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3――駆け引き


 ゆるやかな風。

 冬のあいだに猛威を振るっていた冷気の牙はだいぶ鳴りをひそめているとはいえ、川に浸かったばかりのウルには凍りつくほどだ。

 しかしウルは身震いひとつせず、上半身を起こした。


「記憶や言葉から伝わってきたイメージ、そしてあの<風断ち>って一撃で、確信が持てた。あんたは凄い剣士だ。東国人で、五十年ほど前にマガツ神をたくさん倒したってことは、<剣聖>か<剣鬼>のどっちかだろ? あんたを<剣聖>ミツルギのほうだと思ったのは……あれ、なんでだろ、ただの勘かな。それとも無意識にそう伝わっていたのかな」

(ほう?)

「確か、聞いた話だと、<剣鬼>は突然国を裏切って、それを追った<剣聖>と刺しちがえるかたちで二人とも亡くなった、ってことだったけど」

(わしも風の噂でそう聞いたな)

「ほとんど伝説上の人物だと思ってたよ。まさかそんな英雄がこれほど近くに住んでたなんて。さらに、実の息子に斬られて、血まみれで山へ駆け込んできて、挙句の果てにおれの身体を乗っ取ろうとするなんてね。本当、人生はなにがどう転がるかわからない」

(そうか)

「あんた、いったよな。自分がこの村のマガツ神を狩ってやる、って」

(いった)

「じゃあ、さっきみたいに身体を譲れば、マガツ神を退治できるってことだよな?」


 片膝立ちの姿勢になってウルはいう。

 「身体を譲れば」と口にするのは、少なからぬ覚悟が必要となったが、いまは熱意のほうが上まわった。

 老人はすぐさま、「ほう!」とばかりに喰いついてくる――かと思いきや、


(無理だ)


 返事は実に冷淡だった。

 「はっ?」とウルは大声を出す。


「あ、あんた、できるといったじゃないか! こっちの身体が欲しいときには都合のいいことばっかりいって、いざ奪ったあとは、『嘘でした』ってひどいじゃないか!」


 誰かに聞かれていたら大いに誤解を与えそうなことをわめき散らすウルに、


(認めるのも業腹だが、わしは、魂の秘術を軽く見すぎていた。若い肉体を乗っ取ることができたら、それこそ若い時分のように剣を振るえるのではないかと思っていたのだ。が、これが甘かった。大甘だ。立つのも歩くのも苦労するほどだし、技ひとつ使えば、いまのようなざまだ。先に忠告しておいてやるが、それで誰かと戦おうなどとは決して思うな。ましてや、人智を越えたマガツ神などと)


 ウルは唇の端を噛んだ。

 いわれるまでもないことだった。

 実際、肉体に痛みを覚えているのは彼自身だ。

 剣を振るどころか、持って構えることさえ難しいだろう。

 自分がミツルギの立場だったとしても、誰かと「戦う」選択など一笑にふすにちがいない。


「……あんたは、どうなのさ?」


 ウルは足腰に力を加えて、静かに立ちあがりはじめた。


「勝ち目のない戦いに挑もうとしているのは、あんたの息子だって同じだ。このままなら、あのソーヤって奴も死ぬんだろう」

(十中八九。だが忘れるな、わしはそのソーヤに斬られた。おまえに馬鹿にされたようにな)

「だから、放っておくの?」

(馬鹿な男が馬鹿な決断をしてみずから死ににいこうとするのだ。少なくとも、せっかく手に入れた身体を無駄にする危険をおかしてまで止める義理はない)


 その間、ウルは立ちあがっている。

 肩をまわし、足を上下させて、身体の感覚を確かめる。

 痛みはあるが、動けないほどではない。


(待て)


 ミツルギが、らしくもなく切迫した声をあげたのは、ウルが森の奥にわけ入っていく道を歩きはじめたからだ。


(どこへいくつもりだ?)

「つまりさ、あんたはおれが死んだら困るんだろ。『ならば死ね』なんていっておいてさ、本心では、おれの身体が欲しいから死んでほしくないと思っている。だったら、このままマガツ神のところにいってやるよ。あんたはおれに頼み込んででも、協力したくなるだろうからさ」

(駆け引きのつもりか? はっ、小僧らしい浅はかさよ。それでわしの助力を得たとして、なんとする? 勝てるとでも?)

「少しくらいの勝機ならあるかもしれない」

(ないな)

「あるよ。最初は立つのも歩くのも苦労したといっていたけれど、あんたは実際、おれの身体で<風断ち>って技を使ってみせた。<剣聖>は伊達じゃないね。もう慣れてきてるんだよ」


 ウルは、門下生とソーヤからひと振りずつ奪った刀を腰に戻した。

 と、その片方の柄がおびただしく震えた。

 枝を拾うつもりでうっかり生きた蛇を手に取ったようなもので、ウルはあわててその片方を腰から払い落とした。


「な、なんだ、これ?」


 地面に落ちた途端、刀の震えは止まったようだ。


(「鬼吼おにぼえ」が反応している。マガツ神の気配を遠からず感じておるな)

「反応?」

(拾え)


 ミツルギは静かに命じたが、肉体を共有した者同士、その声の裏側にある感情をわずかにウルは汲み取って、


「……拾わない、ここに捨てていく、っていったらどうする?」

(貴様)


 ミツルギはぞっとさせるほどに低い声を発した。

 すでに生きていないといっても、その迫力たるや、ウルが出会ったどんな人物よりも凄まじいものがある。


(またも駆け引きか? 貴様ていどの小童が、このわしと?)


 逆にいえば、もしも向かいあっているのが生きている<剣聖>その人だったのなら、ウルなどはとうにすくみあがって降参していたにちがいないが、しかし<剣聖>の肉体は失われており、わかりやすくこちらに危害を及ぼすことはない。

 そう思えば、ウルの恐怖もわずかばかり軽減した。


「あのさ、これはおれの身体で、これから懸けるのは、おれの命なんだ。それであんたがついでに死ぬといっても、それはあんたの勝手であって、おれの知ったことじゃないんだよ。だから、本当ならあんたにわざわざ許しを得る必要なんてないんだ。だけど、おれひとりじゃ、マガツ神に勝てない」

(――)

「引き受けてくれるのなら、ちょっとだけ身体を貸してやるよ。おかしな術を使ってでもおれを乗っ取って、やりたいことがあったんだろ?」


 なぜこうも熱心に<剣聖>を掻き口説いているのか、実のところ、ウル本人にもよくわからなかった。

 マガツ神と命懸けで戦うメリットが、自分にどれほどあるというのだろう?

 村長邸でミツルギに身体を譲渡したときも、ウルは本能的な恐怖を覚えていたはずだ。

 このままなら近い将来、気づかないうちに身体を乗っ取られても不思議ではない、と。

 だというのに、なぜ?

 ウル本人にも確たる答えが出ないまま数秒の沈黙が流れたのち、


(一日に二度も死ぬのはさすがにごめんこうむる)


 ミツルギが嘆息混じりにいった。


(だから、まずは試してみるとしよう。おまえの器を得たわしが、マガツ神に勝てるかどうか。そしていざ対面したあとで、わしが『勝てぬ』と判断したなら、あとは議論の余地はない。逃げるだけだ。わかったか?)


 それが、長年戦い抜いてきた<剣聖>なりの、ウルへの『譲歩じょうほ』らしかった。



 かすかな星あかりを頼りに、ウルは森の奥へと進んでいった。

 ウルは夜目が効く。

 村の近辺なら真夜中でもすいすい走っていける自信があったが、鎮守の森にまで足を踏み入れるのははじめてだ。

 時々、道が急に落ち窪んだところへ身を滑らせたり、木々の枝や幹に頭をぶつけたりしながらも、足は決して止めない。

 迷うことはなかった。

 腰に差している刀が小刻みに震えつづけているからだ。


(ほう、奴め、生贄が近いからか、ソーヤに襲いかかったからか、目が覚めているようだな)


 マガツ神の気配を感じているというこの刀、どうやら気配の根源に近づけば近づくほどに震えが激しくなるようだった。

 ウルは不気味そうに腰のほうを見やりながら、


「この刀はなんなの? 最初、おれにこれを持って逃げるようにいっていたけど」

(わしがマガツ神退治に用いていたものだ。その刀身にはマガツ神の――マガツ神ならではの血肉と、いびつな魂がこびりついている。欠けようと、あるいはへし折れようとも、その正体不明の物質がみずから刀の形を維持しようとするほどに。この刀そのものがマガツ神ということもできよう)

「えっ」


 思わずウルは刀を腰から払おうとしたが、


(決して抜くな、という忠告の意味がやっとわかったか? そもそもなまじの人間には抜けもせんが、おまえでは、たとえ抜けたにしても、その瞬間に心を取り込まれようぞ)


 <剣聖>の脅しとも自慢ともつかない不思議な声音に、ウルは目を白黒させた。


「と、取り込まれる?」

(これも、前にいうたはず。ソーヤがこの刀を持って挑めば、ソーヤとてその感情を取り込まれてマガツ神の一部になると)

「じゃあ、この刀だって、人間の敵じゃないの?」

(敵だとか味方だとかの話ではない。もともとこの大陸でいうマガツ神とは、怨念をはじめとする感情の集合体というのに近しい。人間にあだなす邪神のような存在ではないのだ)

「わからないな」


 ウルは本気で唸った。

 マガツ神の『概念』など考えたこともない。

 『王国人』が渡ってくる以前にこの大陸を支配していた、まさしく邪神のようなイメージしか、ウルにはない。


「この刀がマガツ神だとするなら、マガツ神でマガツ神を斬るってことになるけど」

(おかしな話ではない。いくら岩をも断てる腕前の剣士であっても、マガツ神には傷ひとつつけられまい。神の皮膚は岩より硬い、という意味ではないぞ。マガツ神の大半を構成する物質が、そもそもこの世のものではないからだ。たとえるなら……それは、形のない水や風を斬り伏せるのに等しい。もっというならば、影を斬るのと同じよ。おまえは、目の前に剣を持った人間がいたとして、その影だけを斬り裂くことができるか?)

「できるわけないだろ」

(それができなければ、マガツ神には太刀打ちできんということだ)


「じゃあ、あんたには影が斬れるってこと? いくら<剣聖>だからって、そんな馬鹿な」

(おまえはソーヤに似ているな。理屈のほうが先行して、その理屈で納得できなければ、もうそこで理解をやめてしまう)

「おれがあいつに似ているなんてこれっぽっちも思わないね。なのに二人とも理解できない、ってことは、つまりあんたの教え方が悪いってことだ」

(なんだと、小僧?)


 <剣聖>とのこの奇妙な会話のうちにも、ウルは少しずつ、そして確実に歩を進めている。

 恐怖がないわけではなかった。

 むしろ、一歩を踏みしめるごとに、引きかえしたいという欲求が足の裏から脳髄まで一直線に突きあげてくる。

 何度悲鳴がこみあげてきたか知れない。

 しかしウルは<剣聖>に軽口を叩きながらも、歩む足を止めようとはしなかった。


(貴様ごときの未熟者にわかりやすくいうのなら、その刀はマガツ神と同じ物質ゆえ、マガツ神をも斬れるということだ。わしほどの域に達していない凡人でもな。わかったか)

「ああ、ああ。わかったよ。うるせえな」

(山猿めが。わしの前でそんな口を利いた奴がどんな目にあってきたか、身体があったのならいますぐにでも思い知らせてやるところだ)

「その身体を自分で手放したから、こうなってるんじゃないかよ。……ともかく、この刀があれば、影を斬れないおれのような未熟者でもマガツ神が斬れる、ってことなんだよな? あれ、でも抜いた瞬間取り込まれるから、抜いてはならない、ともいってたよな? えっ、じゃ、じゃあ、おれはどうしたらいいんだよ!?」


 <剣聖>は、この世でもっとも愚かな人間に対するかのようなため息をついた。


(さっきの取り決めをもう忘れたのか、痴れ者めが。どのみち、おまえでは鬼吼を使えたとしても勝ち目はない。おまえはただひとつ、わしにすべてを委ねることだけを考えていろ。そしてもし、またなにかのきっかけで肉体がおまえに戻ったなら、そのときはわしの言葉だけを聞いて、そのとおりに動けばいい。それ以外はなにひとつ余計なことはするな。わかったか)

「ちぇっ――、おれの身体だっていうのに、えらそうだな」


 ウルはいいながらも、いくらか心理的な重圧が軽減しているのも感じていた。

 なにも考えなくていいのなら、これ以上楽なこともない。

 ミツルギの魂が勝手に入ってきた事実はまったくもって受け入れがたいが、しかし、もしこの場にいるのが自分ひとりだけだったなら、とっくに逃げてしまっていただろう、というのもまた事実だ。

 さらに進む。


 時間の感覚はとうに失われていた。

 森に入ったのがつい数分前のような気もすれば、もう数時間も延々と歩いているような気もする。

 永遠に終わらない夜に閉じ込められて、死ぬまでさまよいつづけるのではないか――という錯覚に囚われはじめたとき。


 川のせせらぎが聞こえてきた。

 これまで動きつづけてきたウルの足が、ぴたりと止まった。

 村の伝承で聞いたことがあった。


(密集していた木々が急に開かれ、水音が聞こえる。神への供物に選ばれた人間はそこで人としての生を終えて、新たな魂の地平へ向かうこととなる――)


 と。

 迷路のように視界を閉ざしていた木々が嘘のように絶えて、視界が急に広々とした。

 数十メートルほど先に岸壁がそそりたっており、その急傾斜に沿って滝が流れ落ちている。

 滝は岸壁の根本付近で川になっていた。

 雨のせいで水量が増しているとひと目でわかる。

 ウルから見て右方、その川がさらに深い傾斜の先へと落ち込んでいた。

 ここも滝になっているのだろう。


 だが――。

 ウルは宵闇に目を凝らして地形を確認しながらも、あえて目にすまいとしていたものがある。

 いや、木々や滝のほうに注意を移していたのも、『それ』を認めたくないという心の働きだ。

 あくまで知らない振りをしつづけようとしていたのだ。

 本能の部分で。


 本当は気づいていた。

 『それ』に。

 本当は知っていた。

 『それ』の存在を。

 本当は見えていた。

 流れの早い川を背後にたたずむ『それ』が、最初から。

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