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10――事象


(待て!)


 その寸前、荒々しい声が飛んできたかと思うと、あたかもマリーの覚醒を未然に防ごうというように、『現実』と『意識』の境目に次々と<火>が舞い降りてきた。

 <火>は見る間に人間の男女の姿になっていき、伸びてくるそれらの手がマリーの四肢をがっしと中空に固定した。


(どこへいく?)

(いかせはしないわ。いいえ、あなたにいくことはできない。あなたが本心で望んでいる<火>はここにあるのだから)


 <火>は絶えず移ろい、数十、数百もの人間の姿を代わる代わる映し出しながら、マリーの意識に語りかけてくる。

 意志の強さがそのまま<火>の熱さだというのか、本物の火に取り囲まれ、じりじりあぶられているような錯覚に陥って、マリーはめまいを起こしそうになった。

 ここぞとばかり、『彼ら』の記憶がどっと雪崩を打って押し寄せてくる。


 槍で貫かれる痛みが腹部を襲った。

 矢で頭を射ぬかれること数度。

 それこそ炎で焼かれる苦しみも味わった。

 物理的な痛みだけではない。

 家族や友人を何百人と失った。

 マリーの目はふたたび閉ざされた。

 その目尻からすうと涙がこぼれ落ちる。


「わかるよ――わかる」


 マリーはしゃがれ声でいった。


「痛かったよね、悔しいよね、苦しいよね。全部、あたしにだってわかるよ」


 手が自由になるなら、『彼ら』を抱きしめたかった。

 本心だ。

 それが伝わってか、<火>の強さが少しだけ減じた。


(おお)

(応えてくれたか)


 <火>の人間たちが喜びの声をあげたのは、マリーの身体からこれまでにない勢いで<火>が立ちのぼったからだ。

 もともとガカルハイデから放たれていた<火>とつながっていたそれは、マガツ神にさらなる力の融合を約束した証のようなものだった。


(よくぞここまで)

(おお――)

(お?)


 <火>の人間たちの姿が遠ざかった。

 いまのいままでひとつに結びあっていたそれぞれの<火>が、突如異分子と化して反発を招いたかのように、互いを凄まじい強さで弾きあったのだ。


(ま、待て)

(なにをするのっ!?)


 ガカルハイデはふたたび輪郭の一部を崩れさせると、形の定まらない<火>となって、マリーの頭上からさらなる勢いで覆いかぶさろうとする。

 しかしそれを受けてなお、マリーの<火>は別種のベクトルで膨れあがった。


(なぜ、なぜだ)

(わしと想いをいっしょにしてくれたのではなかったか?)


 『彼ら』のあげるどんな誘惑の声も、『彼ら』の伝える痛みも苦しみも、もうマリーの意志を決定づけはしなかった。

 なぜならば、


「あたしは、わかるよ。そういっているだろ?」


 マリーは『彼ら』に反発しているわけではないからだ。

 すべて呑み込んでいる。

 そのうえで、マリーは『彼ら』とのあいだに一点のみ、大きく異なる部分を認めていたのだった。


「痛かったのも、苦しいのも、復讐を果たしたいのもわかるって。でもさ、でもね……これ以上、お婆ちゃんを巻き込むなよお!」


 マリーは一段と高い声で吠えた。

 小柄な身体のどこからというほどにあふれかえった<火>が、ガカルハイデの伸ばしていた<火>を迎えて、互いが互いに渦を巻こうというように絡みあう。

 不定形の炎が互いに喰いあうさまは、猛獣の取っ組みあいにも似ていた。


「大事な人を失ったんでしょ、悲しいんでしょ、苦しいんでしょ。でも、いま、あたしから大事な人を奪おうとしているのは、あんたらじゃないか! あんたらがどれだけ痛い思いをしてたって、あたしからお婆ちゃんを取りあげる理由になんてならないから!」


 マリーが泣いているのは、まだ『彼ら』に体験させられた喪失の記憶が尾を引いているからだ。

 それこそが引き金だった。

 まだ個人としての人格を残していたマリーは、『だからこそ』祖母を失うわけにはいかない、という意志を新たにさせられていたのだ。


「あんたらが……あんたらの……痛さがわかるからさあ、なおさら、あたしは守りたいんだよっ!」


 マリーの<火>が膨張する勢いにたじろいでか、ガカルハイデのほうからむしろ<火>を引いた。



(あ)


 とこのとき誰にも聞こえない声を漏らしたのは、<剣聖>ミツルギ。

 彼は、当然目の前の事象すべてを見ていた。

 ウルが放った<風断ち>がマリーの肉体を素通りし、ガカルハイデの<火>に命中。

 そのわずかに穿たれた穴を押し広げるがごとくにマリーの<火>が膨張。

 マガツ神はそのためにいったん力を引きざるを得なかった――ように見えた。


 しかし、そもそも<火>の力でいうならば、当然、おびただしい怨念が寄り集まったマガツ神のほうが、マリーのそれよりもはるかに上まわっているはずだ。

 いくら隙をいたとはいえ、マガツ神のほうが引いた明確な理由にはならない。


(マガツ神が人の心を同化させて取り込むというなら、心の戦いという土俵上では、逆もあり得るのではないか)


 最前述べたように、マリーは『彼ら』を拒絶したわけではない。

 むしろ、ある一定以上同化させられたからこそ、守らねばならないものが現存しているマリーに強い意志の力を与えた。

 この経緯すべてを<剣聖>が理解できたわけではないが、ガカルハイデがたじろいだ姿を見るに、


(そうだ。あの娘の放った心が――、逆に、ガカルハイデを構成している怨念の一部を同化させたのではないのか?)


 同じ血族であるからこその現象なのか、あるいは<風断ち>という世界に変化をおよぼす技の影響もあったからなのか、それもまた理解の範囲外ではあるものの、マリーの強い意志に<火>の一部を同化させられたガカルハイデは引かざるを得なかった、という推測はまちがっていないように思う。


(マガツ神に関してまだ学ぶ猶予ゆうよがあったとは。これは……)


 ミツルギは慨嘆がいたんさせられると同時に、どこか興奮したような笑みを浮かべた。

 うっかりウルが覗き見ようものなら警戒を強めかねないほど、それは常人の感覚では受け入れられない笑みではあったのだが、このときウルはどうしていたかというと、もちろん<剣聖>のような複雑な考え方はしなかったし、心の同居人のほうをうかがう余裕もなかった。

 ウルは<風断ち>を放ったばかりの刀を手に、駆け出していた。


(待て?)


 ミツルギはわれにかえってウルに呼びかけた。

 なにをするつもりなのか、<剣聖>にも計りかねたのだ。

 ウルのほうに注意を戻した瞬間、ミツルギが――何百という戦いの場を生き抜いてきた<剣聖>ほどの男が、このとき、声を失うほどに驚いた。

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