2――対話
やや時をさかのぼって、まだこんな騒ぎになる前のこと。
(しばし身体を預けろ)
ウルはミツルギに、そう訴えられていた。
支配権をよこせということだ。
怪異な老人に身体を支配されるなど、本来なら全力で拒否したいところだったが、ウルとて追い詰められている。
縄でぐるぐる巻きにされたうえに、よくてマガツ神の生贄になり、悪ければこの場でソーヤに首を刎ねられる、という局面。
おまけに耳を傾けているうちに、エリンが生贄になる、などと言い出した。
ウルの頭は沸騰寸前だった。
(あんたなら、どうにかできるって?)
(どうにかできぬようでは、貴様に宿ってなどおらん)
言葉に含まれていた絶対的な自信に、ウルは揺らいで、そして決心した。
(自分の身体だと認識せずに、眠りのなかで夢を見ているように錯覚せい)
指示どおりにしてみると、意識が肉体の中心からすうと離れていく感覚に見舞われた。
案外スムーズに事が運んだことに、ウルは喜びよりも恐怖を覚えた。
こんなにも簡単なことなら、おれはきっと数日もしないうちにこのじじいに乗っ取られてしまう!
(感情も捨てろ。せっかく離れかけた心がまた戻ってしまう。すべては夢だ、悪しき夢なのだ――)
老人は繰りかえし語りかけた。
確かに夢だ、とウルは思った。
自分の身体に見知らぬ老人が割って入ってくるなんて、これが悪い夢でなくてなんだろう?
ウルはほどなくして夢の住人となり、とともに肉体の支配権が老人へと移った。
(肩を外してもよいが――慣れぬこ奴の身体では、損傷がひどかろう)
ひとりごちたあと、まずミツルギは、木の床板にささくれ立ったところを見つけると、軽く寝返りを打つ振りをして縄に引っかけ、上下運動で切れ目を入れはじめた。
その位置取りと無駄のない動きは、いまだ<剣聖>の正体を知らぬウルをも驚嘆させるほどだったが、ようやく腕が動かせるようなった矢先のことだった。
空中に波紋が散って、そこから異世界の生物じみた触手があらわれたのは。
(なっ、なんだ、これ!?)
(夢だといっておろう)
悪夢が形を得てあらわれたような光景のなか、ミツルギはソーヤにひと声かけると、刀を拾いあげ、集団から離れた位置で腰を落としたのだ。
それが、現在。
(おい、なにしているんだっ。――逃げろよ!)
ウルの体内で、ウルの魂が吼えた。
しかし肉体の主は聞く耳を貸さない。
ミツルギは刀の柄に手をあてがって、半身をひねった。
(逃げて、逃げろって、逃げろよう――!)
そうわめいていたウルの魂にも、理解できた。
両方の爪先にぎゅっと込められた力が、地面と反発しあった結果、水平の渦を描きつつ太腿を這いあがっていくのを。
それは熱をともない、腰の辺りに沈殿した。
筋肉と骨をきしませながらも渦は回転の速度をあげて、臍を経たあとに腹筋の筋をじわじわ経由していくと、胸を満たした直後、今度は頭頂部まで一気に突きあげた。
全身で何重もの渦を描いたその気力を、ある一点から解き放つのはごく自然のことに思われた。
だからウルは、ミツルギが刀ごと腕をひと振りするのに身を任せた。
小さな雷鳴が起こったかのようだった。
ウルの感覚からすると、刀はなにもない虚空を薙いだだけだ。
だというのに、それは確かに『斬った』のだ。
ウルの内側で渦を巻いていた力が刀の先端からほとばしったのと同時、その形のないほとばしりは、なればこそ形のない『風』をも真っ二つにした。
『風』は、その瞬間、おそらくは自分でも斬られたとは気づかぬうち、上下二つにぱっくりと裂かれた。
空中についたその傷口は、見えぬ空隙となった。
川の水が裂け目に呑まれるのにも似て、周囲いったいの風をぐんぐん引き寄せていくと、何倍にも圧縮された風がその反対側から一気に吹き荒れた。
すると、床にこびりついていた黒い枝々が今度は煤も残さぬほどに飛び散り、宙を乱舞していた触手枝もまた粉々になったのである。
◆
防戦一方に追われていたソーヤたちの前に、突如として猛風が吹き荒れたかと思うと、四方から飛来していた『敵』がことごとく消え去った。
反射的に目を閉じていたソーヤは、
「いまだ、いけ!」
誰かに胸を押されるがままに駆け出していた。
ソーヤはこのとき、なぜか有無をいわさぬ力を感じた。
「皆、つづけっ」
クレハや門下生たちも、ソーヤの動きに吊られてか、家の出入り口めがけて殺到した。
一方のウルはというと、ソーヤを促したあと、彼らとは反対側へと駆け出していた。
窓から外へと飛び降りる。
瞬間――、
家に戻って、斧で援護のひと太刀を浴びせようとしていたエリン、その姉を後ろから引き戻そうとしていたザナは、ともに驚きの視線で、飛び降りてきたウルを出迎えた。
二人とも、ウルが刀を振り抜いたところまでは目撃している。
突風が巻き起こったかと見えるや、次に目を開けたときには、ウルが身軽に降り立っていたのだ。
「あ」
姉弟の呼びかける声には振り向きもせず、ウルはひた走っていった。
――どれほど時間が経ったか。
命からがら家を飛び出たソーヤは、村人たちが恐ろしげに見守るなか、背後を気にして振りかえった。
風はすでにおさまっていた。
とともに、あれほど室内に密集していた黒い枝も、そして空中に散っていた不可思議な波紋も、嘘みたいに消え失せていたのである。
「あれは……」
息を乱したソーヤがしゃがれ声でいうと、
「<風断ち>」
傍らにいたクレハが、呆然としたようにあとを継いだ。
「そんな馬鹿な。あり得ん!」
ソーヤは大声を出したが、しかし彼自身が確信してもいる。
あんなことができるのは、父ミツルギの技をおいてない、と。
ソーヤは長いことわれを失っていなかった。
本当の意味でソーヤが戦慄したのは、腰の違和感に気づいてからだ。
父の刀が消えている。
「あ、あ奴……!」
歯ぎしりをした。
「いけっ」と胸を押されたあのとき、刀を奪われていたのだ。
「こ、小僧はどこだ?」
クレハが制止の声をあげる間とてなく、ソーヤは山中へと駆け出していた。
「逃げたぞ。あの小僧を追えっ」
ソーヤが叫んだかと思えば、家から飛び出てきた人々のなかにウルがいないことに気づいた村長のオーランも、取り乱しながら叫んでいた。
「に、逃げたぞ。ウルを追えっ――」
◆
ソーヤ一派も、村の男たちも、東西へ下山する道をひた走った。
ウルが村から離れようとするなら、どちらかに降りていくしかないからだが、実際のところ、ウルは村の裏手側から、むしろ昇り勾配の道を進んでいた。
鎮守の森へと入るためだ。
うっそうと木々が生い茂ったこの森は、村人でもめったに足を踏み入れない。
年に一度の祝日にのみ、その入り口近辺での狩りが許されるくらいだ。
だからこそ身を隠すのにうってつけだとウルは判断したのだが、森に入って数分もしないうちに足取りが乱れはじめた。
呼吸も荒い。
それでも足を引きずるようにして歩きつづけたウルは、川に差しかかると、いきなり刀を捨てて、服を脱いで真っ裸になると、どぶんと川に飛び込んだ。
「ああ」
まだ冬の底冷えを引きずる季節、それも夜中だというのに、ウルは気持ちよさげな声を発した。
先ほどから、身体が火照って仕方なかったのだ。
いや、火照るどころではない。
内側にこもった熱に焼き殺されそうな感覚は、あの蛇に噛まれたときによく似ていた。
そしていったん冷やされると、今度は、尋常ならざる筋肉の痛みに襲われた。
水中で身をよじるだけで、涙が滲んでくるほどに痛い。
「こ、今度は、なに? おれに、なにをしたんだよ?」
首まで川につかりながら情けない声をあげる。
鳥や虫の鳴き声ひとつない真夜中の山中、答えるとすれば山向こうから時折り遠吠えをあげるクロシマオオカミくらいだったろうが、
(おまえも体感したはずだ。あれが、わしの剣術の基本となる技、<風断ち>よ)
姿は見えねど、ウルにだけ聞こえる声がある。
(しかし、基本技でそこまでくたばるかよ。われながら貧弱な身体を選んでしまったものだ)
「か、勝手に乗っ取ろうとしておいて、ふざけたこというな。いたた……駄目だ、こ、これ、骨にひびが入ってるんじゃないの?」
(だとしたら常人は歩くことすらできん。ふむ、腱までは切れていないようだ。よかったな、おまえは運がいい)
「運がいいだって?」
愕然とウルは叫んだ。
「あんた、ひょっとしたらセンスあるかもな。いままで耳にしてきた冗談のなかでいちばん面白いけど、いちばん笑えないんだから」
(冗談なものか。おまえに宿ったのが、つい一年前のわしだったなら、あの一撃でおまえの身体を粉砕していたやもしれん。この歳になっても剣を加減したことなどないからだ。だが、とある事情で、わしはこの一年、できるかぎり肉体の負担を抑えた方法で剣を磨くことを余儀なくされていた。それも不承不承ではあったのだが、まさかこのような形でわが身を助けることにつながろうとは。うふふ、人生、なにがどう転がるか、わからんものよ)
意味はわからなかったが、もうさすがにミツルギの記憶を辿ってやろうとも思わず、ウルはしばし水中を漂っていた。
やがて頭のてっぺんまで冷えてくると、勢いよく川からあがった。
まるで湯に浸かっていたみたいに、身体から白い蒸気が出ていた。
(しかし、<風断ち>を振るったときは確かにわしが身体を動かしたはずだが、その直後にまたも支配権を奪われた。おそらく痛みを感じたためだろうな。身体が危険を告げる狼煙をあげたとき、小僧の魂がいち早く応えたと思える。肉体と直結しているのはやはり小僧の魂ということか)
ウルは質素な手ぬぐいで身体をひと拭きしてから、服を身にまとった。
乱暴に水気を切った手ぬぐいを頭に巻く。
(神域に近いというのに、マガツ神は襲ってこぬな)
ふと、声に込めた感情のトーンを変えて、老人はいった。
(おまえが村の人間だからか、それとも、定められていたとおりに『生贄』が来たと思ったか)
「どっちでもいいよ。襲ってこないなら、逃げるだけだ」
文字どおり頭が冷えてくると、ウルは改まって、とんでもない場所にいることを自覚させられた。
生贄になるのが嫌でさんざん逃げる準備をしてきたのに、これでは自ら喰われにいくようなものだ。
すぐにでも駆け出そうとするウルだったが、
(待て。いま森を出れば、ソーヤか、村の男どもか、いずれかの包囲網につかまる。明るくなる前に動いたほうがいいのは確かだが、もう少し時間を置け。熱にのぼせて、まともにものも考えられんのか)
ミツルギに制せられた。
「う、うるさいな。わかってるよ」
ウルはいま一度腰を落とした。
仏頂面で座り込むこと数分。
その間、ウルは手もとの刀と、真っ黒に塗りつぶされた空とを交互に見ていたが、
「なあ」
とウルは自分のほうから声をかけた。
「さっき見たのが……、マガツ神ってやつ?」
(その一部だ。長い手足の先端を、空間を越えてあの場に届かせたと見るべきだな)
「そ、そう。理屈はわかんないけど、刀で粉々にしてたよな。あれは……その、凄かった。思い出しただけで震えがくるくらいにさ、スカッとした」
(いまさらおだてあげたとて、おまえの本性などはすでにわかっている。おまえは、『いたいけな少年を騙した』などとわしを糾弾したが、血を吐いている瀕死の老人を騙して、追っ手に売り飛ばそうとしたのはおまえだぞ)
「そ、そう?」
ウルにしては歯切れなく応じてから、自分の両膝に頭を埋めるような姿勢になった。
また数分。
(ほう)
いきなり、ミツルギが驚きの息吹を発した。
つまりはそれと似た心の動きが、ウルに伝わってきた。
(あの、エリンという娘のためか? 自分が囮になるようなことをいっていたな。が、あの娘がどれだけ引きつけたとて、ソーヤではマガツ神には勝てまい。それを助けたいのか?)
「おれの心を見るな!」
ウルは瞬時にして顔を赤くして怒鳴った。
(見てはおらん。そのくらいのことは、経験でわかる。……ということは、図星か。しかし奇妙なものだな)
「な、なにが」
(貴様、本当に村から逃げる気があったか?)
ミツルギの指摘は、ウルを見えない刀で斬りつけたかのようだった。
ウルははっと身じろぎしたが、両膝に顔を埋めたまま無言。
するとミツルギはせせら笑って、
(ただの小僧かと思えば悪党で、そして悪党かと思えばただの小僧よな。中途半端に心が乱れたままではなにもなせんよ)
「あんたになにがわかるんだよ!」
ウルは地団太を踏んで、それから、急激にぶり返してきた筋肉の痛みにふたたび倒れこんで、文字どおり七転八倒した。
老人はふたたび鼻で笑った。
(そんな身体でなにができる? いや、身体が無事だったとて、おまえなどにいったいなにができよう? ただ無駄死にするだけだ)
「死にたくなんてないね。ああ、死んでたまるかよ。おれの命は、おれひとりのものじゃないんだ」
(さよう。おまえが死ねば、わしとて――)
「あんたの話じゃない!」
ウルは大声を放った。
近くの木々にいんいんと反射した声もやがては絶える。
大の字に寝転がったウルは、寒空をにらみあげるようにしてつづけた。
「……おれの命は、姉さんにもらったんだよ。姉さん自身の命と引き換えに」
空に散ったいくつもの光点が、夜風に喘ぐみたいにちらちらと瞬いていた。
何度となく見あげた空だった。
ひょっとしたらもう見られないのだろうか、とひと月前くらいからそう思うようにもなって、そのたびにウルは反発した。
「おれは、姉さんが死んだ年齢をやっと越したばかりなんだ。村の連中なんかのために、この命をくれてやるわけにはいかないんだよ」
だから逃げようとした。
荷造りをしたり、最後の未練を晴らすためにキャシーと寝たり、そうして逃避行の準備をしているあいだだけは、『生贄』としての恐怖も忘れられた。
自由な未来が必ずあると、無意識のうちにも信じられたからだ。
「でも……」
『十年』だ。
村の人々がウルをただのよそ者とは思えなくなっていたのと同様に、ウルもまた、この村で過ごした十年がある。
――もしも、おれが本当にこのまま村から逃げてしまったら。
村には陰惨な未来が待ち受けることになる、とは容易に想像がついた。
生贄の儀式が間近に迫っているというのに、もうその生贄がいない。
彼らは次の生贄を大急ぎで探さねばならないのだ。
村長は誰を選ぶだろう。
世襲制で『業』を背負う形となった村長は、もっとも残酷なことに、自身が生贄の役割を担うことができない。
であれば、その血筋であるエリン、もしくはザナが選ばれるのが妥当か。
そう考えると、ウルは、自身の未来までもが暗く塞がれてしまうような気がした。
自分を毎日のように痛めつけてくるザナには心底腹が立っていたものの、ミツルギに語ったように「じゃあ死ね」などといえるほどではない。
エリンにいたっては――。
以前、ウルがミツルギに事情を語った際に涙を落としたのは、決して芝居ではなかった。
心身をわかつほどの葛藤のあらわれだったのだ。
(なるほどな。それで、刀を欲したわけか)
ミツルギがいった。
(逃げる決意ができず、自分が生贄にならねばならなくなったときに、せめてマガツ神に抵抗しようと?――ふん、だから半端者だというのだ。おまえが誰にも命をくれてやらないと決めたのなら、とことんまで、地の果てまで逃げればいい。半端に情をかけるから苦しむ羽目になる。さあ逃げろ。村の事情など知ったことではないわ。逃げてしまえ)
「でも、それじゃ……」
(ならば死ね)
ミツルギは、きゅっとウルの心臓が縮みあがるような声音でいった。
(知りあいの誰も苦しませたくないというのなら、大人しく生贄になって死んでしまえ。村も数十年は安泰だ。村の衆は、さぞおまえに感謝してその数十年を過ごすだろう。そしてまた彼らは次の生贄を選び、おまえのことを忘れ去る。それでいいのだな? いいというなら、それがおまえの人生だ。いい加減ほぞをかためろ。三つめの選択肢などはない。おまえが刀を持ったとて、マガツ神に歯が立つわけがない。もう一度いう。ただの無駄死にだ)
「わかってる! おれになんか、なにもできない。できるはずがない。でも――、あんたになら、できるんだろ」
涙目になりながらも、ウルは返した。
「おれだって記憶を直接見たわけじゃないけど、でも、あんたの言葉の端々から、なんというのか、イメージみたいなものは伝わってきた。あんた、マガツ神と会ったことがある……どころか、戦って、勝ったことがあるんだよな。それも何度も」
(そんな人間が、この世にいるものかよ)
「いるさ。あんたは……<剣聖>ミツルギだ」




