5――死線
タイミングは完璧だった。
『神』とて油断はある。
ミツルギの持論であるが、『神』と名づけられているといっても、精神の基盤となっているのはあくまで人間であるから、生き物と共通している部分も数多くあって、『食事』の際にもっとも油断して、弱点をさらすのも同様だった。
だから、そこを狙った。
狙わざるを得なかった、というのが正確なところだ。
すでにわかっているとおり、ウルの肉体では技の連発に耐えられない。
一度か二度が限度。
それも、<風断ち>――と、そこから派生するすべての技――にはいわゆる『溜め』が必要となる。
若かりしころのミツルギなら息を吸うように容易にできたことだが、ウルの足腰では時間がかかる。
敵の攻撃をかわしながら放つなどは、まず不可能。
であるなら、取れる手段はひとつ。
先手を打つ。
そしてその先手をもって敵を討つ。
だからこその二連撃だった。
肉体にかかる負担は大きいが、あとのことなど考えていられなかった。
そして見事ミツルギの目論みは成功したかに見えたのだが、
「浅いか!」
いまのひと声がすべてだった。
これも若かりしころのミツルギならばやすやすとやり遂げたであろう連撃も、ウルの身体ではいくら同じようにしたところで、威力ががくんと落ちる。
思いかえしてみれば、ミツルギは当初、ウルの身体では立つのにも苦労していたほどではないか。
身に染みついた技であればあるほどに、筋肉の質や量、腰の高さや腕の長さといった肉体の差異がおよぼす影響は大きい。
もちろん、ミツルギとて可能な限り修正を施してみたつもりだ。
技に工夫を施しては死線をかいくぐってきた<剣聖>なればこそ、そして子供に手取り足取り教育していた期間があればこそ、その修正が功を奏して技が発動したといっていいのだが、逆に、ミツルギの工夫をもってしても『浅い』のであれば、いまの段階でこれ以上は望むべくもない。
対する『神』は、激しく身悶えしていた。
抵抗されたこと、あるいは傷つけられたことへの動揺、そして大いなる怒りを、大樹は言語以外の手段でもって表現しようとしてか、樹皮の色を瞬く間に変化させていた。
いかにも手触りが硬そうなそれらが、これまで大人しく樹の振りをしていたがそれももうやめだ――という風に、うっすらピンク色を帯びはじめる。
(うげえ)
というのは、<剣聖>の内側で眠っていたウルの嗚咽にも似た声。
ピンク色に染まった表皮は、妙にきめ細かくて、しっとりとした潤いもあり、手触りはすべすべとして弾力に富んでいそうだった。
そう、人間の素肌に似ている。
ウルはついこの前大事な思い出になったばかりのキャシーとのひとときを思い出してしまい、それゆえにまた猛烈な嫌悪を覚えた。
まるで女体の部分部分が継ぎはぎされて樹木の形を保っているようなおぞましさで、ウルでなくとも、まともな人間ならば正視に耐えられまい。
さらに不気味なことに、節々は、うっすらとした黒い静脈によって球形に区分されていた。
素肌の色をした瘤が、何層にも連なっているのだ。
それら瘤がまるで示しあわせたようにいっせいに蠢くと、<剣聖>に傷つけられた箇所を盛りあげにかかった。
いわば、ぽっかりと欠損した部位をほかの部分で埋めあわせたのだ。
いまや肌色と化した幹の部分が大きくしなう。
とともに、
(ぬっ)
ミツルギは、二歩、三歩、後方へとステップを踏んだ。
その直後、地面に数条のひび割れが生じた。
人をつまずかせる段差ていどのものが、あっという間に断面を覗かせるほどの深い亀裂となる。
その向こうから、鞭のようにしなる物体が数々あらわれた。
いずれもウル本人の腰よりも太いそれは、大樹の根であったろうか。
やはり触手枝と同じく黒っぽい静脈と、女性の肌じみた光沢を有している。
土くれや石をこれでもかと噴きあげつつ地面からべりべり引き剥がされた根っこの数々が、亀裂の断面でいっせいに踏んばるような動きをして、樹木本体を持ちあげにかかった。
人間が、お尻の位置を気にして座りなおす動きに似ている。
一見するとユーモラスだったが、亀裂を自ら乗り越えた樹木は、それら根っこを多足動物の脚のようにうじゃうじゃ蠢かすや、なんとその巨体を前進させはじめたのである。
もうもうとした土煙をあげて、ご神木が迫ってくる光景などは悪夢さながらだったが、ミツルギはあわてることなく瞬時に疾走。
大樹も、巨体に不釣りあいなほど敏捷についてくる。
さらに『神』は、追跡のさなかにも艶光りする枝を次々飛ばしてきた。
ミツルギはそれを時に斬りはらい、時に跳躍してよける。
腕前こそ見事であるものの、そうして応戦せざるを得ない以上、どうしても速度が落ちる。
<風断ち>の溜めをつくるどころではない。
たとえ時間的余裕があったにせよ、いまのウルに技を放てたかどうか。
肉体はとうに悲鳴をあげていた。
筋肉はいたる箇所で燃えあがり、骨もきしみをあげている。
息はもう切れ切れで、下手をすれば一瞬後にはもう昏倒してしまいかねない。
(ならば)
走っていても無駄だ、とミツルギは判断した。
技を使えぬのであれば、別の手段で『神』を傷つける方法を取るしかない。
ミツルギは腰に差したもうひと振りの刀――ミツルギ自身が、「ある意味ではこれもマガツ神」と呼んだ、禍々しい形のほう――に手をあてがった。
できることなら、使いたくなかったというのが本音。
かつて身体の一部のように使いこなしていた刀であっても、すでに数十年近いブランクがある。
加えて、いまの、魂が混ざりあった複雑な状況にあっては、刀がどのような影響をおよぼしてくるかも未知数。
できれば最初は、もっと静かな環境で、それなりの時間をかけて試してみたかった。
が、基礎である<風断ち>すら放てぬ以上、『神』を傷つけられるとすれば、この太刀をおいてほかにあり得ない。
ミツルギは唐突に足を止めた。
勢いあまってつんのめりそうになるところ、右の爪先と左の踵で思いきり踏んばって、身体を左へとねじる。
爪先で地面をえぐりつつ反転。
一方の『神』は、さすがにそこまで柔軟には対応できなかった。
ウルの身体が巨体の側面を飛ぶ形で、『神』と人間とが交錯する。
ミツルギは中空で刀を抜いていた。
(――鬼吼!)
抜くと同時、交錯が終わる寸前のたった一瞬の好機をあやまたず、ミツルギの放った一撃が命中した。
見た目はあちこちが湾曲したようないびつな刀である。
まっすぐ鞘に収まっていたのが信じがたいくらいで、刀身は不気味なまでにどす黒い。
いったいまともな切れ味を発揮するかどうかも疑わしい代物だったのだが、ウルが地面に着地したときにはもう、反転を終えかけていた大樹の幹、その側面が大きくえぐれていた。
人間にたとえるなら、脇腹にぽっかりと穴を穿たれたようなものだ。
『神』とてさすがに苦しいか、一瞬遅れて、雷鳴じみた声をあげて巨体をよじった。
鬼吼の斬れ味、恐るべし。
(――ここだ!)
ミツルギは身体に鞭打って、ふたたび前のめりで疾走。
矢の速度をもって飛来してきた枝に毛髪をかすらせつつ、一気に大樹の懐へと潜り込んだ。
(仕留めるなら、ここしかない)
とにかくもう息をするのも忘れるほどに、上から、右から、左からと斬りかかる。
そのいずれも深い傷口をえぐった。
対する『神』はいったん移動をあきらめてか、その枝々でウルを串刺しにかかった。
数も勢いも、あきらかに前より減じていたものの、しかし当たれば致命傷を負うのは必定だったので、ミツルギも防御せざるを得ない。
星がちらちらと雲の切れ目に覗く、雨あがりの空の下。
『神』の放つおびただしい触手と、それを弾きつつ、一瞬の隙を見出しては巨木に斬りかかる一本の刃が、種類さまざまな音を奏でつづける。
幹を斬りつけるときの乾いてはいるが鋭い斬撃音、『神』の形容しがたい声、枝が湾曲する音、根っこの立ちあがる不快な音。
それに混じって、ウルのせわしない息遣い。
『神』と人間との奇妙な根競べがどれほどつづいたか。
四方八方から跳んでくる触手枝、そして足もとに絡んでこようとする根っこを退けていたウルの足もとが、乱れた。
あわてて踏んばったが、『神』にもまた好機を判断する知性があったか、ふたたび攻撃に勢いがついた。
おかげで乱れた姿勢をなかなか戻せず、ミツルギは不自然な体勢で刀を振るうほかなくなった。
さらにはここにきて、ミツルギの視界が霞がかったようになってきた。
さしもの<剣聖>も慄然となる。
(しっかりせいっ。小僧、魂が戻りつつあるぞ!)
(お、おれのせいだけじゃないよ!)
ウルのあげた声は、存外、ミツルギのすぐ近くで聞こえた。
もちろん本来の意味での距離ではない。
(あんたのほうも、身体から遠ざかっているんだ!)
肉体を酷使しすぎたためだろうか、その肉体が放つ危険信号を本来受ける取るべきウルの魂が強く呼応している。
よそ者であるミツルギの魂は応じることができず、自然、肉体の中心から追いやられつつあるようだった。
ミツルギは懸命に踏みとどまろうとしたが、しかし魂を同じ場所にとどめるにはどうしたらいいのかなど、わからない。
両者が手をこまねいているうちに、
「くそっ――」
ウルの口から、ウル本人の意志から声が発せられた。
余人にはごく当たり前の出来事ながら、この両者にとっては恐るべきことを意味した。
肉体の支配権が入れ替わったのだ。
瞬間、ウルの視界にまず飛び込んできたのは、額を貫かんとする枝の一撃。
「うわあっ」
ウルは情けない声をあげながらも、反射的に刀を掲げてその一撃を受けた。
かろうじて受けたかに見えたが、肩から背中にかけて大きな痛みが走って、ウルの身体はあっさり後方へと吹き飛んだ。
その手から鬼吼が落ちる。
追撃がなかったのは幸いだった。
『神』も、この根競べで相当に消耗したのだろう。
ピンク色の幹のあちこちに深い切り傷ができており、内部から、黒い煤のような物体が洩れている。
ウルはあわてて跳ね起きて、刀を手に取った。
直後にまた、『神』が攻撃を再開。
先ほどまではすべてを払うことができたが、いかんせん、ウルでは受けるのがやっと――というより、剣の素人であるウルが受けきっていること自体、まぐれ当たりが何度もつづいているようなものだ。
そして、まぐれとはそう長つづきするものではない。
ウルが判断をひとつでも誤れば、そのときには身体のどこかを貫かれる。
それでしまいだ。
あとは全身串刺しになるだけ。
(こ、これは)
ウルの内面に戻ったミツルギが、およそ<剣聖>に似つかわしくない声をあげた。
戦う前から、勝機はごく少ないだろうとわかってはいた。
とともに、自分ならその少ない勝機をものにできるはずだと確信していた。
同じような局面でことごとく打ち勝ってきたからこその<剣聖>なのだ。
だが。
いま、この肉体で――ひ弱で、息ひとつ吸うのにすら痛みをともなうほど傷ついたこの身体で――勝つイメージがまるで見えない。
同じ理由で、もはや逃げることさえ不可能。
すなわち、死ぬ。
(信念をまげて、剣の道にそむいて、怪しげな秘術にまで頼った結果が、これかよ)
ミツルギは血を吐くような思いでつぶやいた。
(わが魂よ、ぞんぶんに呪われるがいい。死の結末は変わらず、ただ小童一匹の命を道づれにしただけだ。いや、その童とて、どうせ『ヤツ』に喰われる運命だったというなら、結局、なにも変えられはしなかったのだ)
ミツルギは暗く嘲笑した。
もう、死ぬのを待つだけだ。
それもほどなくだろう。
いまこの瞬間にでも。
ところが、瞬きを数回挟んだのちも、まだミツルギは『生きていた』。
(ほほう? 素人がよくやる。褒めてやってもいいぞ、小僧)
ウルはまだ攻撃を防いでいる。
肩や腕も貫かれていない。
もはや奇跡といっていいレベルだ。
さらに数秒。
まだだ。
まだ死なない。
なおウルは命を守りつづけている。
(むっ?)
このときミツルギは奇妙なものを感じた。
魂が密接している両者だから、相手の感情が手に取るようにわかるときがある。
ウルが先ほどからひっきりなしに抱いている感情は、恐怖。
当たり前のことだ。
が、そのひとつのみではない。
激しく吹き荒れる嵐にまぎれて、木のうろに吹き込んだ風がただ一箇所でのみ異なる音色を奏でているかのように、別の感情もまた存在している。
ミツルギは『耳』を澄まし、『目』を見開いた。
そして気づいた。
ぼろぼろの身体で剣を打ち振っているウルの顔は、汗と鼻水、そして涙にまみれながらも――、口もとにのみ、はっきりと笑みを浮かべていた。
ミツルギに流れ込んできたウルのもうひとつの感情とは、『歓喜』だった。




