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1――熱い体験


 見張りがついていなかったことから、「ウルは自分が生贄になることに気づいていない、と村人たちは思っている」とミツルギは判断していたのだが、どうやらそれは誤りだった。

 ウルは、自分が生贄にされる運命にあるのはすでに承知の上であるということを、さりげなく皆に知らしめていたのだ。


 さりげなく――というのが、この少年の抜け目のなさだ。

 明日にも命尽きようとしているのに、村から逃げ出さず、愚痴もこぼさず、あえて知らぬ振りをして、村長のいいつけどおりに毎日毎日けなげに働きつづける。

 なんのためか?


 ――そう、世話になった村へ恩返しをするためなのだ、と人々は想像する。

 いくら排他的な村であっても、十年以上を過ごしたウルに同情する者も出てくる。

 冬の寒い日、ウルがあかぎれだらけの手で井戸から水を汲んでいるのを眺めて、こっそり涙する女性とてある。


 記憶を辿っているあいだ、<剣聖>ミツルギの口がぽかんと開いていたのも無理はない。


 村に一軒だけある居酒屋に、ウルより五つほど年上の娘がいた。

 そばかすの目立つ愛くるしい笑顔に豊満な肢体が、看板娘としての人気を集めていた。

 あるとき、長のいいつけで酒を買いにきたついでに、ウルはそのキャシーという娘と世間話をした。

 ちょうどひと月後が、キャシーの誕生日だった。

 なにか欲しいものはないかとウルは尋ねている。


「あら、素敵な殿方。あなたがプレゼントしてくださるの?」


 キャシーはセクシーな仕草でふざけてみせた。


「いいや。キャシーさんにプレゼントしたい男は大勢いるからさ、ここで欲しいものを聞きだせたら、情報として高く売れるんじゃないかと思って。そうやって男どもからせしめたお金で、いち早くおれが目当てのものを買う、っていうのはどうかな?」

「まあ。抜け目ない。とってもあなたらしいわ」


 キャシーは、ウルの知性に富んだ冗談を喜んだ。

 あとで知ることだが、ウルはこうした側面を特定の相手にしか見せなかった。

 特別扱いされれば誰しも喜ぶ。


「野郎どもが悔しがる顔が目に浮かぶようだよ。余ったお金は来年のぶんに使おうかな。ああ、ひと月後が楽しみだなあ」


 そんな風にはしゃいで見せたウルだったが、ふと、表情を暗くさせて頭を垂れた。


「どうしたの?」


 キャシーの問いかけに「なんでもない」と無理に笑ってみせる。

 すると、酒屋の看板娘ははっと青い目をみはった。

 自分には当たり前のようにやってくるひと月後を、ウルはひょっとしたら迎えられないかもしれない、という事実にいまさらながら気づいたのだ。

 そして来年の誕生日となると、もう確実に――。


「キャシーさんこそ、どうして泣くのさ」


 ウルはなにも知らない振りをして、自分も涙目で問いかける。

 もともと情の深い娘なのだろう、キャシーはたまらなくなった風に「ああ」と呻いて、ウルの背中を抱きしめた。


「キャシーさん、こ、こんなところ、誰かに見られたら」


 狼狽して、抗うそぶりさえ見せたウルだったが、いまのいままで懸命に抑えていた感情がここに来て爆発した――というような芝居をして、自分もキャシーにしがみついて大声で泣きはじめた。

 ウルは、この日、この時間、居酒屋を経営するキャシーの両親が留守なのも、当然承知していたはずだ。

 二人は、二階にあるキャシーの部屋へと向かった。


「あ、あの、キャシーさん、おれは……」


 顔を真っ赤にしたウルの唇に、キャシーは人差し指を突きつけた。


「なにもいわないで。今日は、なにも怖がらなくていいの。今日だけは……」


 ウルは熱い女の素肌に包まれた。

 村のために命を捧げるさだめにある少年の、それは心安らぐ貴重な一瞬だった。

 しかし。

 ミツルギは、この場面にまつわるあまたの記憶を見ている。


 ウルがこのときすでに荷造りをととのえていることも知っていた。

 同情的な村人から貰った食べ物を保存が効くように加工したり、村のごみ捨て場にあった古い衣服などからまだ使えそうなものを見つくろって、村長邸の納屋にあった背負い袋に詰め込んだりしていた。


 そう。

 ウルは、村のために運命を受け入れた、健気で哀れな少年をよそおいながらも、その実、寸前で逃げ出すつもりだったのだ。


 石で自分を傷つけていたのは、


(ああ、あんな境遇にあったんなら逃げても不思議ではない)


 と村人たちに思わせるためだろうし、キャシーにひと芝居打ったのは、女性とのある種の体験がこの村に残した数少ない未練のひとつだったからか。


(この小僧)


 ミツルギはウルのことを「頭がよい」と評したが、純朴そうな見た目にもかかわらず、というていどの意味であって、まさかこれほどまでに悪知恵が働くとは思いもしなかった。

 <剣聖>は舌を巻くとともに、肉体の本来の主に猛烈な嫌悪を抱いた。


(純粋な子供かと思えば、とんだ小悪党だ)


 ウルはもうほとんど下準備を終えていたらしい。

 万端ととのった背負い袋をベッドの下に押し込んでいたのが、ミツルギと出会う直前――、つまりは数時間前だ。

 さぞ心晴れやかだろうと思いきや、しかしウルの感情にまだ整理しきれないしこりが残っているのにミツルギは気づいた。


(まだ、ほかに抱きたい女がいるのか?)


 ミツルギが嫌悪を上塗りしたのは、そのしこりに焦点を絞ったとき、キャシーとは別の女性の姿が見え隠れしたからだった。

 エリンというあの娘だ。

 彼女にまつわる記憶の表層に触れたとき、ウルの感情は複雑なかたちで波打った。


 キャシーのときのような、火傷しそうなほどに熱い、若さゆえの情欲とはちがう。

 思春期にだけ抱く、情欲とは無関係なほどに清くも淡い恋心――に似ているが、ミツルギの経験上、それとも形がちがっているように思える。


(いや、小僧の思春期などはどうでもよい)


 いまの<剣聖>には用のない記憶だ。

 気持ちを切り替えて、今度こそ硬貨の出所を探るのに集中しようとした。

 しかし、


「ぬう?」


 ミツルギは低く声を発した。

 振りはらったはずの記憶のほうからまとわりついてきて、いっかな離れようとしないのだ。

 それほどウルには執着のある感情であったか、膨大な量の記憶が流れ込んできた。

 これまでとは比べものにならない。

 それは大波のように立ちあがって、崩れる波頭はミツルギのはるか頭上にあった。


(い、いかん!)


 ミツルギは本能的に危機を察した。

 これは、ひょっとして魂の融合とやらがはじまったのではないか。

 いいや、そんな生やさしいものではない。

 このまま記憶の奔流に呑まれれば、きっとミツルギの意識などは丸ごとウルの記憶に塗り替えられてしまうだろう。

 <剣聖>として生きた記憶などは欠片として残されない。

 これは融合などではなく、ただ一方的な、本当の意味での『死』。


(なんと)


 ミツルギは、ウルていどの魂などはすぐ支配下におけると考えていたのだが、やはり本来の肉体に紐づけされた魂の主張は激しかった。

 そもそも「ウルていど」といっていたが、魂の優劣などどうやって測るというのか?

 いかに百戦錬磨の<剣聖>とて、「他人の記憶に抗う」戦いなどは、無論、経験したことがない。


「ええい――」


 未曾有みぞうの危機に直面したミツルギは、次の瞬間、一見するとまるで意味のない行動に出た。


 窪みの内側に転がったままになっていた刀を、ふた振りとも拾いあげたのだ。

 <剣聖>ならば確かに剣こそが唯一にして絶対の武器だろうが、しかし現在の彼が直面しているのは肉体を傷つけあう種類の戦いではない。

 心の内側での戦いだというのに、刀という物質がなんの意味をなすだろう?


 ミツルギとてなにか目算があるわけではなかった。

 これは身体に染みついた、いわば本能的な動作にすぎなかった。

 本来の肉体でないのに「身体に染みついた」というのもおかしいが、ほかに表現のしようがない。

 刀の柄に触れたそのとき、ミツルギの流動的な心に確固たる芯がぐさりと通った。


 心といわず、世のなかのあらゆる現象や出来事が流動的だ。

 ミツルギにとって、しかし剣だけはちがう。

 剣によって大いに迷わされ、大いに惑わされこそすれ、しかし剣という物体そのものは偽らざる、まぎれもない実体なのだ。


 急流に流される子供のように頼りなげなミツルギの心から、ふた筋の光のごとく延びた剣は、世界の中心に深く突き刺さって、それはミツルギ本来の肉体よりもよほど確かな軸足となり、記憶の奔流に呑まれんとしていた<剣聖>の心をもしっかとその場につなぎとめた。


 すると、渦を巻くウルの記憶の中心部分に、轟々と立ちのぼる火が見えた。

 神殿の天井を支える柱よろしく立ち並んだ火柱の合間に、女性の後ろ姿があった。


(だ、誰だ?)


 <剣聖>をもっとも困惑させたことに、こちらを――つまり記憶のなかのウルのほうを――振り向いたのは、キャシーでもエリンでもなく、また別の女性だった。

 うっすら赤みを帯びた焦げ茶色の髪と目は、ウルと共通している。

 意志の強そうな眉は、エリンに似ていなくもないか。


(そうか、小僧の姉か――)


 うっかり触れれば心さえ火傷してしまいそうな大火の向こうに目を凝らそうとした、そのときだった。



「あの小童、遅すぎるぞ。本当に父の居所を知っているのか?」



 雷鳴のように鳴りひびく声があった。

 ウルの記憶ではない。

 現実に聞こえてきたものだ、と気づいて、ミツルギの――というよりウルの両目が開いた。


 いまの声を、ミツルギが聞きまちがえるはずがなかった。

 受けた衝撃の大きさゆえか、あれほど膨大だった記憶の波があらかた消失している。

 足音がこちらに近づいてきていた。

 草葉を踏みしめて、ぬかるんだ地面に沈んでは浮上する足の数は、およそ二、三十。


「適当なことをいって、金だけ持ち逃げするつもりだったかもしれん。アモス、皆をつれて周囲に散れ。こっちは、おれとクレハだけでいい」


 ミツルギは四方に目をやった。

 一刻も早く遠ざかるべきだ。

 しかし、なぜ、いったい……『彼ら』はここを突き止めることができたのか?

 その疑問はすぐに晴れた。

 先ほどからミツルギが無意識のうちに探っていた硬貨の出所にまつわる記憶が、まさしくその答えだったからだ。

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