4――奪われたものたち
肉体を譲渡すると決めた瞬間、まなこを半分閉じたみたいに視界が薄れかかって、次にその目を開けたときにはもう、身体の自由が利かなくなっている。
これまでの二回、ウルはそう経験していたのだが、
(まだ抜くな!)
ミツルギの声が切迫感を伝えてきたとき、いままでとは異なることが起こった。
ウルが抜いた鬼吼は半ば以上の刀身を露出させていたが、そこから、あたかも黒い稲光が走ったかのようにウルには見えた。
以前、大樹のマガツ神に対してこの刀を抜いたときにはなかった現象だ。
さらにその稲光はジグザグした動きで柄を乗り越えると、まるで黒い手のような形状となって、ウルの右手首をしっかと掴んできたのだ。
「うっ!?」
呻いたウルは片膝を落とした。
まず、手を固定されてこれ以上刀を抜くことができなくなった。
黒い光は、掴んだ手首を支点にさらに飛び散ると、縦に横にと走ったのち、あたかも牢獄の格子戸のようになってウルの四方を包んだ。
異変はなおつづく。
黒い格子戸を通して見えるガカルハイデ、マリー、クレハ……それぞれの姿が水を透かしたみたいにぼやけはじめると、物音も小さくなり、さらには、肉体の内側から聞こえていたはずの<剣聖>の声さえ遠ざかっていった。
鬼吼からほとばしった黒い光は、肉体のみならず、ウルの心をもその場につなぎとめたかのようだった。
「なっ、なに? なんだよ! おい、<剣聖>。ミツルギ! あんたの刀、どうなってるんだ!?」
ウルは声の限りに叫んだつもりだったが、なぜか自身の声すら聞こえない。
いや、口が動いた感覚すらなかった。
肉体が自由にならないということは、やはりミツルギに肉体を譲り渡した状態であるかのように思えるが、しかし、当のミツルギ本人の存在を感じないのである。
<剣聖>が強引に宿ってきて以来、はじめてのことだった。
(ミツルギじゃないんなら、おれはいったい誰に身体を乗っ取られているんだ!?)
思わず生唾を飲んだウルだったが、目の前に、さらにウルの心身を凍てつかせるような光景が迫っていた。
凍てつく――というより、正反対に、燃えつきる、といったほうが正しかったか。
格子戸の外側が水に滲んだみたいに見えているなか、ガカルハイデから放たれていた<火>の赤さだけが奇妙に際立っていたのだが、不意にその輪郭がくっきり浮きあがると、ウルめがけてぐんぐん迫ってきたのである。
「う、うわっ。待て、おいっ、ミツルギ、身体を貸すっていってるのに、うわああ、待って!」
そんな悲鳴をも聞こえぬまま、ウルの視野一面が赤く染まった。
身体を焼かれる!――
とっさに腕で顔を庇おうとした直前、先ほどマリーとガカルハイデの<火>がそうなったように、ウルに迫った赤々とした<火>は、ウルの心身を縛りつけていた黒い稲光と手を結びあった。
マガツ神と相対するようになって日の浅いウルに、この奇怪な現象を理解できようはずはない。
黒い光が、<火>からウルを守ったとも見えるし、あるいは<火>を取り込もうとしているようにも見える。
が、同じく<火>と結びあったマリーはどうなったか?
逆に、心身をマガツ神に取り込まれようとしている。
では、自分も……。
「そうか、おまえもか」
ウルはぎょっとなって振り向いた。
肉体的な感覚はない。
現象だけでいうならば、ミツルギとの会話に似ている。
肉体的な意味では存在しないはずの実在――魂とも、他者の心ともいうべきものが、いまウルの身近に降り立ったのだ。
「おまえも、われわれと同じなのだな」
つまりは、ミツルギと同様に、何者かが、ウルの許諾も理解もないままに、心中に押し入ってきたということになる。
それも複数。
いつしか、ウルは取り囲まれていた。
姿は見えない。
だというのに、確かに実在を感じる。
ウルの心で多数ゆらめいている。
(待て――)
かすかにミツルギの声が聞こえてきたように思った。
ただし、いまウルに語りかけてくる声と比べるまでもなく、あまりに遠く、そしてあまりにか弱い。
(同調するな、おまえも――)
マリーのように取り込まれる、といいたかったのだろうか。
しかしそれ以降ミツルギの声はぷつりと途絶えて、まったく知覚できなくなった。
黒々とした光に閉じ込められた、ウルはただひとり。
反して、侵入者たちの数はなおも増えて、心にひびく声も次第に大きくなっていく。
「おまえも奪われたのだろう」
「大切なものを」
「おまえも殺されたのだろう」
「大事な人を。人たちを」
感情のない、まるで芝居の台本を素人が読みあげているような無味乾燥な声でありながら、言葉のひとつひとつが、ウルの心にぐさりぐさりと突き刺さってくる。
これも、ミツルギとの会話と同様だ。
ただの言葉ではない、そこには、『彼ら』の記憶が宿っているのだった。
「われわれもそうだ」
「わたしたちも、同じなのよ」
「残酷な刃と、無慈悲な炎で、奪われたのじゃ」
言葉の矢は、突き刺さるごとに、ウルの足もとで火を生んだ。
あわてて立ちあがろうとしたときには、矢の数は百をたやすく超えて、脱出しようともがくあいだに、辺り一面があっという間に炎に包まれた。
ガカルハイデの<火>とは無関係だ。
あくまでもイメージ、記憶、心の風景。
炎のヴェールの向こうから、何者かの蛮声がウルの頭蓋骨を揺らすほどの大きさで鳴りひびいた。
つづいて、犠牲者たちの断末魔、助けを求める声の数々、終わることのない悲鳴。
ウルの目にも、おぼろげながら見えてきた。
騎馬の集団が長柄の武器を振りかざしているのが。
赤く濡れた路上を駆けていく老若男女が、それぞれの武器に胸や頭を貫かれていく。
赤い紗幕を隔てて展開される殺戮の光景は、まるで幼いころに祭りで見た影絵のようだった。
「あ……あ……」
知らず、ウルは後ろへとよろめいていた。
尻餅をついたウルの傍らを、泣きながら走っていく男の子がいた。
歳は、六、七歳くらいか。
誰かに手を引かれている。
はっとそちらを仰いだウルは、長い髪がなびいているのを目にした。
「姉さん!」
無意識のうちに、ウルは大声を発していた。




