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1――噂


 街道近辺に妙な噂が立ちはじめたのが、およそひと月前のこと。

 ベルトール伯領を東西に横断するこの街道、往来する人も馬車もそれなりの数があったが、ある晩、街道沿いの宿場町で門番をつとめていた男が、道の向こう側から赤々とした火の手を見た。


 最初は火事が起こったのだと思った。

 しかしあの辺りに建物はなく、さかんに燃えるような森や林もない。

 不審に思って目を凝らしているうちに、赤い光は消え失せた。

 門番は首をひねって、結局は勘ちがいだと思うことにした。

 彼は彼で忙しい。

 昨夜のカード賭博での損失に関して、まだ妻を納得させられるだけの言い訳が見つからないままだった。


 それから一時間ほどのち。

 門番はふたたびぎょっとさせられた。

 真っ黒い汚れにまみれた男が、よろよろとした足取りで門に近づいてきたのだ。

 思わず、門柱に立てかけられた槍を手にしたが、彼はこの東側の門を担当して十数年にはなる。

 行き来する商人のなかには顔見知りも多い。


 すぐに気づいて、槍を投げ出すと、前のめりになったその男を抱き止めた。

 嫌な臭いがした。

 服や皮膚の表面が真っ黒くなっていたのは汚れのためではなく、そこかしこが焼き焦げていたからだった。

 髪も例外ではない。

 手足の一部、それに頬の大部分などは皮膚がごっそり剥けて赤黒くなっている。

 間近にするまで正体がわからないほどに変わり果てていたが、数年前から、伯領で市場が立つたびに往来していた商人の息子だ。


「おい!」


 門番が大声をあげて肩を揺すっても反応がない。

 触れた箇所が熱かった。

 盗賊の集団にでも襲われたか。

 街道沿いは比較的安全といっても、途中に、開拓中の森に南北を挟まれた地帯がある。

 懐が多少潤っている商人などは、そこを通る前に、街や村で護衛を募る必要があった。

 昼なお暗い木々のあいだで無法者どもがナイフを光らせ、息を殺して待ち構えている場合があるからだ。

 門番は人を呼んで、若者を街の医者に届けようとした。

 その寸前、彼の目がうっすらと開いて、


「……ま、魔物だ」


 とつぶやいた。


「火の魔物に襲われた!」


 二度目は叫ぶようにいうと、若者はまた意識を失ってしまった。



 それからひと月のあいだ、近隣の宿場や村々で、似たようなことが立てつづけに起こった。

 隊商や旅人、巡礼者などが、火に追いたてられて逃げてくる。

 ただし火の手は見えない。

 彼らは口を揃えて、


「火の魔物を見た、襲われた、逃げてきた」


 という。

 口が利けたぶん、彼らはまだ幸運に恵まれたというべきだろう。

 ものいわぬ黒焦げの死体となって街道に転がっていた人々に比べれば。


 なかには人の原型をとどめぬほどに骨が崩れていた例もあり、よほど火事が長つづきしたのでない限りこのようなことにはならないはずだが、その割に、周辺の土や木々はわずかに焦げているだけ。

 いずれの現場にも、大火が立ちのぼった痕跡はなかった。

 奇怪極まりない。

 であるからこそ、


「火の魔物」

 の噂はたちまちのうちに西から東へ、あるいは東から西へと、街道を風の速さで伝わっていったのだった。



 そして。


(ああ)


 噂がひとつ増えるたび――それが真実であるならば同時に『火の魔物』による犠牲者が増えるたびに――人知れず、苦悩の息を洩らす者があった。

 横になっている。

 寝具から見える腕は細く、また歳を経てしなびていたが、しかし突如、その腕が寝具を跳ねあげながら中空へとのびた。


(いけない)


 手は、なにもない空間を掻きむしる。


(いけない、わたしは、いけない)

(ああ!)


 その人物にはなにが見えていたのだろう。

 まるで旧知の友を呼ぶようにいくつかの名前を発しながらも、しかし応えるものもないままに、ふたたびその手は寝具の上へと落ちていった。


(わたしは、いけない――)



「マガツ神だってよ!」


 入る店をまちがえた、とウルは何度目かに思った。

 丸顔の店主はおしゃべり好きの人間だった。

 注文をする前から、ご近所のゴシップ話を――もちろん、ウルが顔も知らない人たちのものばかりだ――耳からあふれんばかりの量で聞かされたし、料理を食べているあいだは、終始、質問責めにあった。


 どこから来たのか、なにをしにいくのか、その細長い布のなかにはなにが入っているのか、年齢は、恋人はいるのか、一日に何度(かわや)へいくのか。

 ウルは適当に答えていたのだが、最後の最後に、取って置きのゴシップだといわんばかりに店主は「マガツ神」のことを口にした。


 ウル自身も通ってきた街道で、ここのところ怪しげな噂が立っていた。

 旅人や隊商が『火の魔物』とやらに襲われているという。

 『王国人』にとっての魔物とは、歴史上、彼らを何度も苦しめてきた「マガツ神」のことにほかならない。


「何十年前に滅んだはずのマガツ神だがよ、悪魔ってのはしぶといもんさ。なにせこれまで二度もよみがえったんだからさ、三度目だってあり得る話だよな。坊主、まだこの街道をいくつもりなら気をつけなよ。できれば、護衛を雇っている隊商や巡礼者なんかの一団にまぎれ込んだほうがいい。いんや? 『火の魔物』は大勢の人がいるところを狙って襲ってくる、って話だったかな? だったら、ひとり旅のほうがまだいいかもしれない。だけどそうなると、今度は盗賊が厄介だな。知っているかい? 赤い布を肩に巻きつけた盗賊団がこのあたりでは有名なんだが、なんと、一団の頭領は伯爵さまの縁者だっていうんだよ。ちょっとひと言では説明できないほどの因縁と事情があって……」


(マガツ神だってよ)


 ウルは店主の口調を真似て、内心に問いかけてみた。


(どう思う?)

(いても不思議ではないが、わしらには関わりのないことよ)


 内心――つまりはウルの身に宿ったもうひとつの魂であるミツルギが応じる。


(とにかく、いまはわしの指定した場所へ急げ。本当ならここでゆっくりしている時間とて惜しいくらいだ。いつ背中から斬りつけられるかわからんのだからな)

(おれは身体のないあんたとちがって、お腹が空くし、食べなきゃそもそも動けないんだ)

(相変わらず、減らず口の多い小僧だ)

(若人の正論を認めたがらないのは、年寄りの悪いところじゃないかな)


 この奇妙な関係はいまもってつづいている。

 というより、ウルにもミツルギにも断ち切りようがない、というのが実状だ。

 ウルにしてみれば、かつての英雄だろうがなんだろうが、ミツルギはこちらの肉体を横取りしようしているうえに厄介事を招き寄せる厄病神そのものでしかない。

 「背中を斬りつけられる」などとミツルギは脅したが、ではその背中を狙っている人物は何者かというと、その<剣聖>の娘なのだ。


 クレハが独眼を白々と光らせて躍りかかってきた記憶は、いまも鮮明だ。

 大樹のマガツ神と戦ったときも相当だが、そんな化け物じみた相手よりも、人間、それも女性であるクレハに斬りかかられたときの恐怖のほうがよほど生々しい。


(女の人に殺意を向けられたのなんて、はじめてだったんだよ、おれ)


 正直、いまでも悪夢に見るほどだ。

 ミツルギが川に身を投じたことで逃れることができたものの、それからが大変だった。

 激しい濁流に呑まれそうになること数十度、ウルは胃袋を水でいっぱいにしながらも、数キロくだった先の岸辺にかろうじて身体を引っぱりあげた。


 地面に手をついてげえげえと水を吐いていたときには、もう肉体の支配権はウルに戻っている。

 つまりは、その苦しみもウルがひとりで引き受けたわけだ。

 そしてウルは糸が切れた人形のように大の字になった。


(小僧、休んでいる場合か。娘の性格からして、あのていどであきらめはしない。必ず追ってくる)


 ミツルギがなにかいっていたが、ウルはもう聞く耳持たなかった。

 今度こそ指の一本も動かせそうになかったからだ。

 なにしろ、マガツ神との戦いで疲れ果てていた。

 もう身体のどこを振り絞ろうが、力などは一滴たりとも残されていない。


「だったら……この身体、貸してやるから、あんたが好きにしたらいい」


 捨て台詞とともに目を閉じると、丸一日を寝て過ごした。

 目を覚ましても、まだ動けなかった。

 今度は身体中が猛烈な痛みに襲われていた。

 ミツルギに強く促されようと、ひどい嫌味をいわれようと、厳しく叱咤されようと、動けないものは動けない。

 結局、起きあがれるようになるまで、さらに二日ほどを要した。


 一歩ずつ、足を引きずるようにしながら下り坂をおりて、主街道へ。

 半日をかけて小さな宿場町に着くのと同時に、ウルは急にせっぱ詰まるほどの空腹を覚えた。

 ポケットに手を入れると、幸い、数枚の銀貨が水に流されずに残されていた。

 そこで食事を採ることにしたのだが、この街でもまた、


「マガツ神」


 の名を耳にすることになったのだった。

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