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5――蛇神の巫女


 蛇廻じゃかい教とは、まだミツルギが<剣聖>と呼ばれる以前、各地のマガツ神との戦いに苦心していたころに出会った。


 この世でもっとも古い神の教えを伝えるという一族で、谷あいの地下に総勢五百にも満たぬ数で暮らしており、外部との交流はほぼすべて断っている。

 都市部の人間には実在すら疑われていた。


 そんな彼らとミツルギたちがどのようにして知りあい、そして彼らとのあいだにどのような交流があったのか――、彼ら『英雄』を讃える数多くの伝承や書物にも、いっさいの記述はない。

 詳しい話はのちの機会に譲るとして、いま重要な点は、この一族が代を重ねるごとにおこなっている『魂の秘術』にあった。


 簡潔に述べるなら、彼ら一族は、古来から伝えられた術を用いて、人間の魂に細工することを可能としていたのである。


 肉体と魂をまず分離させる。

 魂とは個人の意識であり、記憶であり、思念である――と蛇廻教は伝える。

 魂を失った肉体は自我のない人形同然となり、一方、肉体を失った魂は現世に影響をおよぼせる実体をなくしたということだから、寄る辺もなく漂うだけの思念体となる。


 その魂を、あたかも器から器に水を移すがごとくに、他者の肉体へと移し変える、というのが『秘術』の極みであった。

 極端な例を挙げるなら、寿命が尽きようとしている老人の魂を抜き取って、それを産まれたばかりの赤ん坊に宿せば、魂の主は人生を一からやり直すことになる。


『地下深くに住んでいる、白い大蛇をあがめるおかしな一族は、ひそかに不老不死の秘術を伝えている』


 ――と、これも古来から噂されている所以ゆえんである。

 長い歴史のなかでは、この噂を鵜呑うのみにして彼らの居住地を躍起になって探しまわった権力者たちも少なくないと聞く。


「ただし、肉体は、単純な容器とは異なります」


 五十年以上も昔、地下の大空洞にて、ミツルギはそういわれた。


「対象の肉体から魂を追い出して、そこに別の魂を植えつければ完了、というわけではありません。生まれついたのとは別の魂を宿した肉体は、ほぼ確実に機能を停止するのです。やはり肉体と魂には密接なつながりがあるのでしょう。それをハサミで断つがごとき行為をしてしまえば、双方ともに滅んでしまう。愛馬をたやすく乗り換えるのとはわけがちがいます」


 蛇教の巫女はくすりと笑った。

 たとえとして適切だったかはいまもってわからないが、要は、魂の移動とはそんな単純なものではない、といいたかったのだ。

 若かりしころのミツルギは渋面じゅうめんで尋ねた。


「それでは、どうやって魂を持続させるというのだ?」

「答えを口にするだけならば簡単です。もとあった魂を追い出すのではなく、そのままにしながら、新しく魂を植えつける。つまりはひとつの肉体に、複数の魂を宿すことになります」


 年若い巫女は、こともなげに語った。

 ミツルギが一笑に付さなかったのは、これまでマガツ神と数多く戦ってきた経験、そして彼が生まれ育った東国の事情による。


「当然、複数の魂が同じ肉体に存在するということは、複数の自我が並列に働くこととなります。その矛盾に人間は耐えられない。ごく初期の儀式においては、双方の自我が崩壊するというケースが多く見受けられました。ですが、儀式を重ねるごとに、わたしたちは成功にいたる道筋を少しずつ――数十年に一歩ずつといった遅々とした足取りで――、見出してきました。そして千年の果て、ついに『秘術』は成りました。複数の自我が、個人の肉体の内側で完璧に制御下に置かれました。それが本当の意味での巫女の誕生です。われわれは、その巫女ご本人のお言葉から、複数の魂が存在を許された理由を知りました」


「それは?」

「これも至極しごく簡単に申しあげれば、『複数でなくなった』のです。魂の性質とでもいうのでしょうか、同じ器に入れた液体がごく自然に混ざりあうように、魂もまたひとつに溶けあおうとする。その融合の過程で、多くの人間は生まれついての個人としての感覚や常識を捨てきれずに崩壊するのですが、しかし諸々の条件と当人同士の資質において――」

「魂の融合だって?」


 話がそこまでいくと、さすがのミツルギもごく平凡な人間になりさがるしかなかった。

 もはや夢物語でしかない。


「まるでマガツ神そのものだな。喩えるなら、老人と赤子の魂がひとつに溶けあう? 結果、生まれるのはなんだ? 老人の思考をする赤子なのか、赤子に戻った老人なのか?」


 と、近くで聞くともなしに聞いていた幼馴染のイスルギが、


「普通のご老人だって、歳を負うごとに赤子のようになる例もあるぞ。おれも、近所にいた相当な年寄りのおしめを替えたことがある」


 そんな軽口を挟んだが、巫女シシーは微笑んだばかり。

 そのあとも一応説明らしきものを長々と受けたが、結局、ミツルギには理解することができなかった。が、


「ちがいますね」


 巫女は腰に手を当てていったものだ。


「あなたは頭から拒んでます。理解できないのではなく、理解するおつもりがないのです」


 シシーは感情豊かだ。

 ミツルギの面前に指を突きつけながら浮かべた憤懣ふんまんやるかたない表情は若い女性そのものであったが、しかし実は、彼女も数日後にはこの『儀式』を受ける定めにあった。

 老域にある巫女の魂をその身に移すことで、先祖が代々伝えてきた知識や経験をそっくりそのまま受け継ぐのだという。


 同じ『儀式』を経た巫女たちを、ミツルギは知っている。

 皆、年恰好こそシシーと同じだったが、シシーと対照的に表情がなかった。

 まなざしは茫漠ぼうばくとしており、しゃべり口調は百を超えた老人であるかのよう。

 もしシシーのいうように、彼女たちが歴代の魂を融合させてきた果ての姿であるとするなら、ミツルギは、眼前のシシーに痛ましい気持ちを抱かぬわけにはいかなかった。


 ――そしてミツルギたちが蛇廻教の聖堂を離れる日。

 シシーが儀式を受けるのは、その日の午後。

 ミツルギは朝早くに発つことを決めていた。

 自分が正視に耐えられないとはわかっていた。

 と、そんなミツルギを呼び止めたシシーは、


「これを」


 と、蛇の形をした飾り環を差し出した。

 ミツルギは驚きを隠せなかった。

 教団のなかでも幹部級の神官が頭にめていたものだ。

 聞けば、まさしく『秘術』に用いる品だという。


「あなた方には本当にお世話になりました。蛇神さまもお許しくださるでしょう」

「すでに霊薬もいただいている。こんな大それたものまで貰うわけには」

「術を用いぬ方にしてみれば、ただのお守りのようなものです。神官の方々が常々つけていらっしゃるのも、魂が老いぬことの証明を皆に示しているにすぎません」

「それだ」

「それとは、どれのこと?」


 シシーはいたずらっ子のような笑みを浮かべている。

 なんとはなしにミツルギは目を逸らしつつ、


「魂が老いぬだの、融合だのと、いまもって、おれにはわからんことばかりだ。ここで数多くを学ばせてもらいはした。魂という、いわば模糊もことした境地に、うつつの剣が触れるという経験もした。今後の戦いで、大きな助けとなろう。――が、やはり教団には相容れぬ点が多い。おれにしてみれば、魂も命も一代限りのもの。だからお守りとしても不要だ。おれには剣こそが、そして剣のみが心の支え。それでいい。しょせんは神の教えも理解できぬ俗物と笑い飛ばしてくれるといい」

「なるほど、なるほど。人間にとってこれは邪悪な代物でしかないと、誇り高き剣士さまはそうのたまいました、とさ」

「そうはいっていない」

「では、試してみましょう」


 シシーはさらに一歩近づいて、ミツルギのぶあつい胸に蛇環を押しつける格好となった。


「た、試すとは、なにを?」

「わが神の教えにここまで密接に関わっておきながら、そして秘術を使える神秘の品をその手にしながら、あなたが果たして、現世の人間として、いまの誇りを抱いたまま死んでいけるかどうか。すなわち、一代限りの命をまっとうすることができるかどうかを」


 挑むように笑いかけるシシーを見ていると、ミツルギは急に悲しくなるやら、同じく笑い出したくなるやら、自分でも気持ちを持て余してしまった。

 それはシシーからの挑戦めいていたが、同時に、理解もしたのだ。


 彼女は、自分が『儀式』を受けることにもちろん否やはない。

 自分がいまの自分のままでいられるのが、あとごくわずかばかりの時間なのだろうということも十分に承知している。

 ミツルギは、シシーという人格を記憶にとどめおける最後の人間なのだった。

 わかった、と根負けする振りをして、ミツルギは蛇環を受け取った。


「とはいっても、おれは使わんぞ。ただひとりの人間として生き抜いた果ての臨命終時りんみょうじゅうじ、この環を掲げて、『シシーよ、おれの勝ちだ』と声高に叫んでやる」

「楽しみにしています。誇り高くも愚かな剣士さま」


 シシーは腰の前で手を組んで一礼した。

 それは教団の挨拶とは異なる。

 ミツルギの出身国である、東国の作法だった。



 ミツルギの脳裏に、シシーが一礼する姿が茫と浮かんだのは、もちろん偶然ではない。


(認めてやろう)


 ミツルギは、ともすればふっと絶えそうになるおのが意識を、歯が砕けるほどに食いしばって懸命につなぎとめながら、そんなことを思った。


(認めてやろう、シシーよ。わしの負けだ! だが、永劫に魂を存続させようなどとは思わん。決して。一時的に、こ奴の身体を借りるだけだ。もしも目的を果たしたなら、返してやってもいい。できるならばな)


 だから、魂を融合させる必要もないのだ。

 目的を果たしたあとならば、行方を失った自分の魂がどうなろうと知ったことではなかった。

 跡形もなく消え失せるもよし、地獄に堕ちるもよし。

 これこそ清廉せいれんな剣士の覚悟そのものではないか。


 だからそう――、シシー、これは痛みわけとはいえぬだろうか?


「じ、爺さん」


 ウルが苦しげに身をよじった。

 瀕死の老人の、それも数少ない指で握られただけなのに、ウルはもう身動き取れないでいる。

 身体の使い方とてろくに知らないのだ。

 もちろん、若かりしころの<剣聖>と比較するまでもなく、頑強さの点においても見劣りする。

 これからは『自分の』肉体でもあると考えると暗澹あんたんたる思いにも駆られたが、しかしいまになって選り好みなどしていられない。


「ええい……、暴れるな。ここに来て。身を任せい」

「なにをするつもりなんだよ?」

「目を閉じていろ。ほんの数秒。それで済む。痛みなどは一瞬だ」

「だ、だから、なにするんだって!」


 目を白く濁らせた、汗だくの老人に鼻息も荒く迫られれば、それはウルとて恐怖を感じるだろうが、しかし本当の意味で背筋を凍らせたのは次の瞬間であった。

 ミツルギの頭に嵌められてあった環が、誰が触れたわけでもないのに、するりと外れた。


 いや、外れた、というより、ほどけたのだ。

 先ほどまで確かに無機質な飾り環にちがいなかったのに、いま、ひとりでに動いたそれは、びっしりと鱗を生やした胴体を長々と引きずりつつ、ミツルギの右肩付近で頭部をもたげると、赤い視線をウルに差し向けたのだった。


「ひっ」


 ウルが小さく悲鳴を発した。

 驚きもさることながら、その形状の不気味さ。

 飾り環の中央は、二つの頭部が左右互いちがいを向いていた。

 であるなら二匹の蛇が絡みあった意匠なのだろうと思いきや、動き出してみると、それはただ一匹の蛇だった。

 すなわち尾がなく、左右の先端にそれぞれ別の頭部がついていたのである。

 この世のものではない。


 しゃあっと息を発して、一方が口を開けた。

 鋭い牙が覗く。

 逃げようとするウルの肩を、さらに強くミツルギは引いた。

 瞬間、白い蛇は予備動作もなく伸びあがると、ウルの喉に牙を立てていた。

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