2――新天地
子供の時分には故郷の村と近くの街を行き来するくらいで、また姉とともに逃げ込んだ先の山からは出ることもなかったウルだから、広々とした街道に降り立ったときは、思わず言葉を失った。
赤茶けたレンガが敷き詰められた古い街道や、枯れかかった樹の形状、石造りの家々、目に見えるものすべてが新鮮だった。
周りには誰ひとりとして顔見知りはおらず、ウルに構いたがる姉はもちろん、ウルに用事を押しつけようとする村長も、頑固として口を利こうとしないその妻も、そしてウルを棒切れで痛めつけたがるザナもいない。
「ああ!」
ウルは、感嘆の声を洩らして大きく背伸びした。
手といわず足といわず、全身を拘束していた枷が外れて、すーっと軽くなったような思いがした。
目に映るのが見知らぬ人たちばかりということは、見知らぬ女性たちが数多いということだ。
思春期を迎えて以降も、ウルは子供のときから知っている女性たちばかりに囲まれていた。
こうして顔立ちも背格好も様々な若い女性たちを目にすると、自分がこれまで狭苦しい穴倉に閉じ込められていたも同然であり、いまはじめて世界が色づいたような錯覚にとらわれもする。
初体験を済ませたばかりのウルだった。
経験する以前にあった、ある種の遠慮が失せている。
手を伸ばす努力さえすれば、ほっそりとした首から下の衣服に消えた曲線部に余さず触れられるのではないかと、これもついつい錯覚してしまう。
これが本当の自由ということかもしれない、とウルはぼんやりと考えた。
(発情しておる場合か、山猿めが。いつクレハが追いついてくるかわからん。まずはこの街道を西へ。次の宿場街との中間地点あたりで南へ折れろ。地形はわしの頭に入っている。おまえはいうとおりにいけばいい)
いいや、と半ばげんなりしながらウルはかぶりを振った。
こんな自由があってたまるかよ。
なにせ身体のなかに別人が住み着いているので、一挙手一投足にいちいち文句がつけられる。
(汚い喰い方だ。躾がなっておらん。おまえがわしの子なら、木で打ち据えてでも矯正しているところだ。ちょっと崩したその座り方がかっこいいつもりか? お里を知られると舐められるぞ。作法とはおのれを飾り立てるものではないが、おのれを守るものではあるのだ)
「うるっせえな」
思わず声に出してしまったのを、
「ああ、これは失敬。しゃべりすぎなのが、この真面目一徹の玉に瑕なところでしてな」
さっきからずっとウルにつきっきりだった店主が誤解をして、丸顔に笑みを浮かべた。
ウルはあわてて訂正したが、店主にさほど気にした様子はなかった。
こんなたぐいの言葉はいわれ慣れているのだろう。
新しい一団が店に入ってきたので、店主はそちらの応対に向かった。
おしゃべりのターゲットを新たに得たとあって、ウルがすでになんべんも聞いたような話を頭から繰りかえしている。
ウルは嘆息したのち、
「そろそろ教えてくれていいんじゃない?」
小声でこっそりと聞いた。
(なにをだ?)
「とぼけるなよ。この刀の届け先だよ。いったいどこの誰にこれを届ければ、あんたが命を懸けてでもやろうとした使命を果たせるの?」
(そんなつまらん使命があるものか。あのときは命尽きる覚悟を決めていたから、せめてこの刀を息子の手に届かぬところに預けたかった、というだけのこと)
「えっ? じゃあ、いま向かっているのは、前にいっていたのとちがう場所なの?」
(いや、同じだ。目的はちがってきたが、おまえとは関わりない。わしのいうとおりにしろ)
「それだよ」
ウルは、骨つきの鶏肉を最後までしゃぶりぬいてから、力の抜けた声で指摘した。
(それ、とは、どれのことだ?)
「あんたはって人はさ、多分、人に命令したり、従わせたりするのに慣れているんだよ。<剣聖>さまだからね。それでかどうか、言葉で説明するのを面倒がるんだ。そんなものに意味はない、自分についてくればすべてわかるから、って」
(理解できぬ者に一から説明したところで、時間と気力を無駄にするだけだ)
「息子に対してもそうだったもんな?」
(なんだと。貴様、わしの記憶を見たのか?)
ミツルギの感情が荒立つのがわかった。
いかにも短気なようだが、これには一応のこと、ちゃんとした理由がある。
まだ街道を歩いていたときのことだ。
(これまでの経験でわかったように、わしはおまえの、おまえはわしの記憶を共有しつつあるようだ)
<剣聖>はこう切り出した。
(だからこそ生きのびることができたともいえるが、しかし互いに干渉しすぎては別の意味で危険だ。魂の融合が進む恐れがある)
「魂の融合?」
(詳しいことを伝えても、どうせわからんよ。なにせわし自身がすべてを理解しているとはいいがたい。ただ確かなのは、この秘術、本来ならば魂の性質が近いもの同士でおこなってきたということだ。蛇廻教の巫女たちは、だから厳格な掟に縛られていた。人生における経験や、思想にいたるあらゆる部分が、なるだけ同じになるようにな。それでこそ魂は深い部分で共鳴を起こし、融合しやすくなる――と考えていた。もし、わしとおまえが記憶をこれ以上共有するようなことになれば、まったくの他人同士であるわれわれでさえ、性質がうっかり近づいてしまい、魂がひとつに結ばれかねん)
「だから、どうしろって?」
(いまの時点では、記憶のやり取りを拒否することにする。決して互いの領域に踏み込みすぎぬように)
「勝手なこといってるよ。あんたのほうから土足で踏み込んできたくせして」
(それだ)
「それって、どれ?」
(『土足で踏み込む』などという概念を、なぜおまえが理解している? それは、わしの生まれ故郷の習慣から生まれた言葉だ。すでに記憶が互いを侵食して、おまえが自分の形を見失いつつある証だ)
いわれてみてはじめて、ウルははっとなった。
確かに、敷居をまたぐ際に履物を脱ぐという風習を、ウルは経験したことがない。
それなのに、ミツルギに憤慨した瞬間、ごく自然とその慣用句が出てきた。
そこに含まれた意味を理解しているのだ。
無意識のうちに。
「だ、だけど、記憶を見ないようにしようっていったってさ、やり方なんてわからないよ。マガツ神と戦ったときだって、あんたの記憶が勝手に流れ込んできたんだし。ただ単純に目を逸らせばいい、ってもんじゃないだろ?」
(これも概念の問題だ。たとえば……そう、これまではまったく忘れ果てていたような出来事が、不意によみがえるときがあるだろう。こんなことを自分はまだ覚えていたのか、と驚くとともに、しばらくのあいだ、その思い出で頭がいっぱいになってしまうような)
「ああ。……たまに、あるね」
(それを無理にでも頭から追い出そうとした経験とてあるはずだ。別のことを考えるなり、身体を使ってやる作業に集中したり。要領はそれと同じことだ。わしはすでに実践している。おまえもやれ)
頭ごなしに命じられて反発を覚えないウルではなかったが、しかしさっきの『土足』の件で心底ぞっとさせられたこともあって、ひとまずは納得した。
ミツルギが「記憶を見たのか」と語気を鋭くさせたのは、二人がそのとき交わした約束に由来する。
が、ウルはもう一度かぶりを振った。
「ちがうよ。あれから一度だってあんたの記憶なんて見ちゃいない。かまをかけただけさ。で、あんたがむっとしたってことは、当たってるみたいだな」
(なにを、貴様)
ミツルギは短く唸った。
図星ではあったのだろう。
ウルは一団とのおしゃべりに忙しい店主に手を挙げて、一杯の茶を所望した。
木のカップが手もとに届いてから、
「あのさ、<剣聖>。聞いてくれないかな。あんたは凄い剣士だと思うし、偉大なことをやったとも思う。おれを生贄から助けてくれたのもさ、本当は――まあ、少しくらいなら、感謝しているんだよ」
(であろうな)
「あんたは確かに凄い男だけど、だからといって、この身体を『はい、どうぞ』って貸し与えるわけにはいかないんだよ。だって、いままでの話からすると、この『秘術』ってものが本当はどんなものだか、あんただって理解しちゃいないみたいじゃないか。いったん貸したが最後、身体や心がどうなるか知れたもんじゃないし、それに――、実際のところ、この身体を使ってあんたがなにをするつもりなのか、おれにはさっぱりわからない、っていうのが第一の問題なわけ。極端な話、あんたが大勢の人殺しをするつもりで、結果、おれにその罪が着せられちゃかなわないんだよ」
(愚か極まりない。わしが敵でもない人間を殺すものか)
「『敵』が誰かなんてことも、おれにはわからない。そういう話をしてるんだ」
(いいたいことがあるならさっさといえ。時間も気力も無駄遣いしたくないというのに――)
「無駄じゃない!」
ウルがいきなり大声を出したので、少なからぬ客がこちらのほうを見た。
はっとしたウルは周囲に愛想笑いを振りまいてから、声を押し殺して、
「……無駄なんかじゃないんだよ。おれじゃなくて、これはあんたにとってもね」
(なに?)
「これまでのことからすると、おれがその気にならなきゃこの身体はあんたの自由にはならないらしい。どういうことかわかるかい? 本当の本当なら、あんたはおれに命令できる立場じゃないんだよ。おれに事情を一から打ち明けて、おれを説得して、涙ながらに、どうかお願いですから自分の目的を遂げさせてください、とお願いするべき立場なんだ。それこそ時間と気力を嫌になるほど消費してね」
(いうもいうたり。あまり口が過ぎるようなら、わしにも相応の――)
「まだわからない?」
ウルはここが正念場だとばかりに息を吸った。
「そりゃ、あんたが生きているあいだは、誰もがあんたの剣や、あんたの経歴を恐れてくれたと思うよ。あんたがどれだけ我を押しとおそうとそれを受け入れてくれたし、あんたがどれだけ言葉足らずでも、周りのほうから懸命にその意味を汲み取ろうとしてくれたんだろう。でもいまはちがう。あんたはもう死んだんだ。だから、あんたがどれだけ凄んだところで、おれは別に怖くない。命令を聞く義務だってない。だからさ、あんたのほうからそれなりの関係をつくる努力をしないといけないんじゃないかって、おれはそういってるんだ。そうじゃないと――」
ウルは半腰になった。
「ほら、おれはいまにも席を立って、店を出たあと、あんたが指定したのとはまったく逆の方角めがけて歩き出したっていいんだぜ。あんたは脅すなりわめくなり、好きにすればいいさ。ちょっとうるさくなるだろうけど、それだけさ。痛くもかゆくもない」
(ほう?)
老人の、底意地の悪そうな笑みが垣間見えた。
(わしを甘く見るなよ。おまえは自分の許しがなければ、わしが指一本動かせぬと思っているようだが、本当にそうかな? わしがその気になれば、右腕を動かして首を掻っ切ることくらいはできるとしたなら?)
「嘘をいうな」
じとっとした冷や汗を背中に意識しつつ、ウルは胆力を込めて、意識内の<剣聖>をにらみつける。
「それができるなら、おれが眠っているときにでも身体を操って、いまごろはあんたのいきたいところにいるはずだし、そもそも、そんなことをしたって困るのはあんたのほうだ」
(わしがあとさき考えずに短気を起こす可能性も考慮せい、という話よ)
「いいや、<剣聖>、あんたはそこまでの馬鹿じゃないよ」
互角に丁丁発止を繰りひろげているようでいて、正直にいえば、この老人相手に勝負を持ちかけるのは恐ろしかった。
<剣聖>の記憶がよぎるたび、脳裏を熱い大火がかすめる。
それはひどく強い感情を燃料に燃えさかっていた。
あるいは大勢の人の命がくべられたとて、意にも介さずになお燃えつづけるであろうそれを知るからこそ、ウルはこの勝負に負けるわけにはいかなかったのだ。
<剣聖>はしばし無言。
ウルは平気な顔をよそおって茶を口に含む。
すでに冷えて苦味を増していた。
店主と話していた客の一団がどっと笑うのが聞こえてきた。
あんなつまらないゴシップでも、近所の人間からすれば面白いらしい。
茶を空にしたウルは席を立つと、店主に金を払って、店の外へと出た。
埃っぽい風が吹きつけてくる。
どちらへいくか、ウルはわざとたっぷりとした間をかけて、迷う振りをした。
すると<剣聖>が舌打ちをするイメージが届いてきた。
(……存外、喰えん男だな。なにが聞きたい?)
「あんたが話しやすいことからでいいよ」
ウルは安堵の息を隠して、微笑んだ。
対するミツルギはいかにも根負けしたかのようにもう一度舌打ちしたが、このとき、ウルがもっと深くミツルギの領域に足を踏み入れていたなら、<剣聖>がむしろ暗い笑みを口もとにへばりつかせているようなイメージが見えたかもしれない。
(わしがさっきいったとおりに進め。なるべく目立たぬようにな。その道中に少しは話してやってもいいが、しかし忘れるな。わしの話を聞いても、わしの記憶を『見て』はならん。心の目は逸らしておけ)
「できる限り努力するよ。……でも、街道に出るマガツ神ってのはどうするのさ? 『火の魔物』ってのに本当に出くわしちまったら」
(忘れたか。マガツ神が近づけば、その気配は鬼吼が教えてくれる)
「あっ、そうか」
ウルは腰の刀を叩いた。
街道は広々としている。
遠方に土煙が立つのが見えた。
隊商が馬を飛ばしてこの宿場街を目指しているのだろう。
(わしが<剣聖>とも呼ばれた剣士であるのは知ってのとおりだ。それは、五十年以上前の戦いに由来する。かつてこの大陸に、無数のマガツ神があらわれた――)
ミツルギは、記憶の糸を手繰るようにぼそぼそと話しはじめた。




