6――融合
ウルはとっさに蛇を払い落とそうとしたが、やはりミツルギに動きを制せられてままならない。
ぶ厚い胸板に肘を固定されていて、そもそも力が入らないのだ。
なお蛇は牙を立てている。
ウルに痛みの感触はほとんどなかったが、代わりに身体が急速に火照ってくるのを感じた。
早春、山の冷気にさらされているというのに、汗ばんでくるほどに暑い。
ウルの身悶えが激しさを増した。
暑いどころではなかった。
血管を直接火であぶられて、沸騰寸前まで血が煮え立っているかのようなのだ。
「は、放してくれ――、は、はははなせっ」
熱のせいで舌がもつれる。
身体に火がついてしまわないのが不思議なくらいだ。
ウルは汗みずくになりながらミツルギの胸を押しかえそうとしつづけていたのだが、次の瞬間、腕に込めていた力が突如として行方を失って、自分のほうからミツルギに身体を密着させる形となった。
「なに……?」
頭がくらくらしてきた。
ついには汗も蒸発してきたのか、ウルの視界に白い蒸気が立ち込めはじめている。
その、白濁とした視界に、信じられないものが飛び込んできた。
腕が溶け落ちている。
朦朧としかかっていたウルも、さすがにぎょっとなった。
相手の胸を押していた腕の、肘から先の部分がいつしか形を失って、肉色の粘液を数本引きながら太腿のあたりまでだらんと垂れ下がっていたのだ。
腕だけではなかった。
見る見るうちに、まだ形を保っていたはずの肘の部分が、肩が、胸が、張りを失っていって、形を維持することさえできなくなると、水を浴びせられた泥人形さながらに溶け崩れていく。
「あ……あ……」
もう、声すらまともに発せられない。
おそらくは――とウルは熱にうなされながらおぼろげに考えていた。
顔の部分でも崩壊が起きているのだ。
口も、鼻も、そして目も。
その証拠に、ほら、白く霞んでいたはずの視界が、今度は黒く閉ざされていく。
意識を失う寸前、ウルの脳裏に鮮烈な色あいをもって浮かんできたのは、このまま全身が液体状になって、蛇にひと呑みされる自分の姿だった。
――一方の、ミツルギ。
ウルが熱を自覚しはじめたときには、ミツルギも同じ体験をしていた。
白蛇の、ウルに噛みついたのとは反対側の頭部が伸びあがって、同じく喉もとに牙を立てられていたのである。
身体が溶けるほどの熱に苛まれて、さしもの<剣聖>も呻き声をあげた。
しかしウルのように抵抗はしない。
ウルの身をしっかと固定したまま、目を閉じている。
吹けば消えそうな命の火を、これが最後とばかりに真っ赤に燃え立たせながら、<剣聖>もまた、夢うつつの境目を漂っていた。
巫女シシーの最後の一礼がふたたび浮きあがったかと思うと、地面に倒れ伏した女の姿が脳裏をよぎった。
衣服も顔も、紙のように白い。
鮮やかな斬り口を覗かせた胸もとばかりが、目に染みるほど赤かった。
<剣聖>の顔に苦渋の皺が刻み込まれた。
見まいとしても、同じ色の雫を垂らした刀が傍らに見えるのはどうしようもない。
握っているのはミツルギ自身の手。
(ぐううっ)
ミツルギの食いしばった口もとから白い泡が吹きこぼれた。
こめかみに浮いた太い血管が揺れた。
いや、すでに全身がおびただしく痙攣している。
絶命寸前の状況に追いやられたミツルギが最後に見たものは――、
(待っているぞ)
白々と夜空を染めた稲光を背に、笑いかける男の姿だった。
(待っているぞ、ミツルギ)
(待てっ――)
ミツルギは喉も割けよとばかりに吠えたはずだったが、自身の声すら遠い。
(わしは……おれは、おまえとはちがうぞ。おれは……おまえは……)
やがて。
ウルとミツルギ、双方の身体が地面に崩れ落ちた。
どろどろとしたひとつの粘塊に溶けあった――というのではない。
実際のところ、ウルの五体に形を失った部分はどこにもなかった。
ウルが見て、体験したのは、ただの錯覚だったということか。
雨粒がぱらぱらと草葉を打つ音が途絶えだすと、にわかに風が強くなりはじめた。
黒々とした雲が風に散らされて、欠片ごとにびょうびょうと吹き流されていく。
すると、陽が没する直前の、淡い光が地表一面を照らしあげた。
そこかしこの水たまりに血がにじんだような朱色が乱反射するなか、むくりと顔をもたげる影があった。
絡みついていた別人の手足を解いて、ゆっくりと腰をあげる。
倒れ伏していた二人のうち――、それはウルのほうだった。
やはりゆっくりと息を吸って、吐き出す。
何度か呼吸を繰りかえしたのち、窪みから身を出して、薄紫色の空を見あげた。
数分。
ウルはそれからしげしげと自分の両手を眺めた。
「おお。両の手がある。指がある」
ごく当たり前のことをつぶやいたのち、
「成功はしたらしいが……、まこと奇妙なものだな。他人の身体というのは」
ウルは不可思議なことを口にした。
それは、『秘術』の成功を意味するものだったろうか。
すなわち、瀕死の身体を古くなった外套のように脱ぎ捨てて、ウルの新鮮な肉体にミツルギが魂を移し変えた――という意味なのか。
本来はこの『秘術』、複数の魂を融合させるためのものだ。
ただしそれは、蛇廻教が、経験と知識を代々継承させていくという目的を持っていたからであり、ミツルギ自身に魂をずっと持続させておくつもりなどはない。
巫女シシーは、
「魂の性質によるものか、同じ器に入った魂はおのずと融合を図る。そしてそれに失敗した場合、双方の自我が崩壊する」
と口にしていたが、いまのところ、ミツルギのなかにウルの自我が入ってきたという実感はなかった。
「やはりか」
とミツルギは不敵な笑みを少年の顔に浮かばせながらいった。
なにもかも心得ていたような態度であるが、実のところ、「やはり」といえるほどの確証はなかった。
ただ、巫女シシーがこうもいっていたのをミツルギは記憶していたのだ。
「魂にも性質がある」
と。
肉体が人それぞれ異なるように、魂にも固有の性質があるのだと。
この世にひとつとして同じものは存在しない。
であれば、肉体に力の優劣が存在するように、魂にも『魂なり』の優劣があるということではないか?
力量、才覚、格式――。
魂のそれをどう判断するかなどはさしもの<剣聖>にもわからないが、しかし、
(わしが、田舎村で生贄として生を終えるはずだった小僧に、力であれ、魂であれ、負ける道理がない)
そんな確信だけはあった。
(蛇廻教では、魂を融合させるという目的を持って、皆が皆、同じ価値観を抱くようにしつけられてきたようだ。近親交配を繰りかえしてきたから血も濃いだろう。しかし、わしと小僧とはまったくの他人。しかも魂の格式とて異なるはず。したがって、いかにシシーがいうように、『魂が融合を図ろう』とも、わしならば、本来の魂を押しのけてでも、肉体を思うがままにできるのではないか?)
根拠の薄い危険な思い込みでしかなかったが――あるいはそう思い込まざるを得ないほどにミツルギが追い込まれていた証拠でもあるが――、実際、<剣聖>が思うとおりの状況になっている。
では、ウルの本来の魂はどこへいったのか?
ミツルギは窪みに倒れている人影のほうを見やった。
「ほっ」
と思わずおかしな声が洩れる。
自分の亡骸を眺めるとは、他人の身体に宿ること以上に奇妙な体験だった。
そう、傍目にも、横たわったミツルギ本来の肉体に生命が宿っていないのは明白だ。
すでに風前の灯にあったのに加えて、『秘術』による負荷が止めを刺したのだろう。
まさか、魂が交換されて、あの亡骸のほうに少年の魂が宿ってしまったのだろうか?
いや、シシーの説明にそのような現象はなかった。
現在のところ、ウルの魂は同じ肉体にはあっても、眠っているような状態にある、と判断したほうがよさそうだ。
……が、無論、いかにミツルギの魂が『優れて』いようとも、いつまでもそのような状態でいつづけられるとは限らない。
「なら、急がなくてはなるまいよ」
ミツルギは指を開閉させながらつぶやいた。
ウルの自我に邪魔される前に――どのていどの猶予があるのか、皆目見当もつかねど――ひとまずできることを片づける。
胸の奥で心臓が高鳴っていた。
血の巡りが速い。
手足や腰、首の動きはもちろんのこと、呼吸のひとつにいたるまで、なにもつっかえるところがない。
若さだ。
もうひとつ息を吐いて、ウルの姿をしたミツルギは、ぬかるんだ地面を歩きはじめた。
その一歩目で、すっころんだ。
前のめりの姿勢で、泥まみれになる。
一瞬、ぽかんとしたような顔をしたミツルギだが、すぐに身体の奥から笑いがこみあげてきた。
古来より神に伝えられし『秘術』をなした元英雄の第一歩が、なんと無様なことか。
身体が若がえれば気持ちもついていくものらしい、屈託もなくこんな風に笑ったのは何年ぶりのことだろう。
ひとしきり笑ったあとで、
「急がなくてはなるまいよ」
仕切りなおしとばかり、もう一度そう口にしてから、立ちあがった。
いや、立ちあがろうとしたのだが、今度は後ろ倒しになった。
「な、なに?」
ミツルギは本格的に呆然となった。
ウルの身体に支障があるわけではない。
実際、ウルはこの山中をものともせずに駆けていた。
だというのに、年老いていたミツルギ本来の身体よりもよほどガタがきているかのように、まったくもってままならない。
「ええい」
ミツルギは自分に活を入れてから、両手で地面を押し放しつつ、足腰に力を加えた。
が、どちらの勢いも大きすぎた。
またも前のめりになる。
「こ、これは」
察しがつきはじめた。
いうまでもなく、『これ』は他人の肉体だ。
長年慣れ親しんだ――どころではなく、それこそ魂に紐づけされていて、『それ』以外知りようもなかったミツルギ本来の肉体とは、まるで異なる。
年齢だけではなく、身長も体重もちがう。
腕の大きさがちがう。
脚の長さがちがう。
ということは、関節の位置や重心にも、大きな差異が生じるということだ。
本来の肉体のとおりに動かそうとしても、ままならなくなって当然だ。
「くそっ」
ミツルギは憤慨したくなる気持ちを懸命に抑え込んで、今度は慎重を期した。
いままでなんの気もなしにできていたことを、あえてゆったりと、ひとつずつの手順を頭で確認しながら、関節をそろりそろりと曲げて、じっくり時間をかけては体重を移動させていく。
なんとか立ちあがることができたのは、転んでから実に十分後のこと。
それだけでもう、呼吸が荒い。
さらには、一歩目を踏み出そうとすると、すぐに均衡が崩れそうになる。
あわててミツルギは近くの木にすがりついた。
ミツルギは肩で息をしながら、目の前が、本来の暗がりとは質の異なる闇に包まれるのを感じた。
(これでは、剣を取るどころではないわ)
「い、いいや」
ミツルギは弱気になりかけた自身を叱責した。
放っておけば、すでに絶えていた命だ。
ここで息を乱しながら苦難の只中にあるという事実、それこそが、本来であればあり得なかった『未来』へと歩みを進めている、なによりの証ではないか。
そんな風に思考を速やかに切り替えられたのも、若い肉体を得たゆえだったか。
いったん木から手を放して、均衡を保つよう意識する。
何度かその場で跳躍してみた。
最初は恐る恐る、しかし次第に高く、大胆に。
よし、とミツルギはうなずいた。
まだまだ本来の感覚にはほど遠いが、立つのにも苦労していたときとと比べれば、この短いあいだでだいぶ進歩したではないか。
それに勇気を得て、そろそろと歩みを進ませようとしたとき、腰の辺りにふと硬い感触を覚えた。
よく考えもせずにポケットからひとつつまみ出してみると、銀色に光る硬貨だった。
ポケットにはまだ大量に入っている。
ミツルギの、いやウルの目が細くなった。
片田舎の少年がおいそれと持ち歩くような額ではない。
そもそも、外界から遮断している村落で、硬貨がどれほど流通しているものか?
と――、
突然、その硬貨がまばゆいほどの光を放ったので、ミツルギは大きくよろめいた。