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9――選んだ道のさきに


(あっ)


 またも、面前に風刃が迫る一瞬。

 マリーの内側で、記憶の一場面がよみがえっていた。

 『彼ら』と共有しかかっていた記憶ではなく、マリー本人の記憶だ。

 ウルが、個人としてのマリーをつなぎとめた成果だったか。

 脳裏に自然と浮かんできたのは、二年ほど前のこと。

 いつものように祖母の家へ遊びにいったとき。


「お婆ちゃんは悔しくないの?」


 その夕べ、マリーは胸に渦巻いていた感情を祖母にぶつけた。


「悔しいって、なにが?」


 食後のお茶の準備をしている祖母ののんきな声に、マリーはますます怒りをあおられて、


「お婆ちゃんは大勢の人を守るために、命懸けで悪い神さまと戦ったのに、王国人はまるでお婆ちゃんこそが悪い魔女みたいにいってさ。村のみんなだってそうだよ! さんざん英雄だって持ちあげてたくせして、王国人に目をつけられると、お婆ちゃんひとりを追い出そうとしてさ! みんな自分勝手すぎるよ。ねえ、お婆ちゃんは悔しくないの? 悔しいでしょ? だったらどうしてなにもいわないの? どうして誰にも怒らないの?」


 これまで溜め込んでいたぶんを解き放ったついでに、感情の矛先が祖母その人に向いてしまった。

 アネッサは困ったように微笑みながら、カップを二つテーブルに置いた。


「わたしのぶんは、マリーが代わりに怒ってくれたわ。それで十分。だからもう、マリーもみんなに憎まれ口を叩くのはおやめ。わたしはなんであれ、争いごとは苦手なの。だから自分で村を出ると決めたのだし、そのためにマリーがみんなと争うなんて本末転倒だわ」

「だって、だって!」


 マリーは膨れっ面になって駄々をこねた。

 いろいろなことが限界寸前だった。

 村をたまに訪れる王国人兵士の横柄な態度も、彼らが村人を見るときの、どこか恐れるような、あるいはさげすむような視線も、そして、つとめてアネッサの話題を出そうとしない村人たちの姿勢も、アネッサのことをはっきり厄介者扱いした族長の言葉も――、幼いマリーには耐えがたいものばかりだった。


 もちろんこういう性格のマリーだから、王国人兵士の屯所とんしょに捕まえたネズミをひそかに放ったり、族長の家の壁に釘で落書きしてやったりと、マリーなりの『復讐』はすでに何度となくおこなっていたのだが、それで気が晴れることなどない。

 ついには、


「だったらいっそ、お婆ちゃんたちが倒したマガツ神がもう一度よみがえったらいいんだ。そこらじゅうで悪いこといっぱいしてさ。それでみんな困ったら、お婆ちゃんの偉大さがもう一度よく理解できるから!」


 そんなことまでいって、祖母その人を怒らせてしまった。

 いつになく怖い顔で声を荒らげたアネッサにおびえて、そして悲しくて、マリーは大泣きした。


「ああ、ごめんなさいね、マリー。わたしのために怒ってくれていたのに」


 アネッサはすぐに態度を和らげて、マリーを抱きしめると、膝の上に孫の頭を乗せてやった。


「でもね、マリー。もうあんなことは一度きりで十分。みんなとても怖い思いをしたのよ。つらいこともいっぱい経験した。そう――きっと、みんながわたしに対して複雑な思いを抱くのも、そのためなんだわ」


 ぐずぐずとはなをすするマリーの頭を優しく撫でてやりながら、アネッサは遠くへ語りかけているような口調でつづけた。


「でもそれでいいのよ。わたしはなにも、みんなにチヤホヤされたくて戦ってたわけじゃないから」

「じゃあ、なんのために?」


 まだ感情のしこりを取り払えなくて、マリーが涙目で聞くと、


「さあ、なんのためだったかしら。戦っていたときの気持ちまでははっきりと思い出せないけど――、そうね、きっと、幸せな未来のためよ」


 マリーは祖母の膝の上で小さく身じろぎした。

 <火の魔女>が必死の思いで戦いながら夢想したであろう未来に、いまの祖母がいるとはとても思えなかったからだが、


「そしてそれは、かなえられた」


 祖母の断言に、またどこか反発したい気持ちが芽生えてしまった。


「みんなが……救われたから? みんなが幸せになったから?」


 確かにそれはそうだろう。

 でも、その『みんな』に、お婆ちゃんは含まれていない。

 そういいたかった孫の気持ちをすべて察したみたいに、このときアネッサは、


「マリー、あなたはきっと、わたしがいまどれだけ幸せか知ったなら、さぞ驚くでしょうね!」


 羽毛でくすぐられたみたいにくっくっと笑いながら口にしたので、すでにマリーは驚かされていた。


「お婆ちゃんが、幸せ?」

「ええ、そうよ」


 窓から射す陽光に赤みが混じってきた。

 日暮れが日に日に早くなる時期だった。


「あのときの戦いを歌にする人たちは、まるで、わたしやミツルギたちが最初から運命を定められた英雄みたいにいうけれど、そんなことはない。わたしたちはごく普通の人間だった。神さまから直接ああしろこうしろといわれた覚えなんてない。少なくともわたし個人はね。目の前にはいつも多くの道が広がっていて、ひとつひとつを手探りで進んでいかねばならなかった。『運命』なんて一本道があらかじめ用意されていたなら、どれだけ気が楽だったかしら。


 でもそうじゃないから、毎日毎日、選択と決断を繰りかえしていたの。時には直前の決断を後悔したり、道が多すぎて立ち止まったりするときもあった。このまま戦いつづける道、あるいは逃げてしまう道、どっちでもない、ほかの誰かの道に乗り換えてしまう道――」


「…………」

「道の先になにが待っているかなんてわからない。わたしにも、誰にも。ただ、自分で選び取った道を歯を食いしばって進みながら、この先がいまより幸せな未来につづけばいい、とひたすら信じつづけるだけだった。そして――」

「そして?」

「ここに、とびっきりの幸せが待っていてくれた」


 アネッサがマリーの顔を覗き込みながら、微笑んだ。

 それがあまりに――言葉以上に幸せそうな笑顔だったから、マリーは戸惑った。

 『ここに』って、いったい『どこに』?

 祖母の言葉と、柔らかなまなざしの意味に気づいたのは、その数秒後。

 マリーは、はっと息を呑んだ。


「そうよ。……きっと、わたしが選ばなかったほかのどんな道にも、あなたはいなかった。でも、いまここに、あなたがいてくれる。ほら、それだけでわたしが正しかったでしょう?」


 赤い光を背中からいっぱいに浴びてわずかにかげろう祖母の笑みを、マリーは魅入られたように見つめていた。


「だから、わたしはこれまでも、そしてこれからも、自分の選んだ道を後悔することなどないのだわ。だって、いまこんなに幸せなんだもの、ね?」


 それからアネッサは、


「あら、もうお茶が冷めてしまったわね。あたためなおしてくるから、ちょっとどいてくれる? マリーったら、ねえ。あら? もう眠ってしまったの?」


 膝の上にうずくまって動かない孫娘の背中を、仕方なさそうに撫でた。

 もちろん、お婆ちゃんにはわかっていたのだろう。

 その背中を小刻みに震わせながら、マリーが泣き声を押し殺していたのを。


(ああ……)


 マリーは、いまにも叫びだしたい思いがした。


「ああ!」


 そして実際に声として解き放ったとき、マリーは、冷たい風にさらされるのを感じて、両の目を開けた。

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