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2――老人と少年


 ウルが戻ってきたのは、およそ半時間後だった。

 自身が宣告した命の残り時間と等しかったが、老人は幸いにも呼吸をつづけていた。

 虚空をにらんでいるうちに何度か意識をさらわれかけたが、その都度、懸命に意識をつなぎとめた。

 雨はまだ降りつづいている。

 ずぶ濡れの外套を脱いだウルの顔に、老人は真新しいあざを見つけた。

 その視線に気づいてか、ウルは額や頬を隠すようにそっぽを向いた。


「ああ、これ――、その、急いでいたから転んじゃって」

「転んだ痣ではないな」


 酒壺を受け取りながら、老人は冷ややかにいった。


「道場生の顔によくできている。下手くそが、下手くそに打たれた痕だ」


 ウルはしばらく頭のしぶきを払う振りをしていたが、沈黙に耐えられなくなってか、苦笑いしながら答えた。


「村に戻ったとき、村長の息子に見つかっちゃってさ。いつものことなんだよ。『おまえは、うちの小間使いだから、おれの剣の稽古の相手をしろ』って、棒っ切れでコツンとやられて。しつこいんだよ、あいつ。嫌がってるのに、何度も何度も」

「剣の稽古? おまえの村では剣術が流行っているのか」

「まさか。ただの『ごっこ遊び』だよ。村長の息子ザナが、<剣鬼>イスルギか<剣聖>ミツルギの役で、おれが、邪悪で恐ろしいマガツ神の役。いつもそうさ。だからいつも、やっつけられないといけないんだ」

「――イスルギ、ミツルギか」


 老人は一瞬遠い目をしたが、すぐに目の前のウルに焦点を戻した。


「その、剣の達人ザナに仕返しをしたいというのが、剣を欲する理由か」

「ち、ちがうよ。本物の剣なんて持ち出したら、ザナが父親に言いつけて、もっとひどいことになるに決まってる。息子に怪我させたな、って怒られて、その日の夕食は抜きだろうな。おれのほうの怪我は、見て見ぬ振りするくせに」

「では、なぜ剣を手に入れたい?」


 老人は酒をひと口含んだ。

 嚥下えんかした途端、火が体中をひと巡りするみたいな感覚があった。

 意識の過剰な覚醒、血の沸騰、内臓がいっせいに抗議してくるかのような痛み――。

 なるほどな、と内心で老人はひとりごちる。

 これが、死を間近にした酒の味か。


「ザナと勝負したいわけじゃないけど、そのう、こっそり隠し持っていて、時たま練習するくらいならいいかな、って。つ、強くなりたいのは、男として、当たり前じゃないか」

「おまえが強くなるつもりなら、とっくに自分で稽古をはじめている。本物の剣がなくとも、それこそザナみたいにその辺の木切れでも掴んで、毎日汗みずくになっているだろうよ」

「きっかけの話だよ。あんたの剣を見て、その気になった。それじゃよくないの?」


 むっとしたようにウルは顔をしかめて、それから首をひねった。


「あんた、ますます顔色がよくなってる。おれ、騙されてるかな?」

「酒のおかげよ。あと、おまえが帰ってくるまでのあいだ、霊薬れいやくを少量使って、時間稼ぎをした」

「れいやく?」


 老人は衣服のあわせに手を入れ、酒壺よりやや小さめの瓶を取り出した。

 赤味の強い、ねっとりとした液体が底のほうに溜まっている。

 量でいえば半口にもならない。


蛇廻じゃかい教というものがある。本人たちはそう呼ばないが、この地上にもっとも古くからある神の教えで、これはそのご神体である蛇神さまの生き血だ。怪我をたちどころにいやしてくれる。それどころか、この瓶を満たすほどの量をひと息に飲めば、五十も六十も若がえるという」


 それを聞くなり、ウルは顔を赤くして立ちあがった。


「やっぱり、騙す気だね。そうやって、なにも知らない田舎者に、その辺の花か木の実で色づけした水を高く売りつけようってんだろ。騙しやすそうな、いかにも馬鹿な小僧に見えた? きっと本当にそうなんだろうけど、お生憎。おれは金なんて持ってないんだよ。さっさと別のカモを探せにいけばいい――いたっ!」


 途端に、ウルは悲鳴をあげてその場にしゃがみ込んだ。

 老人が指を弾いて石を飛ばしたのだが、少年にはなにがなにやらわからなかったろう。

 押さえた脛から血が出ている。

 すると、老人は瓶を傾けて、中身のほんのひと滴を指に垂らすと、それをウルの脛にすばやく塗りつけた。


 あっ、とウルは声をあげた。

 たちどころに痛みが引いて、それどころか傷口もあっという間に消え失せた。

 痕さえ見当たらない。

 老人は、何事もなかったようにまた酒を口に含みながらいった。


「これぞ、神の生き血。おまえが望むなら、こいつもくれてやろう」

「は、はあ?」


 ウルは目を白黒させた。


「こ、こんな凄い薬が本当なら、それで自分を治せばいいじゃないかよ」

「血は止めた。だが残りの量を考えれば、焼け石に水でしかない。これほどの薬だ、どうせ助からぬ命をいたずらに延ばすより、ほかの人間に役立ててもらうほうがよかろうさ」


 ウルは、なにをどう考えていいかわからぬ顔になった。

 素朴な顔立ちをしているだけに、そんな表情をすると、愚鈍な子供にも見えかねない。

 よほどの知りあいであっても、見た目だけで彼を見誤ることとてあるだろう。

 老人は飲み干した壺を地面に置いた。


「もちろん、酒をもらっただけで、剣も薬もくれてやるほど気前はよくない。おまえには、ひとつ頼みを聞いてもらう」

「さっきもいったけど、金なら――」

「金などいらん。こいつを、ある人物に渡してほしいのだ」


 老人は、手にしていた鞘入りの刀をウルの面前に突きつけた。

 ウルは怪訝けげんそうな顔になったが、反射的に受け取る。

 思いのほか軽い。

 黒々とした鞘の中央に、ウルが見たことのない種類の文字が刻まれていた。

 中身が気になるのは当然のこと、柄に手をかけかけたそのとき、


「抜くな!」


 一喝いっかつと同時、くわっとした視線を向けられて、あわや刀を取り落としそうになった。


「どうせ抜けぬとは思うが、念のためいうておく。たとえ必要に迫られたとて、決してこの刀を抜こうとするな。後悔すらできぬ羽目になる」

「な、なんなんだよ、もう。くれるといったり、誰かに渡してくれといったり、おまけに抜くなって?」


 ウルが不満を述べ終わる前に、老人は背中からもうひと振りの刀を取り出した。


「こちらもそれなりの業物わざものだ。おまえの背丈からして、こちらのほうが使いやすかろう。おまえには、こっちをくれてやる」


 そういって手渡された刀は、若干小ぶりではあったが、柄も鞘も新品同然だった。

 あらたまって見比べてみると、最初のほうの刀はいかにも年季が入っていて、鞘がぼろぼろなのはもちろん、柄などはあちこち凹んだり、一部が湾曲して握りにくそうな突起ができていたりと、奇妙な変型さえしている。

 まるで一度壊れた品を、素人の手で無理やり継ぎはぎしたような違和感があった。


「わしの知りあいが、この山を西に越えた先の街道を、さらに北に逸れた集落にいるはずだ。わしの名前を出せば、刀を預かってくれるだろう。健脚といったな? なら、十日もかからず辿り着ける。それで、業物の刀と、神話に語られるほどの霊薬を手にできるなら、安いものだろう」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。待って――」

「道中、決してこちらの刀を見られるな。布にくるんで、ほかの品といっしょに籠に入れるなりして、行商人の振りでもしていろ。目立つ道を通ってもならん。わしと同じ、東国人の集団を見かけたり、噂を耳にしたりしたら、息を殺して通り過ぎるのを待て。脅すわけではないが、おまえの身とて危うくなるぞ」

「ま、待ってって!」


 ウルが大声を出したので老人はいったん言葉を飲み込んだが、すぐにじろりとした視線をくれて、


「なんだ? いつ血を吐いて死んでもおかしくない男から、長々と事情を聞きたいか? そんな時間はない。おまえが引き受けるか、そうでないかの二択のみだ」

「いっ、いいや――」


 ウルは大量に息を吸って、それを吐き出す勢いでいった。


「あんたがいつ死んでもおかしくないというんなら、おれはここであんたが死ぬのを待って、欲しいものを全部手に入れる。そんな選択肢だってあるはずだよ」

「ないな」

「おれを殺すから?」


 ウルが真顔で畳みかけると、老人はぎょろりとした目を返した。


「この薬も、刀も、凄いものなんだろう、とはわかった。なるべく、いや、絶対に他人には知られたくないものだ、ってことも。それを知ってしまったおれが、もしいうことを聞かなかったら、あんたは、おれを殺すんじゃないの?」


 老人は口をつぐんだ。

 最初にウルが見たときのような、虚空を見つめる眼差しになる。

 じっとりと湿った土の空気が両者のあいだを漂った。

 しばしの時間ののち、


「思ったとおりだ」


 老人はかさかさの唇をふたたび開いた。


「えっ?」


 ウルが戸惑いの表情になったのは、それが、はじめて見る老人の笑顔だったからだろう。


「おまえは賢い。見た目以上には、はるかに。それに性根もまっすぐだ。わしの様子を見ても逃げ出さない優しさと、強さがある。だからおまえを頼みにすることにしたのだ。おまえは、信用に値する」


 今度はウルのほうが口をつぐむ番だった。

 ほどなくして、


「おい?」


 と老人が意外そうな声を出したのは、ウルの頬をはらはらと涙が落ちていったからだ。

 ウル自身、指摘されるまで気づかなかったか、はっとしたように顔を伏せて、ごしごしと拳で頬を拭った。


「そ、そんなことをいわれたの、はじめてだったから――」


 拭うのが追いつかないほど、涙は次々にあふれている。


「生まれ故郷を追われて、村長の家じゃ厄介者扱いされて。まさか、見ず知らずのあんたに――こんなおれが、信用されるだなんて」


 わしもな、という言葉が喉まで出かかったのを、老人は長年の経験で制した。

 息子すら見誤った自分が、死ぬ間際に会った少年に悔いを託すことになろうとは、まさか思いもしなかった。

 が、


「そういってもらえて、本当に嬉しいよ。でも……駄目なんだ」


 ウルはうつむいたまま、ゆっくりとかぶりを振った。


「いまさらなにをいう?」

「ごめんよ。でも、本当に、おれじゃ、駄目なんだ。だって」


 ウルは顔をあげた。

 なお涙を流しつづけながら、少年は奇妙に乾いた笑いを浮かべていた。


「だって、おれも、近いうちに死ぬんだから」

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