4――呼び声
マガツ神との戦闘のとき、風を斬り裂いたあの感触がまざまざとよみがえってきた。
真一文字につけられた傷口に風が殺到し、勢いを倍化させた猛風が吹き荒れるまでわずか一瞬。
(跳べっ)
ミツルギの命令どおりに跳躍したウル。
恐れも疑念もなかった。
というよりも、このときのウルには余計な雑念などいっさいなく、まさしく剣と一体の、純一無雑とすらいっていい境地にあった。
足もとに起こった竜巻を蹴りつける格好で、ウルはあっという間に井戸の上へと駆けあがっていた。
あまりに猛スピードだったので、体勢を取り戻す間がなかったほどだ。
そのせいで井戸の入り口付近の壁に思いきり脛をぶつけてしまったが、ウルは前転することで、かろうじて再落下だけは防いだ。
「あたたっ」
ウルは脛を押さえて、井戸の上の地面を転げまわる。
せっかく<風断ち>を発動させられたというのに格好がつかないことこの上ないが、
(やった)
ミツルギはそれを皮肉るでも笑うでもなく、半ば呆然となってつぶやいていた。
(やりおった。わしのそれに比べれば、見るも無残な出来ではあったものの……、原理としては、まちがいなく<風断ち>)
「大した師匠だよ。弟子の達成感を鼻息で吹き飛ばすようなこといってくれちゃって」
(貴様を弟子にした覚えはない。ないが……その弟子たる門弟らは誰ひとりとしてできず、ソーヤとクレハでさえ何年もかけて、かろうじて会得したわしの<風断ち>を、剣を取って数日もならないずぶの素人がやったのけた? うはははは)
ミツルギは笑った。
乾いた地表を吹き抜けていく風のような、どこかうつろな声だった。
「な、なにがおかしいんだよ」
(察するがいい。わしが生涯をかけた剣を、そのわずかなりでもひと息で会得されたのだ。志もなく、身体も未熟な人間にな)
「いちいちなにか文句をつけないと気が済まないわけ?」
いいながらも、今度はウルが笑う番だった。
「でも、そういう意味じゃ、あんたは、同じことをソーヤにやらせようとしてたんだろ? 自分の数十年を、たった数年で息子に引き継がせて、さらにその上をいかせようとしていた。だから焦ってたんだ?」
(知ったふうなことを抜かすな)
「知ってるのさ」
ウルは二枚目気取りでほくそ笑んだ。
脛はまだ痛かったが、それ以上に気分が高揚していた。
なにせ自分の身体で、現実にはあり得ないほどの剣技を発動させたのだ。
本心をいえば、この場で跳びあがりたいほどに浮ついていた。
棒切れで散々追いまわしてくれた村長の息子が、この<風断ち>を見たら腰を抜かすにちがいない。
いや、あんな奴はどうでもいい。
ウルがこの剣を本気で突きつけたい相手は、ほかにいた。
<剣聖>に身体を乗っ取られそうになったときは本気で取り乱したし、傲岸な人格に腹も立てたが、この技が身についたというだけで、お釣りが来そうなほどの買いものをした気分だった。
(小僧、なにかよからぬことを考えているな?)
「いいさ、いいさ。おれのほうはあとまわしで。まずはあんたの目的をかなえてやるよ。あの家に寄ってみよう。アネッサさんがいるかもしれない」
ウルは上機嫌でいった。
すでに山々の稜線はほの青く陰りつつある。
見たところ、家屋の内部に灯りはない。
アネッサの孫と思しき、あの娘の姿も見えなかった。
それでも一応のこと、左右を警戒しつつ戸口に近づく。
そこでいったんウルは足を止めた。
「もし、アネッサさんが、あの娘と同じ考えだったらどうするの?」
(どういう意味だ?)
「つまり、あんたや、あんたの関係者には死んでも会いたくない、って態度だったらさ。このまま強引に会ったとしても、話なんて聞いてくれないんじゃないかな」
(アネッサに限って、それはない。小僧、おまえのような友人がひとりもいなかったような奴にはわからんだろうがな、かつての仲間の窮状を簡単に見捨てられるほど、あの旅で得た絆は決してもろくないのだ)
「あのさ。おれはいま心底呆れてるんだけど、その感情って伝わってるのかね」
(多少ならずな)
「そう。安心したよ」
戸はすんなり横に開いた。
内部の造りは簡素なもので、家具も必要最低限のものしか置かれていなかった。
ただ、どれも埃をかぶっているわけではない。
誰かが住んでいるのは明白なのだが、暖炉に手をかざしてみると、数時間は使用していないようだ。
あとは寝室らしき小部屋があるだけだったが、そこにも人の姿はなかった。
「誰もいないよ。まさかあの娘がひとりで住んでいるのかな」
(いや。……待て)
どこか神妙そうにミツルギがいった。
(さっきの暖炉のところに戻れ。そこから右に二歩。後ろに一歩)
「な、なんだよ、いきなり」
いきなり細かい指示を出されたので、戸惑いながらもいうとおりにしてみる。
<剣聖>が耳をそばだてているような姿が脳裏に浮かんできた。
気配を探っているようだ。
「なにも見えないし、なにも聞こえないけど……」
(しっ。腰を見ろ)
ウルの血相が変わった。
腰に帯びた鬼吼が、かすかにだが震えている。
ウルはその場を跳びのいていた。
「マガツ神か!? じゃ、じゃあ、これも罠だ、あの娘がおれたちを殺そうと……」
(あの娘がマガツ神に関わりがあるものだったなら、とうに鬼吼が反応しておったわ)
「で、でも。鬼吼がマガツ神を見つけたのはまちがいないだろ! ってことは、ここのどこかに……」
(偶然、いまおまえが立っている位置がいちばん近い。足もとを見ろ)
「えっ?」
これまた跳びのきそうになりながらも、ウルは足もとの床板に取っ手のようなものを見つけた。
恐る恐るしゃがみ込んで、手をかけて引きあげると、四角い入り口があらわれた。
比較的小柄なウルでも、入るのに苦労しそうなほど狭い。
その向こうに、下への石段がつづいている。
「これは……」
(ただの物置というには石段が長い。アネッサらしい用心深さだな。隠れるための地下室があったとは)
「で、でも、この先にマガツ神がいる、ってことにならない?」
(用心せい)
「するけど。そりゃ、するけど。で、でも」
(曲がりなりにも、わしの<風断ち>を発現させた男が情けない声を出すな。急げ!)
いつものような叱責でありながら、ウルは、ミツルギの声にこれまでにない切迫したものを感じ取っていた。
一瞬といわず、ウルは躊躇したものの、その『切迫さ』に含まれた理由に気づくと、
「くそっ。あんたといると、いっつもこうだ」
毒づきながらも、入口に身をくぐらせた。
辺りに注意を払いながら、<剣聖>に叱咤されながらも、自分のペースで降りていく。
石段の果てには、広々とした空間が口を開けていた。
陽が落ちた現在、そこは真っ暗闇に閉ざされてしかるべきだったが、ウルがぎょっとしたことに、いくつかの光が空中を飛び交っていた。
最初、ウルはそれをホタルだと思った。
故郷にほど近い湿原地で見かけたことがある。
光を発しながら不規則な動きで空中を乱舞する姿が似ていたのだが、息を詰めて凝視しているうちに、その大小さまざまな光に生き物の姿はなく、ただ宙に浮いた炎そのものでしかない、と気づかされて、ウルは小さく悲鳴を発した。
あたかも地面で赤々と燃えさかっていた火に複数の意志が宿って、それぞれ身を引きちぎりつつ空中に躍りあがったかのようだ。
この超常の光景、ウルにとっては、根っこで地面を歩いていた大樹と同じく、やはりマガツ神以外の何者でもない。
すると唐突にウルは思い出した。
「そ、そういえば、あのおしゃべりの店主がいっていた。近ごろ旅人が『火の魔物』に襲われている、って。まさかこいつが!」
ウルは刀の柄に手をあてがったが、ミツルギは小さく唸った。
(これは……ちがうな)
「ち、ちがうって、なにが!」
こちらに気づいているのかいないのか、炎は紗幕のような尾を曳きつつ、依然宙を駆け巡っている。
「ち、ちくしょう、来るなら来い! こっちには、<剣聖>の技があるんだ」
(やめろ。力の加減ができぬおまえが狭い場所で<風断ち>を振るえば、確実に巻き添えを喰う)
「う、うるせえっ」
口論している間もなく、ついには炎が眼前にまで迫ってきた。
反射的にウルは刀を横殴りに振った。
たちまちのうちに起きた突風が炎を掻き乱す――かと思いきや、切っ先はふらふらと横へ落ちたばかり。
炎は何事もなくウルの側面を通り過ぎていった。
「く、くそっ。どうして! さっきは……」
(腰の位置も足の位置も、腕の振りも、とにかくすべてが悪い)
何度となく刀を振るってみても、やはり<風断ち>はおろか、たとえ誰かに当たったにしても傷ひとつつけられないだろうという、情けない一打にしかならない。
ますます焦ったウルが刀を引き戻したとき、
「懐かしい匂いがするわ」
急に、女性の声が聞こえてきたので、ウルのみならず、ミツルギまでもはっとなった。
「昨日までの匂いとはちがうようだけれど。ね?」




