9――敵
(やめておけ。わしの記憶を覗き見ようとすると、溺れ死ぬぞ)
ミツルギが釘を差した。
疑念がもたらすことになる苦痛は、すでに経験済みだ。
そして思念同士の会話ゆえ、この苦痛もまた伝わってきたので、ウルは疑念からあわてて意識を逸らした。
縛られた身体が身震いを起こしている。
脳裏を一瞬かすめた老人の記憶には、渓谷を削りとって下る滝の激しさと、家屋を数戸呑んでなお燃えさかる大火の熱をもともなっていた。
あとほんの少しでも近づいていたなら、ウルの存在などはあっという間に消えてしまっていたかもしれない。
(おまえが消えてなくなるだけなら結構だが、『融合』などという事態になったら、わしにもなにが起きるかわからん。おまえはじっとしていろ。任せておけばよいのだ)
ウルは、下手に軽口で返すことができなくなっていた。
ミツルギが得体の知れない存在であり、おそらく自分ではおよびもしない相手だ、という認識をいまさらながらに抱いたからだ。
(……ど、どうするつもり?)
(ひとまずはここを脱出する。しばし身体を預けろ)
言葉の端々から、自信のみなぎりを感じる。
ミツルギは、こんな異常な状況下にあっても、自分ならばなんとかできるという確信を抱いていた。
そしてそれが数多くの経験に裏打ちされていることも、いまのウルならばわかる。
(身体を預ける……っていったって、やり方がわからないんだけど)
(わしが手足を動かすのに邪魔をするなということだ。自分の身体だと認識せずに、眠りのなかで夢を見ているように錯覚せい)
ミツルギは言葉での説明こそ上手くなかったが、繰りかえし述べているように、彼らの対話は言葉のみでおこなわれているのではない。
相手が言葉に乗せたがっているイメージも飛び込んでくるので、かろうじてウルにも理解できた。
納得できたかというと話は別だったが。
一方、
「要らぬ時間を取られたな。マガツ神はおれが討つ。それでよいな?」
ソーヤはすでに決定事項のようにいって、腰に刀を差していた。
いますぐにでも村長邸を飛び出して、鎮守の森へ向かうような態度に、
「待って!」
異議を唱えたのは、オーランではなく、娘のほうだった。
暖炉の火を浴びて金色に燃え光る髪をなびかせ、剣を帯びた若者の前に立ちはだかる。
「勝手に決めないで。村のことよ!」
「いつまで同じ話を繰りかえすつもりだ。貴様らは、生贄を失いたくないだけだろう」
「じゃあ、わたしが生贄になるわ!」
「エリン、なにをいう!?」
オーランがまたも蒼白になる。
エリンは父のほうを振りかえり、その場にいる、いや、家の周りを取り巻いて様子をうかがっていた村人全員に訴えかけるように両手を広げた。
「リディだって、ある意味生贄だわ。自分の意志で、災厄に身を捧げたのよ。それなのに、わたしたちは、彼女が死んでまで守りたかった弟を、神に差し出すの? 村の人間じゃないからという理由で?」
「エリン、それは……」
「ウルを神さまに差し出したら、みんな、きっと、あと戻りできなくなると思う」
父の制止を無視してエリンはつづける。
「よそから来た人を生贄にして、それでも加護が得られるとなったら……。きっと、このあとも同じことを繰りかえしてしまう。時期が来るたびに、村の外から人を招いて、いいえ、ひょっとしたら人さらいみたいな真似までして。だって、それなら誰も犠牲にならなくて済むから。少なくとも、見知っている誰かを選ぶ後ろめたさや、失う悲しさを味わわなくて済むから。それに比べたら、よその人間を騙してしまった罪悪感なんて、村全体で共有すれば、かすり傷ていどで済む話だわ」
(ほおう)
と、ミツルギの思念が唸った。
(あの娘、いろいろ考えてはいるようだな。覚悟もある。それとて短慮ではあるものの、『娘っ子の感情』とあしざまに片づけていいものではなかったか)
このときウルの肉体がひそかな身動きをつづけていたのだが、皆、エリンに気を取られていて気づく者はなかった。
「でもかすり傷じゃいけないのよ。それだと、身を捧げてくれた人への敬意もなくなってしまう。誰かを殺して、そのことに胸も痛まずに平和だけを享受していったら、わたしたちはいつかきっと人の心だって失ってしまう!」
「終わった話を、いつまでも蒸し返すなといっているんだ」
苛立ちを隠そうともせずにソーヤがいった。
「おれがマガツ神を討てば、それでしまいになる話だ。まだわからんのか?」
ソーヤにとって意外だったのは、そのときエリンがまっすぐに彼をにらみかえしながら、
「ええ。だから、わたしは、あなた方に賭けてみたいの」
そういったことだ。
「なんだと?」
「わたしが生贄のふりをして森に入るわ。マガツ神をそれでおびき寄せるから、あなたが戦ってちょうだい」
「……囮になるという意味か?」
「できるんでしょう? 口先だけでないなら」
「小娘が――」
あざ笑いを浮かべつつも、どこか納得し、また感心した風にもうなずいたソーヤに対して、
「ば、馬鹿なことをいうな。危険すぎる!」
オーランは狼狽しきりで、両者の間に割って入った。
「<剣聖>や<剣鬼>ならいざ知らず、こんな輩に神を討てるものか! 一度神に刃を向けてしまえば、その怒りが村に向けられないとも限らないのだぞ。わたしには村人の命を守る義務がある。そんなことを承服できるものか!」
「父さんが誰を守ってきたっていうの! 父さんが守らないから、わたしが身体を張ってみんなを守ってみせる、って話なのよ」
エリンが涙ながらに叫べば、
「おれに神を討てぬだと? ふざけるな、撤回しろ――」
ソーヤが刀を手に、ずいと村長に迫る。
(この場には、賢い奴がひとりもおらんな)
ミツルギはひとりごちていた。
迫ってきたソーヤに、オーランは一瞬おびえた表情になったが、しかしすぐにその表情を消した。
青ざめながらも、刀剣を手にした大柄な若者相手に胸を張る。
「何度でもいってやるとも。若僧め、おまえなどに神を討てるものか。気を失ったウルの首を刎ねられるかどうかも怪しい。どうせおまえなど、<剣聖>みたいな出で立ちをして、周りを騙して金をむしりとる詐欺師のようなものだろう!」
ミツルギが一瞬、『目的』も忘れて身動きを止めた。
見ると、ソーヤからも表情が消えていた。
「あ、兄上っ」
クレハが悲痛な声を絞り出す。
それも届かなかったか、届いたとしても無視したのか、ソーヤは無表情のまま村長のほうに一歩踏み出す。
手は刀の柄にかかっていた。
カチリという音とともに鯉口が切られて、刀身が半ば以上剥き出しになった。
(やめろ――)
思わずミツルギも叫びそうになった瞬間、刀が抜き放たれた。
ところが、オーランは泡を喰って腰を抜かす――どころか、青ざめた顔に冷笑を浮かべていたのである。
「抜いたな」
オーランはいった。
「抜いたとも。それがどうした?」
ソーヤが答える。
せせら笑ったつもりだろうが、怒りの激しさゆえか、表情は変わらず、鼻息だけが荒々しい。
対する村長は笑みを維持したまま、
「わたしに殺意を抱いたな。おまえは――村の『敵』だ!」
そう叫んだ。
「だから、なんだというのだ?」
ソーヤは一歩進み出た。
ミツルギは息を詰めていた。
この二人のやり取りに対してではない。
とある気配を感じたのだ。
それは双肩にのしかかっただけでなく、背骨をもへし折りかねないほどの重みがあった。
瞬間、ソーヤの頭上――本来ならばなにもないはずの空間に、さざ波が起こった。




