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1――<剣聖>の娘


 双方に停滞が生じたのも一瞬、


「おまえ!」


 風を巻いて立ちあがったクレハがすぐさま腰の刀に手をあてがったので、ウルの喉が恐怖にきゅっと縮みあがった。

 なぜここに、という疑問にはすぐ答えが出た。

 単純にして明快。

 あれから、ウルをずっと追いかけてきたのだ。


「こんな手の込んだことまでして……どこまでも卑劣な男!」


 クレハはどうやら、井戸の底に落とされたのもウルの姦計かんけいによるものと思っているらしい。


「ま、待て。ちがう、ちがうんだって。おれだってあのガキに騙されたんだ!」


 尋常ならざる執着と敵意の発露を前に、ウルははなから圧倒されて、争うつもりはないという風に両手を挙げたのだが、クレハは腰を落として身構える。

 ウルは反射的にあとずさった。

 二歩もいかないうちに背中が壁に当たる。

 井戸の直径は一メートルにもならない。

 逃げ場所などはなかった。


戯言ざれごとを。おまえのいうことなど、なにひとつ信用できるものか。口を開く前に、父の刀をよこしなさい。さもなくば、斬る」

「わ……」


 わかった、といいかけたウルに、クレハは血の気の失せた顔で、


「いいですか、斬る、斬るのですよ。頭のてっぺんから股間にかけてを両断する。辺りに脳しょうと内臓、血がぶちまけられて、おぞましい死にざまをさらすことになる。本気ですよ?」


 なにやらしつこく畳みかけてくるので、ウルは震えあがった。


「わ、わかった。わかったってば」


 ウルは腰から鞘ごと抜いた『鬼吼』を地面に置いた。


(素直にわたす馬鹿があるか)


 心のなかで何者かが叫んでいたが、構ってなどいられない。

 斬られるのも痛みを味わうのもウルのほうなのだ。

 と、


「え?」


 あまりにあっさりと刀を置かれたので、クレハも面食らったようだ。

 きりりと吊りあげていた眉を八の字に寄せて、刀とウルの顔とを交互に見やる。


「ど、どうぞ」


 ウルは手を差しのべて、刀を手に取るよう勧めるのだが、


「ば、馬鹿め」


 クレハはいったんあとずさりしてから吼えた。


「どうせ、これもおまえの罠に決まっている。そんな児戯じぎのごとき罠に引っかかるわたしだとでも思ったか? 甘く見られたもの」


 つい最前、『児戯のごとき罠』に落ちてきたばかりのクレハは、ぎこちなく胸を張る。


「え、えっと。じゃあ、どうすればいいんですか?」

「んっ?」


 クレハは真顔のまま小首をひねった。

 しばしの間。

 目に見えないカンナで少しずつ心臓が削り取られていくような数秒が過ぎたのち、


「……いかにおまえが、父を殺して、兄を出し抜いた、許しがたき大悪党であっても、無抵抗の人間を斬るのは、わたしの、そして父の流儀に反します」

(そんなことを流儀にした覚えはないな)


 ミツルギが余計な茶々を入れたが、ウルはまたも構っていられなかった。

 というよりも、肉体を共有しているウルがいまにも娘の手にかかりそうになっているのに、<剣聖>が異様に落ちつきはらっているのが謎だったが、なにはともあれ、いまは現実のほうが大問題。


「だ、だからどうしろと?」

「兄から奪った刀があったはず。それを抜きなさい」

「え?」

「おまえがあの村長の家で振るったのは、まちがいなく<風断ち>。あれは父の技です。そしてマガツ神を斬ったのも、おそらくは、おまえ」


 暗がりに沈んだ世界で、クレハの独眼だけが白々とした光を放っている。

 夕陽の色をほんのりと添えられたそれは、血の雫のようにも見えた。


「おまえが何者であるのか、どうせじかに聞いたところでまともに答えはしないでしょう。大悪党とはそういうもの」

「いや、あの、話せば長くなりますが、お教えするのもやぶさかではないと、わたくしはそう考えている次第でありますが」

(やめておけ。どうせ信じはしない。それこそクレハの怒りに油を注ぐようなものだぞ)

「おまえの言葉など信じぬ、といった。だから、わたしが、じかにこの手で確かめようというのです。さあ、抜きなさい」

「い、いや、でも、だって」

「抜かぬというなら、まずおまえの手を斬る。次に足。腹、胸、背中。どこまで耐えられますか?」


 クレハの目つきが据わっている。

 ウルはごくりと喉仏を上下させた。


「く、くそっ。兄に比べればマシなほうだと思ってたけど、やっぱり兄妹だな。おい、あんた、子育てをとことんまちがえたぞ」

(無礼者め)

「無礼者め!」


 ミツルギ親子の声が、身体の内外に響いた。


「おまえなぞが、わたしの家族のなにを知っているというのです。さあ、抜けといったら抜きなさい!」

「わあっ、待ってよ、待ってって!」


 ウルは手足を振りまわして泣きわめくことしかできなかったが、


(安心せい。どのみち斬れぬよ。クレハには)


 と、<剣聖>の声が間近で聞こえた。


(こ奴は、人を斬ったことなどない。兄とちがってな。言葉こそ勇ましいものの、見ろ、殺意などこれっぽっちも感じぬだろうが)


 ミツルギはそういうものの、目の据わったクレハからはむしろ殺意しか感じないウルだ。


(もし本当の殺意を引き出せるというなら、やってみせてほしいくらいだ。よほどのことがない限り、この娘に人は斬れん)

「こ、この娘は、おれが父親の仇だって信じてるんだぜ。それって、『よほどのこと』じゃないの?」


 小声の問いかけに、一拍の間があってから、


(……それもそうだな。父を殺した下手人相手にすら殺意を放てぬとは、いろいろと情けのない。前に荒療治あらりょうじをしてやったつもりだが、それでもか)


 おかしな具合に憤りかけた<剣聖>。


「荒療治だって? 余計なことしてくれちゃって!」

(だからおびえる必要などないというのに、貴様もわからん奴だな。さっき、クレハがしつこいほど脅しをかけていたのも、無抵抗のおまえを斬らないと宣言したのも、心の弱さのあらわれよ。それに)

「そ、それに?」

(顔色や、腰が定まっていないところを見ると、どうも、ほとんど飲まず食わずでわしらを追いかけてきたようだな。この十日ほど、まともに寝ていたかどうかも怪しい。それに加えて、この狭い井戸。いいか、小僧。わしが合図をしたら……)


「抜けといっているの!」


 突然、クレハは細面を引き裂かんばかりの大口で吼えると、いよいよ抜刀の姿勢に入った。


(いまだ!)

「ええいっ」


 ウルに選択の余地などなかった。

 ミツルギに命じられるまま、相手との距離を詰めにかかる。

 ウルのほうも刀を抜く間などない。

 無手のまま、クレハの息が顔にかかる距離にまで入った。


「なっ」


 あきらかに動揺したクレハは、とっさに腕の角度を変えて刀を上へ引き抜こうとしつつ、後方に下がりかけた。


(未熟!)


 抜くにしても振るうにしても、当然、一刀以上の距離が必要になる。

 しかし<剣聖>の指摘したとおりに、衰弱したクレハでは男ひとりの突進をさばききれなかった。

 背中から壁に寄りかかる。

 瞬間、ウルはクレハの腰を抱いて、足払いをかけた。


「あっ」


 これも予想外だったのだろう、体勢を乱したクレハは後頭部を壁にぶつけた。

 腰ががくりと落ちる。

 そのままウルに伸しかかられる格好で、ずるずると井戸の底へ背中を預けていった。

 ウルの胸板で柔らかな感触が潰れた。

 ウルの体重に屈するかと思いきや、弾力いっぱいに抵抗してくる。

 それがクレハの胸だと気づいて、


「あ、あわわっ」


 ウルはあわてて上体を放した。

 見ると、クレハはがくりと首を折ったまま目を閉じていた。

 彼女に殺されかかったウルが心配になるくらいに無防備な姿だったが、


(気を失ったようだな)


 <剣聖>の言葉に、ウルは、はーっと長く息を吐いた。

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