、年齢ゆえの未熟さや甘えと呼ぶには重すぎる。婚約者という立場でありながら国の中枢を担う存在として人並み以上の献身と努力を求められた彼女が、釣り合うだけの見返りを期待するのは当然ではないのか。しかも普通、見返りといえば地位、名誉、金銭などとさまざまなものが浮かぶが、彼女の場合はそのどれとも違った。
彼女が望んだのは、ささやかな幸せ。
こんなにも慎ましく可愛らしい人を、あの国は悪役令嬢と呼び、傷つけたのだ。許せなくて当然だろう……こらえきれず、レナルドはエルザを抱き寄せた。
「レ、レナルド様?」
遅かれ早かれだと思いますけどね。
シシルのニヤけた顔が浮かんだが、さっさと追い払う。レナルドの想像よりは早かったが言葉にするのなら今しかないと思った。彼は腕の中で固まっているエルザを解放すると、向かい合う。逃がさないように両手を軽く掴んで、視線を合わせた。
再び縁がつながった日、レナルドのハンカチを巻いたエルザの手のひらには、もう傷は残っていなかった。傷は癒えていると考えると、やはりちょうどいい頃合いなのかもしれない。
「エルザ嬢、許されるのなら私が君を幸せにしたい。了承してもらえるだろうか?」
突然の告白に、彼女の瞳がまんまるに見開かれる。――――かわいい、子猫みたいだ。
「……ウソ、そんなことって。信じないわ!」
「嘘じゃない、はじめて会ったときからずっとそう思っていた」
「はじめて会ったとき、それは四年前の……」
「本当は、もう少し前だ。君が十六歳のとき、まだ悪役令嬢と呼ばれる前のことだ」
過去を遡るような遠い眼差しにエルザの心臓が跳ねる。
そんな以前から、彼は私のことを?




