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5――欲しいのは


(置いていかないで)


 ウルはへたり込んだ姿勢のまま、走り抜けようとする後ろ姿に手を伸ばした。

 しかし指の先はかすりもせず、その女性は、男の子の手を引いて駆け去っていく。


(待って、待ってよ!)


 十年ほど前。

 もしもあのとき、近くに姉がいなかったら。

 両親の遺体を飛び越えてでも、弟を無事なところへ連れていく――という、姉の必死の決断がなかったら。


 きっと自分はこうして、炎の只中、泣き叫びつづけていたのだろう。

 そしてほどなくして存在を気づかれ、兵士の振りあげる無慈悲な槍に心臓を貫かれていたのだろう。

 いま、燃える路面のそこかしこであまたと転がる『死』と同じく。

 そう思うと、震えあがる思いがした。

 喉がきゅっと絞めつけられるような恐怖もさることながら、同時に、臓腑ぞうふも熱く煮えたぎらんばかりの怒りによるものでもあった。


(どうして)


 あのときも、火や槍に、そして人々の悲鳴に追い立てられながら、同じ疑問を抱いた。


(どうして、ぼくたちが。どうして、こんな)


 どうして、どうして、どうして。

 当時のウルに答えは見出せなかった。

 いまとて同じことだ。

 そこにどのような答えが用意されていたとしても、絶対に納得はしまいし、またそもそもしたいとも思わなかったろう。

 いまのウルが――十年前の当時、逃げるしかなかった、姉の命を犠牲にしなければ生き残ることもできなかった少年が、十年を隔てた現在――本当に欲しいのは、謎の答えなどではなかった。


(本当に欲しいのは……)


 ウルを閉じ込める外壁と化していた黒い稲光が、ふたたびうねった。

 はっとして顔をあげたのはなぜだろう。

 そこに、誰がいると信じたのだろう。

 果たして、ウルの見あげる先に、何者かが立っていた。

 端正な顔立ちをした少年だった。


 少年は、眼下を埋めた炎と殺戮さつりくとを、まるで観劇するかのような態度で見おろしていた。

 ウルと目があった。

 すると少年はにっこり微笑んで、ウルめがけて手を振ってきた。

 無防備にも見えるその笑顔は、うっかり手を振りかえしたくなるほどに澄んでいたが、ウルの周囲には無数の死体が転がっている。

 そのほかにあるのは炎。

 あとは無音。


(本当に、欲しいのは……)


「欲しいのは、折れぬ剣だ」


 ウルではない。

 耳もとで、別の誰かが叫んだのだ。

 側面を向くと、火に焼かれて激しく身悶えしている大人の姿があった。

 肌を焦がされ内臓を焼かれて、つんざくばかりの悲鳴をあげる合間に、彼は確かにそう叫んだのだ。


「欲しいのは、憎い人を突き殺せる槍よ」


 反対の方向で、柱に串刺しにされていた女性が、自分を貫いた槍を血まみれの指で示しながら、いった。

 と、上のほうからどさりと落ちてきた人影があった。

 屋根の上に避難したところを矢で射たおされてか、あるいは突き落とされてか、


「矢でも斧でもなんでも構わん。欲しいのは、奴らと戦うためのものだ」


 腹這いの姿勢で、自ら吐いた血にまみれた老人が、目だけをウルに向けていった。

 ウルはあとずさりしながら悲鳴をあげようとしたが、


「いいや」


 その後方かも聞こえた。

 さらに、


「いいや」

「いいや、いいや、いいや!」


 ウルを取り巻く四方八方から、死人たちが次から次に大声を奏でる。

 絶えず波打っていた火炎の帯が割れて、そこから黒焦げになった死者やら、ピンク色の肉を剥き出した死体やら、手足を失った死体があらわれて、おのおの、足を引きずったり、腕で這い進んできたりしながら、ウルへ近づいてくる。


「剣も槍も、矢も斧ももの足りぬ!」

「戦いもいらない」

「もっと圧倒的なものだ。もっとむごたらしいものだ。もっと凄まじいものだ」


 声はでたらめに発されているようでいて、その実、巧妙なまでに重なりあい、ウルの心臓を一定のリズムで叩いているかのよう。


「そうだ」

「そうよ、そう」

「欲しいのは」

「本当に欲しいのは――」


「<火>だ!」


 ごうっと突風にも似た音が、声の群れをも凌駕する一瞬があった。

 その一瞬ののち、ウルを取り巻いていた炎がきれいさっぱり消え去ると、こちらに近づきつつあった男女の群れからまばゆいほどの光が放たれて、それはまた新たな炎を次々と産み落とした。


 大粒の雨にも似た炎のしずくは、しかし先ほどまでの炎とはあきらかに様子が異なっていた。

 火でありながら煙を生まず、どちらかというと、どろどろとした粘液じみてもいて、妙にべったりした赤い光沢をも放っている。


(ああ……)


 ウルは気づいた。

 それは火の色ではない、もっと人間の心理に痛みをともなって訴えかけてくるもの――そう、血の色だ。

 犠牲者から流れた血液が、別人のそれと空中で凝固するや、独特の意志を得てうごめいているかのような。


 彼らの<火>は、彼らの命が産み落としたものだったのだ。

 ウルはもう、あとずさりをやめていた。

 あきらめたのではなく、その色の美しさに魅了されていたのだ。


 犠牲者たちは手を――手のない者は懸命に背伸びをしながら首を――高く掲げた。

 すると、彼らの体内から発せられていた<火>が、血色の光沢を曳きながら大きく脈打って、そして、彼らの頭上から大きく散開した。


 飛び散った先には、鎧を着込んだ兵士たちがいた。

 槍を背中に引いて、手にした火を放って、剣を引き抜いて――と、それぞれにまた新たな犠牲者をこしらえようとしていた侵略者の頭上から、<火>が、獲物を射程にとらえた蛇よろしく、鎌首をもたげて跳びかかっていく。


「う、うわああっ」


 血の色に覆われた鎧の群れはいっせいに身じろぎした。


「なんだ、これはっ。あああっ。鎧が溶ける? い、いや、おれの皮膚も、肉も、骨も――」

「いやああ、全部溶ける、溶けちゃう!」

「熱いよ、熱いよう。誰か助けてくれえっ」


 今度の悲鳴はなんと心地いいことだろう。

 ウルは知らぬ間に目を閉じて、うっとりと聞き惚れていた。

 そう、そうだ。

 『彼ら』のいうとおり。

 ウルが十年のあいだずっと欲しがっていたのは、『これ』だ、『これ』だ、そうだ、<火>だ! 

 おれからすべてを奪った連中の、すべてを失わせる<火>が、なによりも欲しかった!

 最期まで、自分たちが奪う側だと信じていた甲冑の群れは、どろりとした<火>にことごとく形を呑まれて、あちこちで粘液のちんまりとした塊へと転じていた。


「欲しいか?」


 と、ウルのもっとも近くに立っていた男が――全身が焼け爛れていたので見た目で性別はわからなかったが、声からしておそらく男だろう――、まだじゅうじゅうと音を立てていそうな腕をウルに伸ばしながらいった。


「欲しいなら、与えてやろう」

「与える……もらえる……」


 焼け焦げの死体に声をかけられながらも、不思議とウルは恐怖を感じなかった。

 むしろ、その表情は陶酔とうすいの極みにある。

 十年以上、願い、望みつづけていたものが間近にあるのだから。


「そうだとも」

「そうよ」


 男女の声。


「おれにも……<火>をくれる……?」


 おずおずとウルが声を発すると、


「いいや」


 別の老人がかぶりを振った。

 途端にウルが心細げな顔になると、老人は煤に汚れた歯を見せて笑った。


「くれる、与えるとは、ふさわしくない言葉じゃて。なぜなら、<火>はもう、おまえのなかにあるからじゃ」


 同じく真っ黒の指に指されて、ウルは自分の胸を見おろした。

 そこに、いつの間にやら赤々とした光点が灯っていた。


(ああ!)


 意識すると、確かに熱い。

 確かに息づいている。

 歓喜の表情を浮かべたウルは、男の伸ばした腕にすがりつくままに立ちあがった。

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