7――姉とエリン
ソーヤ以外の皆が息を呑んだ。
と、
「はじめて聞いたわ。多分、みんなもそうじゃなくて?」
ほんの少し開いていたドアがさらに押し開かれて、ひとりの娘が居間のほうへと進み出てきた。
「エリン!」
オーランがしゃがれた声をあげる。
妻と同じ金髪のこの娘は、このおかしな話しあいのなりゆきをじっと見守っていたらしい。
後ろには眠そうな顔をした弟のザナもいる。
(おや、あれは)
またもミツルギの声。
夢とうつつの狭間を迷うような、はっきりとはしない状態にありながら、その思念の主はほぼ無意識のうちに記憶の糸を手繰っていた。
(見たことがあるぞ。あれは、確か……)
(エリンだよ)
ミツルギの思念に応じる、ウルの思念。
こちらもほぼ無意識だ。
肉体の内部で対話がなりたっているこの奇妙な状況は、個人の自問自答に似ている。
瞬間、『エリン』という名前に付随しているあらゆる場面が、双方の脳裏を駆け巡った。
場面とは光景であり、音声であり、感情。すなわちウルの記憶だった。
十年前にウルたちが村へ逃げてきたときは、まだオーランの母が村長をしていた。
ウルを家で預かると決めたのも彼女だ。
家族の反応は様々だった。
保守的なオーランの妻は猛反対したのだが、その説得に当たったオーラン自身も、実は反対派だった。
息子のザナも子供らしい反応でぐずった。
一方で、当時九歳の長女エリンは表立っての反対はしなかった。
が、歓迎していたわけでもないらしい。
実際、ウルが膨大な量で記憶しているエリンの姿は、そのほとんどがウルの視界からすると斜め、もしくは横を向いていた。
ウル自身が気おくれしているのか、それとも彼女のほうからウルを避けていたのか。
おそらく両方だろう、とミツルギは思った。
ただ、エリンは父とちがってなにかを高圧的にいいつけることはなかった。
もちろん、ザナのように虐めてくることもない。
ウルは、そんなエリンの二面性に困惑させられていたようだ。
そこになにかしらの期待もあったようだが、ミツルギの経験からして、
(最初から関心が薄かっただけだな。二面性などというほど複雑怪奇なことも、『おまえ』の期待するようなことも、いっさいない)
すぐにそう結論づけられた。
エリンは村での生活に飽いていて、何度か家出を試みたこともあったようだ。
こことはちがう『未来』を夢見るあまりに、ここでの日常がすでに『過去』になっている。
ミツルギはそんな男女を何度か見てきたし、本人にも覚えがあった。
そんな何事にも関心の薄かったエリンが、しかし、いまはそのまなざしにはっきりとした感情を乗せて、父をにらみつけながらいった。
「神の声を聞いた……って、それはつまり、村の誰かを、マガツ神への生贄に捧げるってことでしょう。どうしてそんな大事なことを黙っていたの?」
「い、生贄などというな。神の依り代となって、この地に命を永遠に根づかせるのだ。名誉なことではないか」
「名誉ですって? そう? わたしやザナが選ばれても同じことがいえる?」
オーランは、石をぶつけられたような顔をした。
そんな親の顔を見てエリンは嘆息した。
「やっぱり。ウルを、生贄に出すつもりなのね」
村人たちが声にならないどよめきを発した。
ウル自身が吹聴していたせいでもあるが、それ以前から、皆、なんとはなしに予感してはいたのだ。
そして――、
「父さん、そのために、ウルをお家で預かっていたの?」
エリンが放ったそのひと言も、皆が漠然と考えていたとおりの意味を含んでいた。
オーランはまたも激しい勢いで席を立った。
「ば、馬鹿なことを……。だっ、誰が、おまえにそんなことを吹き込んだのだ!? お袋が、ウルを預かると決めたのは、そんなことのためじゃ……」
「お婆ちゃんはそうじゃなかったかもしれない。でも、父さんは?」
ウルを家に迎え入れたオーランの母は、五年前に他界している。
オーランが村長になったのはそのときからだ。
「いつから、ウルを生贄に出そうって考えていたの?」
「なぜそう決めつける!」
「じゃあ、誰よ?」
目に激しい怒りをたたえてエリンは叫んだ。
「すぐにでも生贄を出さなきゃいけないんでしょう? 村長であるお父さんは、誰を生贄に選ぶの? わたしでもザナでもないなら、ほかの家の誰かなの? その人はもう自分の運命を知っているの?」
オーランは黙りこくってしまった。
痛いほどの沈黙が張りつめる一方で、
(ほら見ろ、ほら見ろ!)
ウルの思念は、はしゃいだような快哉をあげていた。
(おれを庇ってくれているじゃないか? 関心が薄いなんてよくもいえたな。エリンはおれのことをずっと気にかけてくれていたんだ!)
対するミツルギの思念はせせら笑いを含んでいた。
(おまえに複雑な感情があるとするなら、まさに『生贄』絡みだろうよ。おまえに対してやましくは思っていたのだ。おまえが騙して関係を結んだ、あのキャシーという娘と同じだ)
(だ、黙れよ。だからそれは、エリンがおれのことを気にかけてくれていたからこそ……)
(どうあれ、わしは好かんな)
(な、なんだって?)
(あの、心底から、自分のほうに絶対の正義があると信じきった表情が、声音が、断定が、気に喰わん。父親の抱える事情も知っていように、深く考慮しようともせず、おのれの感情だけを優先させて気持ちよくなっている。娘っ子ていどの薄っぺらい道義で、村の命を預かれるものかよ)
(てっ、手前……)
繰りかえすが、双方ともに状況を正しく認識していたわけではない。
半ば以上は夢見心地であり、ただ単に、近くに声を――というか、思念を受け取れる相手がいるものだから、本能的にやり取りをしているだけだ。
「わたし、いまでも覚えているのよ」
エリンはつづける。
腰の辺りで握り拳を震わせつつ、
「ウルの姉さん――リディのこと。ここに逃げ込んできたとき、煤で真っ黒になっていて、汗びっしょりで、あちこち生傷だらけで、そして怖いくらいに息を切らしていて……でも負ぶっていたウルのことを、なによりも気にかけていた」
そういうと、またも村人たちの雰囲気が変わった。
ここにいるたいていの者は、覚えているのだ。
エリンがいま脳裏に思い描いている光景を。
ウルも同様だった。
当時幼かった彼には、おぼろげなものでしかないが、三日三晩もウルの手を引いたたくましい腕を、そして時には疲れて動けなくなった弟を負ぶって山道をひた走った姉の背中を、忘れることはない。
やっとの思いで辿り着いた、この村。
オーランの母が、そんな二人を哀れんで家に入れてくれた。
十年前のオーラン、エリン、ザナが不安そうに見つめるなか、村長が用意してくれた湯気をあげるシチュー。
がっつきそうになるウルに、リディは「火傷してしまうわ。ゆっくり冷ましながら食べるのよ」と優しくいってくれた。
しかし、村は当時からマガツ神の保護下に置かれていたのだし、姉弟の事情を知った村人たちはもちろん、二人を受け入れることはできなかった。
「ユーフォリー人に追われているだって?」
「追っ手がここへ来たらどうするんです、村長? 二人を隠しとおすなんて不可能ですよ」
「いや、それどころか、ここにもマガツ神がいると知られたら、ついでのように攻められかねない!」
なるべく二人の耳に入らぬようにやり取りをしていたつもりの彼らだったが、ウルの姉は聡い人だった。
さすがにマガツ神が村にいることなどは知りようもなかったろうが、自分たちがどう見られているかなどはすぐに気づいたのだろう。
「リディがいたのは、たった三日。その三日のあいだ、夜はわたしの部屋で寝ていたわ。わたしはあの人が恐ろしかった。だって、村のみんなが、二人を疫病神扱いしていたから。声もかけられなかった。ベッドで震えていたわたしに、リディはいったのよ。『ごめんね』って。『みんなに迷惑をかけることはしないわ。わたしはすぐに出ていく。けれど、ウルのことだけはお願い。あの子にはなんの関係もないことなの』って」
そしてあとは、ウルが以前に語ったとおり。
単身村を飛び出たリディは、山の麓にまで迫っていた軍隊の前にあえて姿をさらすと、
「ここまでよく追いかけてきたな、ユーフォリー人! わたしこそが、おまえたちの探していた呪術師だ。そう、マガツ神を呼んで、大勢の人々を殺したのはわたしだ!」
両手を広げて、喉も裂けよとばかりに大声で叫んだ。
「だが、最初に虐殺を開始したのは誰だ? おまえたちユーフォリー人ではないか! 大陸に押しかけてきた貴様らは、手前勝手な正義と、痩せっぽっちの神の名のもとに、われら多数の民族を死に追いやったのではないか! その裁きを受けるときが来た。大罪人カリバーンの子孫どもよ、われらが神の怒りを、身をもって知るがいい!」
叫び終えたリディは広げていた両腕をまっすぐに掲げた――という。
遠巻きに様子を眺めていた村人たちは、その直後に、無数の矢が飛来する音を聞いた。
誰も直視できなかった。
数分後、重々しい甲冑を載せた馬たちのいななきが遠ざかっていった。
「もちろん、あの人が呪術師なわけはない。マガツ神を呼び出せたわけなんてない」
いつしかエリンの目には涙が溜まっていた。
「あの人は、守ったのよ。ウルのことだけじゃない。わたしたちのことも、守ってくれたのよ。そうでしょう?」
瞬きも忘れたその目から、自然と涙の粒がこぼれ落ちた。
(姉さん……)
夢見心地だったウルの思念も、同じく、感傷に浸った。
姉のおかげで今日があることを、そして明日が約束されていることを、ウルは一時も忘れたことなどなかった。
エリンが、少なからず同じことを思ってくれていたと知って、彼はあらゆることがいっぺんで報われたような気持ちにもなった。
「だというのに、彼女の弟を、村の生まれではないからという理由だけで、生贄に捧げていいの? それも、本当に、わたしたちが信仰してきた神なのかどうかもわからない、化け物なんかに!」
「やめろっ!」
オーランは娘に劣らぬ声を張りあげて制止した。
血の気が引いて、激情のあまりかむしろ表情を失った父の顔を見て、さすがにエリンは口をつぐんだ。
戸口にいたザナも、いつもの暴れん坊ぶりはどこへやら、父と同様にすっかり青ざめている。
「神を愚弄するな。それは、依り代となって村を守ってくれた人々への侮蔑でもあるのだぞ。われわれは、彼らへの、畏敬と感謝の気持ちを少しでも忘れてはならんのだ。そうだろう!」
テーブルに手をついた村長は、肩で息をしていた。
いったんは気圧されたエリンも、すぐにわれを取り戻し、引きさがるつもりはないといわんばかりに肩肘を張って父と対峙している。
村人たちが息を殺しながら互いの顔色をうかがっていたとき、
「つまり」
とソーヤが口を開いた。
切迫した雰囲気漂うなか、ただひとり、しらけたような顔で時間を持て余していた彼は、柱にくくりつけられたウルのほうを眺めつつ、
「この小僧をわれらに引きわたしたくないのは、マガツ神への供物にするから、という理由か」
といった。
「い、いや、それは」
「では、簡単な解決方法がある」
「解決方法?」
うろんげな表情になった村長へ、ソーヤは腕に抱いていた刀を掲げて、
「われわれが……いや、おれが、そのマガツ神を退治てくれよう。それならば生贄の問題は未来永劫なくなろう?」
片頬をゆがめて、酷薄な笑い方をした。




