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5――魔女の記憶


「だっ、誰だ」


 ウルは必死で、声のした方向へと刀を向けた。

 長年にわたって石室にびっしりとこびりついたかのような闇が、見つめる先から灯りの色にゆっくり剥がれ落ちていくと、ひとりの人影を露わにした。


「ひえっ」


 思わず腰が引けてしまったウルだが、乱舞する炎の色にちらちらと照らされたのは、『神』でも悪魔でもなく、年配の女性の姿だった。

 一瞬、ある予感に囚われたウル。


 と、その女性が腕を虚空に差し伸べたので、あわてて身構えなおした。

 侵入者に――つまりはウルに――火をけしかけようとする魔女の攻撃に思えたからだが、むしろ火はウルの周辺から遠ざかると、止まり木を見つけた鳥さながらに、その細い腕へ集まっていった。

 婦人は驚きも恐れもせず、もう片方の手でそれら炎をひと撫でした。

 すると炎は例外なく勢いを減じさせて、ウルがぽかんと見守っているうちに、婦人の肩の上で静止したひとつきりを残しただけで、あとはあっさり消え去ったのだった。


「あ、あなたは――」


 歳のころは、ミツルギとほぼ同じだろう。

 すなわち七十前後。

 布をつぎはぎした粗末な服に、寄る年波を隠せない顔立ちをしていたが、ウルにつと向けたまなざしは若い――というより、どこか澄んだ光がたたえられていた。


 銀色の髪が垂れた肩の辺りには静謐さが漂い、なにやら品格を際立たせている。

 ウルの掲げていた剣先がいつの間にか落ちていたのは、彼の判断だけではない。

 このとき、見知らぬ声と、見知らぬ場面のいくつかが、彼の心の内側で激しく明滅していたのだ。


(わたしたち一族は、原始の炎の一部を身体に宿して生まれてくるのです。赤子が激しく泣きじゃくるのは、神さまから与えられたその火があまりにも熱くて、あまりに恐ろしいから。でもわたしたちは、身体を成長させるのにあわせて、その火の熱さと恐ろしさにも慣れていく――)


(わたしたちのいう<火>とあなた方の思う火とはまったくちがうものです。とはいえ、まずわたしたちは訓練において、実際の火を操るところからはじめるのですけれど――)


(なるほど、ミツルギのいうマガツ神の概念は理解しました。では、わたしが放つこの<火>を、鋼で断ち切ったとき、それはあなたのいう『影を斬る』ことと同義ではないでしょうか?――)


 ミツルギの記憶だ。

 普段ならそれをウルに見せまいとしているはずが、いまは当人にも追憶の波を抑えられずにいるのだろう。

 数十年越しの再会が、ミツルギに身動きも許さぬほどの感傷を与えてしまっているのだとは、ウルにも想像がついた。


 そう――、いま目の前で微笑んでいる年配の婦人こそが、まちがいなく<火の魔女>アネッサその人なのだ。

 無論、ミツルギの記憶にあらわれる彼女は、いまよりずっと若い。

 ウルたちを井戸に叩き落としたあの娘に、そういえば似ている気がするが、表情はずっと大人びている。


(へえっ、美人だったんだ)


 ウルは思わず感嘆の息を発していた。

 ミツルギが井戸の底で話してくれたように、控えめで、いかにも争いを好まない女性に見える。

 それが、戦いの場面となると、一転した。

 ミツルギの盟友イスルギと、鎧を着込んだ男が、前線で敵集団と斬り結ぶさなか、アネッサは裾の長い衣装を引きつつ、華奢な手を頭上に掲げる。


「いけえっ!」


 すると、爪先から頭上にかけて、炎の色が一気に駆けあがった。

 アネッサの姿をそっくり覆うようにとぐろを巻いた炎は、頭上で交差していた手が互いちがいに振るわれると、アネッサの肩辺りで左右に分岐しながら前方へ解き放たれた。

 たとえるなら、真っ赤な光沢を放つ龍。

 前線で戦う男たちの左右ぎりぎりをかすめた龍は、周囲一帯から二人に躍りかかってこようとしていた邪教の衆たちを一網打尽にしたのである。


「よ、よくやった。あとはおれらでやる」


 この場面では、アネッサの横からそれを眺めていた若き日のミツルギが、感心したような、それでも釈然としない声でいって、刀を抜いていた。


(自分が剣に費やしたもろもろが馬鹿馬鹿しく思えるくらいだった)


 とミツルギが冗談交じりにいっていたが、ウルにもわかる気がした。

 <剣聖>ほどの腕前ならばまあ例外にしても、あれは人が生涯かけて鍛えあげたとておよぶ力ではない。


(あれが、魔術か!)


 それほどの凄まじい力を振るいながら、しかし、


「お願いね」


 額の汗を拭うアネッサは、見た目にはもうまったく十代の若い女性――いや、少女そのものだ。

 これまでもそうだったように、記憶はさらに別の記憶を呼んで、際限なく膨れあがっていく。


 ある晩、酒に酔ったイスルギが、肌もあらわな女性の肩を抱きながら卑猥な冗談を飛ばして、アネッサを耳まで赤くさせたこと。

 植物や、その他の怪しげな素材を用いて薬を調合する方法は知っているのに、料理の仕方ひとつ知らないことを気にしたアネッサが、皆が寝しずまったころを見計らって、余った素材でひとり練習に励んでいたこと。

 それを試食させられたミツルギが、顔色を青くしてうずくまってしまったこと。

 さらにそののちの口論。


「野草の絞り汁など隠し味になるものかっ!」


 そして――。

 ウルは一瞬まぶしく感じて目を細めようとしたが、無論それもまたミツルギの記憶である。

 宮殿の広間らしい、ロウソクを立てられたシャンデリアが黄金色にきらめくその真下は、大勢の人間でひしめきあっている。

 ウルなど、演劇や本でしか知らないような場面だ。

 と、


「ほう、そなたが火の里の魔女とやらか。ちこう」


 そういってアネッサを手招いた人物がいる。

 派手な色の服で着飾って、偉そうに胸をそびやかしているが、まだ十代に見える若者だ。

 一瞬、アネッサは心細そうな顔をしたが、無視もできずに近づいた。


「これほど若く、華奢にも見えるのに、無数のマガツ神を打ち払ってきたとはな。きっと、この宮殿を護衛している腕自慢の兵たちが十人、いや、百人束になっても、そなたには構うまいな。いやあ、魔術とは実に凄まじいものだ」


 貴族らしき若者はいかにも感じ入ったようにいったが、アネッサはうつむいて「そのようなことは」とだけ返した。

 と、


「嫌味のつもりなんだろうぜ」


 後ろで様子を見守っていたミツルギの耳にイスルギが小声で囁いた。


「ベルトール伯の土地とアネッサの里には、因縁があるからな」


 その言葉で、ウルにも合点がてんがいった。

 以前ミツルギが話してくれたことだが、アネッサたち<火の血族>の祖先と、その土地を『王国人』として支配した貴族たちとのあいだには、血みどろの因縁があった。


 カリバーンの実子に当たる王が仲裁したため戦いは終わりを迎えたが、貴族側にしてみれば屈辱の歴史に当たるのだろう、宿怨の相手ともいえる<火の血族>の子孫アネッサが、マガツ神を討った英雄としてあらわれたので、面白くない気持ちになったようだ。


 となると、アネッサにねちねちとした視線を向けるあの若者は、ベルトール家の者にちがいない。

 ミツルギたちの見た目からして、五十年近く前の話だろうから、ひょっとすると現ベルトール伯バナージその人ではないだろうか。

 もちろんこのときはまだ領主ではなく、父に従ってミツルギたち英雄に合流したところと見られる。

 それからの時間は、むしろアネッサよりも、いまよりずっと短気だったミツルギ、そしてイスルギに忍耐を強いるものとなった。


「その魔術を、われらが祖先が危険とみなしたことを、決して無知ゆえだとあざ笑ってくれるな。そなたのような力の使い手が集落単位で存在すれば、あるいはこの堅牢な城をも落とせよう。そんな恐るべき時代が確かにあった。民を守る使命を負った貴族たちが放っておけなかったのは、ある意味で当然のことだったのだ」


 そんな意味の言葉を、飽きもせずバナージは繰りかえした。

 アネッサはやはりうつむいて、小声で返事をするきり。


「我慢ならねえ」


 イスルギがそういって身を乗り出そうとするのを、ミツルギが何度制したことか。


「放せ、ミツルギ。あいつのいう『戦い』だって、どうせユーフォリー人が一方的にしかけたものだろうに。それを……!」


 イスルギが痛そうに顔をしかめたのは、肩に置かれたミツルギの手に、彼もまた激しているがゆえの力がこもっていたからか。

 ミツルギはかつてこのときのことを「王国人貴族が一堂に介した」ときだと、ウルにいっていた。

 以前はばらばらだった国内がミツルギたちの活躍もあって、ようやく歳若い王のもとでまとまりかけたときに、いさかいの種をきたくはなかったのだろう。


 と――、アネッサがひたすらに耐えている反応をもの足りなく思ってか、あるいは逆に加虐心に火がついてか、バナージの言葉が一線を越えた。


 <火の血族>を、この当時の現在、大陸を荒らしまわっていた『邪神』のたぐいと同一視するような発言をした。

 <火の血族>が、あたかも邪悪な儀式に供する生贄欲しさにユーフォリー人を襲って虐殺していたのだ、という歴史を捏造ねつぞうしてアネッサ本人に語ったのだ。

 アネッサの伏せられていた顔があがった。

 両の目がまっすぐに若者の顔を見据えていた。


 ミツルギ、イスルギが「あっ」と声を揃えたときには、手遅れだった。

 宙をひらめいたアネッサの白い手が、次の瞬間には伯爵家若君の頬を打っていたのだ。

 頬肉がぱちんと小気味いい音を立てた。

 直後、


「ぶっ、無礼者!」


 バナージの近くに控えていた兵たちが槍を取った。

 周囲で歓談していた貴族やその関係者が驚いたようにこちらを見やるなか、呆気に取られていたバナージ本人も次第に怒りの表情になりはじめた一方、


「いまの侮辱は聞き捨てなりません」


 アネッサもまた、もちろん平静ではない。

 冷たい槍の穂先に取り巻かれながらも、その白い顔には怒りの熱が添えられていた。


「わが血族に対してのみならず、これは、不幸ないきちがいのあった双方を取りもってくださった王のお心遣いを、そしてあなたのご先祖をも侮辱した発言です」

「なっ、なんだと――」

「あなたのお言葉をそのまま理解するなら、カリバーン王のお子さまは、わたしたち血族がマガツ神に属する悪魔と知りながら、貴族方との和平を命じられたことになる。すなわち一時の平穏ほしさに悪魔と取り引きをされたのだということ。それを、あなたは王都で声高に主張することができましょうや?」

「あ、いや、それは」


 赤くなっていた若者の顔から見る見る血の気が引いた。

 カリバーン王を神のごとくあがめるユーフォリー人貴族が、そのカリバーンの子を「侮辱した」となれば、ことは一地方の問題でなくなる恐れとてある。


「あなたはその不名誉を負ったままでよろしいか? よろしくないでしょう。ですから、わたしはあなたを打った。それで文字どおりに『手打ち』といたしましょう。よろしいですね? よろしくないはずがありませぬ」


 一気にまくし立てられて、伯のみならず、槍を携えた兵たちもぽかんとなった。

 アネッサの言葉などは、かっとなって平手打ちしてしまったあとで思いついた、いわばあとづけの言い訳に過ぎなかったろうが、『王国人』にとって、カリバーン王の存在はそれほどまでに大きい、ということだ。

 結局、のちの伯爵は目を数度ぱちくりさせたあとで、小声で不明を詫びた。


(なんて豪胆ごうたんな女性だろう)


 ウルは目を丸くしていた。

 エリンに惹かれていたのと同様、ウルがこうした強気な面を露わにする女性に対して憧れに似た気持ちを抱くのは、やはり姉の影響が大きいのかもしれない。


(そういや、このずっとあとになって、伯爵はアネッサに仕官を求めたんだっけ。きっと、このときの仕返しをするつもりだったんだな)


 ウルが王国人貴族にいい感情を抱いてるはずもない。

 ベルトール伯爵にいわば二度も鉄槌てっついを喰らわせたアネッサに、ウルは内心で快哉をあげたい気持ちになった。

 ウルはひとまず追憶の区切りをつけたつもりになって、視点を意識の内側から現実へと戻した。

 暗がりとともに、目の前の光景がじわじわ舞い戻ってくる。


「『誰だ』とはご挨拶。そちらこそ、どこのどなたさま?」


 まるでその機をうかがっていたようなタイミングで、婦人は問いかけてきた。

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